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2017年9月10日日曜日

彼方の花-『蜃気楼』4[志村正彦LN164]

 前回、フジファブリック『蜃気楼』CD版の第2連から4連までの歌詞は、志村正彦自身のモチーフから創作されたという考えを記した。歌詞の言葉から考察したものだが、作者自身がこの点について発言したものがないかと資料を探してみた。入手できたのは次の四点である。

・『スクラップ・ヘブン』パンフレット(オフィス・シロウズ、2005/10/8)
・『スクラップ・ヘブン』スペシャルフォトブック(ワニブックス、2005/9/14)
・「シナリオ」2005年 11月号(シナリオ作家協会)
・『プラスアクト』2005年vol.06(ワニブックス)

 『スクラップ・ヘブン』パンフレットには李相日監督と志村正彦の対談、裏表紙の裏には『蜃気楼』歌詞が掲載されている。「シナリオ」2005年 11月号には『スクラップ・ヘブン』シナリオの全文が収録されている。『プラスアクト』2005年vol.06(株式会社ワニブックス)という映画雑誌には志村のコメントが載せられている。『スクラップ・ヘブン』スペシャルフォトブックには『蜃気楼』やフジファブリック関連の記事はない。

 この中では特に『プラスアクト』に非常に参考になる記事があった(文:鷲頭紀子)。志村はこの曲の成立過程について次のような貴重な証言を寄せている。少し長くなるが全文を引用したい。


最初、映画のエンディングテーマの話が来てるという話を聞いて、映像に音楽を付けてみたい願望は元々あったものの、その段階では決められなくて。やりたいと思えたのは、実際に映画を観てからですね。希望もあるんだけど、でも迷って、思いもよらない方向に物事が転がっていく、そのもがいて進んでいく感じがバンドの活動や日々の生活していく上で自分が感じていることと、通じるものがあるなと思ったんです。実際の作業は凄い難しかったです。劇中に流れている音楽とのバランスや、李監督の要望も考えつつ、でもフジファブリックとしてもいい曲にしたいというのがあったので。バンドメンバーと映画を観て、どういう曲が合いそうかセッションを繰り返して、それを絞り込む時が一番悩みました。いつもは曲が先行のことが多いんですが、『蜃気楼』は曲と歌詞がほぼ同時進行でした。その時浮かんでいたのは、霞がかかった何もない所で、映画の主人公なのか僕なのかわからないですけれどウロウロしてる時に、色んな人が来たり、色んな風景が通り過ぎて”どうしよう”という感じ。『スクラップ・ヘブン』を観終えた時、”ちょっとどうしよう…”って感覚が自分の中にあって、でも、そう思う中にも、おぼろげだけど希望が見えている。希望とは言っても、具体的な何かじゃないから生々しくてリアルだなぁと思ってたんですよね。だから映画を観ていない人でも『スクラップ・ヘブン』を観た後の、そういう感覚を想像出来るような曲に『蜃気楼』はしたいと思っていました。李監督にはメールで感想を貰いました。最初に「”映画を観終わった”という感じが欲しい」という要望を頂いてたんですが、「それが出来て良かったです」というような内容でしたね。今回初めてこういう、映画の音楽をやってみて、お互いの感覚がぶつかり合ってる感じが楽しかったです。映像と音楽と両方で作り上げてるというか、両方を一緒にやれることの凄さを発見しました。
  (フジファブリック 志村正彦)

           
 いくつか重要なことが語られている。
 映画のエンディングテーマとして監督の要望に応えると共に「フジファブリックとしてもいい曲にしたい」という意欲や映画を観ていない人でも『スクラップ・ヘブン』を観た後の感覚を想像出来るような曲にしたいという想いから、映画のテーマ曲であると同時に自立した音楽作品を試みた志村の意気込みが感じられる。結果として、この二つを狙ったことが『蜃気楼』の質を高めた。

 さらに歌詞の内容に関わる重要な証言がある。「霞がかかった何もない所で、映画の主人公なのか僕なのかわからないですけれどウロウロしてる時に、色んな人が来たり、色んな風景が通り過ぎて”どうしよう”という感じ。」という箇所だ。

 『蜃気楼』は、歌詞中の言葉としては「僕」や「私」という一人称代名詞は登場しないが、潜在的な一人称の主体からの視点で歌われている。通常の映画テーマ曲であれば、歌の主体は映画の主人公として設定されるだろうが、『蜃気楼』の場合はやや異なる。歌の主体は映画の主人公であると共に、音源の作者である志村の分身のような存在であるようなのだ。

  志村は、曲と歌詞がほぼ同時進行の制作過程で浮かんでいたのは、「映画の主人公なのか僕なのかわからない」主体が遭遇する人や風景だったと述べている。彼はこの映画の主人公「シンゴ(テツやサキ)」とかなりの程度同一化してこの映画を鑑賞したようだ。その経験が『蜃気楼』の歌詞にも影響を与えている。その痕跡が、第2連から4連までの歌詞に現れているのではないだろうか。

 もう一度、第2連から4連までに第5連も加えて引用しよう。CD版にしかない部分、映画版では省略されている部分である。

 
2  喉はカラカラ ほんとは
   月を眺めていると

3  この素晴らしき世界に降り注ぐ雨が止み
   新たな息吹上げるものたちが顔を出している

4  おぼろげに見える彼方まで
   鮮やかな花を咲かせよう

5  蜃気楼… 蜃気楼…


 『プラスアクト』収録のコメントを一つの根拠にして考察すると、この部分の主体はやはり作者志村正彦の分身のように思われる。「月」「雨」という自然の風景。そして何よりも「花」の登場。「蜃気楼」の出現。映画自体にはこの部分と関連する具体的なシーンはない。どこかで無意識に触発された可能性はあるが、作者の志村が想像した世界であり、伝えようとしたモチーフではないだろうか。

 歌の主体は、「この素晴らしき世界」の彼方に「鮮やかな花を咲かせよう」という願いとも祈りともとれる言葉を紡ぎ出す。蜃気楼が、光の異常な屈折のために空中や地平線近くに遠方の風物の像が見えたり、像の位置が倒立したり実在しない像が現れたりする現象だとするなら、歌の主体が世界の彼方に咲かせようとする「鮮やかな花」とはまさしく蜃気楼のような像かもしれない。
 この「鮮やかな花」が「蜃気楼」のように作者志村正彦の心のスクリーンに出現したのであろう。

  (この項続く)

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