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2017年9月30日土曜日

宮沢和史氏の講演会

 昨日、宮沢和史氏の講演会が勤め先の高校で開催された。(僕は主催者側の担当として企画と運営に携わった。教師は教科以外に様々な係の仕事を担っている。僕は「キャリア教育」という係に所属しているのだが、専門家の講演、大学との連携講座、事業所との連携事業やインターンシップなどが主な仕事だ。総合学科なのでその数や種類も多い。)
 今回は、宮沢さんの高校時代の同級生が二人この学校で教師をしていたり、宮沢さんが推進委員の代表となっている「未来の荒川をつくる会」(この荒川の近くに校舎がある。宮沢さんの実家も近くにあり、釣り好きの彼の歌の中にはこの荒川上流が舞台となっているものがある)の清掃活動に生徒が参加したりしている縁があったので、宮沢さんにはこの依頼をこころよく引き受けていただいた。

 題名は「山梨から沖縄、そして世界へ」。
 全校生徒と教職員そして聴講希望の保護者合わせて900人が体育館に集まった。雨上がりの暑い日で蒸し暑かった。映像投影のために黒いカーテンが閉められていた。九月の終わりなのに晩夏の季節のようだった。

 沖縄戦の話から始まった。生徒が想像しやすいように、甲府盆地を舞台にした喩えが使われ丁寧に説明されていく。沖縄戦の現実。沖縄でまだほんとうの意味では戦争が終わっていないこと。彼の落ち着いた低い声が場内に響いた。

 話の焦点は次第にザ・ブーム『島唄』にあてられていく。CD音源がかけられ、当時の写真がスクリーンに投影され、歌詞の「ダブルミーニング」が本人によって解き明かされていく。こういう機会はほとんどない。この歌を作った理由、この歌が沖縄の人々に反発されながらも次第に受け入れられていった経緯。歌詞が「二重構造」を持つとともに、音階の点でも沖縄音階と西洋音階の「二重構造」を持つこと。彼自身によってこの歌の歴史が語られ、彼自身の言葉で分析されていった。歌詞と音階の「二重構造」という表現が印象的だった。

 あくまで講演会であり音楽会ではないので、こちら側から歌を求めることはしなかったのだが、講演の最後に宮沢さんは三線を取り出し壇上から生徒のいるアリーナに降りていった。でもマイクスタンドは用意していない。PAも体育館の設備しかない。どうすればよいのだろうと一瞬困惑したのだが、彼はマイクを使わずに三線を抱えて弾きながら、そのまま歌い出したのだ。驚きと感激。こういう展開は予想していなかった。

 宮沢さんの声は中低域が厚く、独特の味わいがある。彼の声が体育館の大きな空間に広がっていく。確かな声量に圧倒される。


  島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ

  島唄よ 風に乗り 届けておくれ 私の愛を 


 歌い方や身体のリズムの取り方そして眼差しも、どこか遠い彼方に「声」を届けるように集中している。息は命であり、息がそのまま声となり言葉となっていく。講演も良かったのだが、やはり彼は歌い手だ。歌が彼の伝えようとしたことのすべてを伝えていた。ザ・ブームのライブで『島唄』は何度も聴いたことがあるが、昨日はこの歌の「真実」を経験したような気持ちになった。

 講演の前後に1時間半ほど、宮沢さんを囲んで色々な話を聞くことができた。久しぶりの同級生との再会ということで高校時代の思い出話もたくさんあった。僕はもちろん初対面だったので聞き役に回っていたのだが、少しだけ質問したいことがあった。その返答をここに書くのは控えるが、彼の考えをわずかではあるが知ることができた。この場を借りてあらためて感謝を申し上げたい。

 昨日、宮沢和史がひとりで自分の声だけで900人の聴衆のひとりひとりに届けようとした、そして確実に届いた『島唄』は、歌うという行為の根源的な力を表していた。そのことを繰り返し強調しておきたい。                               

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