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2017年9月3日日曜日

CD版と映画版の差異-『蜃気楼』3[志村正彦LN163]

 中断していたフジファブリック『蜃気楼』について再開したい。

 第2回で書いたように、フジファブリック『蜃気楼』のCD収録のオリジナル音源(6thシングル『茜色の夕日』、『シングルB面集 2004-2009』収録)と映画のエンディングで使用されたバージョン(映画のタイムでいうと、「1:53:22」から「1:56:32」まで流れる)には違いがある。(以下、CD版と映画版と略記する)
 CD版の時間は5分55秒、映画版は3分10秒程度。この二つの差異には単純に時間を短くしたとは考えられない点がある。歌詞については次のような違いがある。八つある連を数字で示し、CD版のみにある部分(映画版にはない部分)を赤字で示す。


1  三叉路でウララ 右往左往
   果てなく続く摩天楼

2  喉はカラカラ ほんとは
   月を眺めていると

3  この素晴らしき世界に降り注ぐ雨が止み
   新たな息吹上げるものたちが顔を出している

4  おぼろげに見える彼方まで
   鮮やかな花を咲かせよう

5  蜃気楼… 蜃気楼…

6  この素晴らしき世界に僕は踊らされている
   消えてくものも 生まれてくるものもみな踊ってる

7  おぼろげに見える彼方まで
   鮮やかな花を咲かせよう

8  蜃気楼… 蜃気楼…


 第2連から5連までの赤い字の部分、映画版では省略された箇所に注目してみる。

 第2連は「喉はカラカラ ほんとは」という喉の渇きの叙述から始まり、「月を眺めていると」という「月」への視線に転換していく。「ほんとは」とあるが、何に対して「ぼんとは」と切り返しているのか分からない。「月」が現れるのも唐突だ。『スクラップヘブン』には「月」の場面は一度もないはずだ。映画の物語とは関係なく「月」は登場する。第1連からのつながりからすると、「摩天楼」との対比として視界に現れるのだろう。聴き手は自分自身のスクリーンに、「摩天楼」と「月」を映し出すことになる。

 第3連には「この素晴らしき世界」が登場する。そしてそこに降り注ぐ「雨」が止む。「雨」上がりの世界に何か新しい風景が現れるというのは志村の好んだ展開だが、ここでは「新たな息吹上げるものたち」が顔を出す。「息吹」は何かの兆しのようだ。

 第4連の「おぼろげに見える彼方まで」は「この素晴らしき世界」の彼方のことだろう。ここからその彼方まで「鮮やかな花を咲かせよう」とある。意味の流れからすると、顔を出している「新たな息吹上げるもの」が端的に「花」なのだろう。しかも「鮮やかな花」である。志村が最も愛した景物は「花」であることに間違いない。『蜃気楼』という曲も『スクラップヘブン』という映画も、色彩的にはモノクロームの世界だ。その世界に「鮮やかな花」が現れることに聴き手はある種の感動を覚えるかもしれない。、

 第5連の「蜃気楼… 蜃気楼…」は、第2・3・4連の展開の帰結として、それらの景物や風景の最終的なイメージを描くものとして登場する。すべては「おぼろげに見える」ようであり、その像や残像の重なり方が「蜃気楼」という比喩で語られている。

 「月」「雨」「花」という自然の景物がゆるやかに連関しあっている。歌の主体は、「この素晴らしき世界」の「おぼろげに見える彼方まで」視線を移動していく。その風景の彼方に「鮮やかな花を咲かせよう」という主体の意志あるいは祈りのようなものが重ねられる。

  映画『スクラップヘブン』には、激しい「雨」が降るシーンはあるが、「月」や「花」が登場するシーンはない。およそ美しい風景や景物とは無縁の世界が描かれている。この第2・3・4連の展開は、映画のストーリーは直接の関係がないと考えるのが妥当だろう。(第5連の「蜃気楼」は映画とも重なり合うが)
 CD版のみにある第2連から4連までの歌詞は、映画から(監督の意図や脚本)というよりも、それに触発されてはいるが、志村正彦自身のモチーフから創られたのではないだろうか。

 (この項続く)

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