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2017年10月29日日曜日

芥川龍之介『蜃気楼』-『蜃気楼』7[志村正彦LN167]

 『スクラップ・ヘブン』パンフレット(オフィス・シロウズ、2005/10/8)に、「DIALOGUE  李相日×志村正彦(フジファブリック)」という対談が掲載されている。志村正彦は、「蜃気楼」というタイトルの由来は?、という問いに対してこう述べている。   

 絶望だけで終わりたくない、かといって希望が満ちあふれた感じでもないなと思って、その迷っている感じですかね。実際に蜃気楼というものを見たことはないんですけど(笑)、その揺れている感じが合うかなと。

 志村は、「絶望」と「希望」という相反するものが揺れている「感じ」を重んじたようだ。「絶望」と「希望」のあわいにあるもの、「絶望」が「希望」にあるいは「希望」が「絶望」に反転していくような世界、そのようなイメージを「蜃気楼」に託そうとした。「絶望」と「希望」のあわいに「実像」と「虚像」が入り乱れるような光景を心に描いた。それが「蜃気楼」というイメージにつながったのだろうか、それでもなぜこの言葉を使ったのだろうか。

 文学作品の中で「蜃気楼」という言葉で思い浮かぶのは、芥川龍之介の短編『蜃気楼』(正確には『蜃気楼―或は「続海のほとり」―』)だろう。この作品は、1927年3月、芥川の死の半年ほど前に発表された。晩年を代表する小品で、評価が高い。
 志村はかなりの読書家だったことで知られている。彼がこの小説を読んだ可能性は大いにあると思われる。仮に読んでいなかったとしても、「蜃気楼」という作品の存在、その題名は知っていたはずだ。彼の記憶のどこかにこの言葉があっただろう。

 芥川龍之介の『蜃気楼』は次のように始まる。

 或秋の午頃、僕は東京から遊びに来た大学生のK君と一しょに蜃気楼を見に出かけて行った。鵠沼の海岸に蜃気楼の見えることは誰でももう知っているであろう。現に僕の家の女中などは逆まに舟の映ったのを見、「この間の新聞に出ていた写真とそっくりですよ。」などと感心していた。
 僕等は東家の横を曲り、次手にO君も誘うことにした。不相変赤シャツを着たO君は午飯の支度でもしていたのか、垣越しに見える井戸端にせっせとポンプを動かしていた。僕は秦皮樹のステッキを挙げ、O君にちょっと合図をした。
「そっちから上って下さい。――やあ、君も来ていたのか?」
 O君は僕がK君と一しょに遊びに来たものと思ったらしかった。
「僕等は蜃気楼を見に出て来たんだよ。君も一しょに行かないか?」
「蜃気楼か? ――」
 O君は急に笑い出した。
「どうもこの頃は蜃気楼ばやりだな。」

 「僕」は作者の芥川自身、「大学生のK君」が誰かは分からないが、「O君」は芥川の親友小穴隆一を指すものと思われる。虚構作品ではあるが、現実の出来事を素材にしていることは間違いない。「女中」の発言にある「この間の新聞」も実際に存在していたことを調査した研究もある。当時、舞台の鵠沼海岸に多くの見物客が訪れたようである。

 この後、この三人は海岸の方に歩いていく。特に事件が起きるわけでもなく、歩行中の会話や心象風景が次々と綴られていく。芥川が晩年唱えた、「話」らしい話のない小説の一種とも言われている。物語らしい物語がないとしても、何らかの表現のモチーフがあるだろう。それは何か。
 不気味なものに遭遇する。そのように「錯覚」する。作者芥川の分身である「僕」の不安が、中心的なモチーフとなっていると言えるかもしれない。「錯覚」という言葉が何度か繰り返される。

「好いよ。………おや、鈴の音がするね。」
 僕はちょっと耳を澄ました。それはこの頃の僕に多い錯覚かと思った為だった。が、実際鈴の音はどこかにしているのに違いなかった。僕はもう一度O君にも聞えるかどうか尋ねようとした。すると二三歩遅れていた妻は笑い声に僕等へ話しかけた。
「あたしの木履の鈴が鳴るでしょう。――」
 しかし妻は振り返らずとも、草履をはいているのに違いなかった。
「あたしは今夜は子供になって木履をはいて歩いているんです。」
「奥さんの袂の中で鳴っているんだから、――ああ、Yちゃんのおもちゃだよ。鈴のついたセルロイドのおもちゃだよ。」
 O君もこう言って笑い出した。そのうちに妻は僕等に追いつき、三人一列になって歩いて行った。僕等は妻の常談を機会に前よりも元気に話し出した。

  引用文の「妻」は芥川夫人の「芥川文(ふみ)」であろう。この場面では芥川、妻の文、小穴の三人が海辺を歩いている。「僕」は「鈴の音」が聞えるような気がする。「この頃の僕に多い錯覚」かと思うが「実際」にどこかで音がしているようにも思える。錯覚だろうか現実だろうか、そのように心が揺れること自体が「僕」は気がかりだ。その「僕」の不安を敏感に察した「妻」は「笑い声」で先を制すように「木履」を、「O君」も「鈴のついたセルロイドのおもちゃ」を原因として挙げる。「妻」も「O君」も笑いによって「僕」の不安を鎮めようとしている。その二人の想いが少しは通じたのか、「僕等」は「常談」として受けとめ、「前よりも元気に」話しだす。

 この場面はおそらく、芥川、妻の文、小穴隆一との間で現実にあった出来事であろう。妻の芥川に対する気遣い、小穴の友情が伝わってくる。暗い心象風景を描いたと言われる『蜃気楼』だが、この二人の言葉や心情がほのかな光を灯しているようにも読みとれる。

  (この項続く)

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