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2017年7月30日日曜日

鏡に映し出された「覚悟」-『ダンス2000』[ここはどこ?-物語を読む9]

  ディスコと言うと年がばれるが、ディスコにしろクラブにしろ縁のない人生を送ってきた。オバサン世代にとって、ディスコと言えばマハラジャか。バブルとボディコンとお立ち台と羽扇、行ったことはないけれど、ずいぶん映像化されたし、イメージはできる。もちろんそこに身を置いていた人たちとは、全く実感は違うのだろうけれど。

 世の中がバブルに浮かれていたころ、裸電球の四畳半に住んでいた。「神田川 」の時代からはだいぶ時が経っていて、さすがに遊びに来た友達が驚くほどのぼろ屋だったが、駅にも近くて、お風呂もあって、新宿や渋谷に20分くらいで行けるその部屋をそれほど不満に思ってはいなかった。映画や芝居を観に行ったり、ライブに出かけたり、友達と居酒屋で飲んだり、本を読んだり、やりたいことは山のようにあって、踊りに行くという選択肢は優先順位をつけると底につきそうなくらい低かった。理由はいろいろある。お金がかかる(当時、若い女の子が自分でお金を払おうと考える時点で既にずれていたかもしれない)。ボディコンが着られない。特段ディスコミュージックが好きではない。そこで心を通わせる男の人に会えるとは思えない(もしかしたらいたかもしれないけれど)。まあ 、一言で言ってしまえば、私はディスコに似合わなかったのだ。

 時代的に『ダンス2000』の舞台はクラブだろうか。どちらも縁のないオバサンにはディスコとクラブの違いが奈辺にあるかわからない。わかるのは『ダンス2000』の主人公がその場に全く似合っていないということである。


  ヘイヘイベイベー 空になって あの人の前で踊ろうか
  意識をして 腕を振って 横目で見てしまいなよ

  少しの勇気 振り絞って

  いやしかし何故に いやしかし何故に
  踏み切れないでいる人よ


 出だしこそ「へイヘイベイべー」と始まるものの、これは一種の記号のようなものだ。自分が軟派で軽い男(女の人のセリフとは思えないので)であると世間に示しているのだが、そのポーズはあっという間に崩れてしまう。「空になって……踊ろうか」とか「意識をして腕を振って」とか、わざわざ言うのは、主人公である《彼》があえて意識をしなければそうできないことを物語っている。


 また、この曲でもっともインパクトのある歌詞「いやしかし何故に」にも《彼》の性格は表れる。「いや」はそれまで考えていたことに疑いを持って立ち止まることばだ。「しかし」はそれまで考えていたこととは違う方向に向かうことばだ。「何故に」は理由を探ることばだ。たったワンフレーズの間に《彼》の頭は目まぐるしく回転している。この主人公は忘我とか没頭とか夢中とかいうダンスの世界とはずいぶん遠いところにいるように思える。

 実は『ダンス2000』の物語は何気ないようでいて意外と手ごわい。出だしの2行からして、誰が誰に何を言っているのかという単純な点でさえ、いくつかの解釈が考えられる。

①主人公である《彼》が自分自身に言っている。
 この場合は「ベイベー」が「あの人」で、その前で踊ってアピールしようということだろう。しかし、そうなると「横目で見てしまいなよ」が気になる。「しまいなよ」というのは自分自身に呼びかけることばとは思えないからだ。
②主人公である《彼》が「ベイベー」に促している。
 この場合は主人公と「ベイベー」の他に第三者の「あの人」がいることになる。「横目で見てしまいなよ」は「ベイベー」に向けられたことばとして違和感はなくなるが、今度は「あの人の前で踊ろうか」が難しくなる。自分と「ベイベー」の二人であの人の前で踊ろうと誘っているとも考えられるし、演出家が演者に演技をつけているように「ベイベー」に「やってみなさい」と言っているようにも感じられる。

 どう解釈しても聴き手の自由だが、私自身は②の方がしっくりくるので、今回は②の解釈に沿って進めてみたい。

 ②だと「ベイベー」を誘っているのかと思って聴いていたら、実は第三の人物「あの人」にアピールするように「ベイベー」を促していたということになる。しかし、《彼》の思いとは違って、「ベイベー」は「あの人」を横目で見ながら踊ることに踏み切れないでいる。何故踏み切れないのかと言いながら、《彼》の中に去来しているものはどのような感情なのだろう。もどかしさか、それとも裏腹な安堵感だったのか。それは《彼》と「ベイベー」の関係による。単純に彼女の恋を応援している知り合い、実は彼女のことが気になっているが彼女の気持ちが別の人にあることに気付いている内気な友人、たまたまその場で彼女を見かけた赤の他人、いろいろ考えられる。

 いずれにしても「踏み切れないでいる人よ」という時点まできて、これは観察者の視点だと気づかされる。つまり「ヘイヘイベイベー」以降これまでのことばは、彼女に直接語りかけたのではなく、彼女の観察者である《彼》の内心の声であると捉えることができる。「ヘイヘイベイベー」と「いやしかし何故に」が同じ人の口から発せられるのは違和感があるが、内心の声だとすれば納得がいく。
 わが主人公はいつの間にか当事者から観察者になってしまっているのだ。

 しかし、この曲はなかなか聴き手に一つの物語を描かせてはくれない。主人公はすぐに観察者の立場を放棄して、自分の気持ちを吐露し始める。


  ヘイヘイベイベー 何をやったって もう遅いと言うのなら
  今すぐでも投げ出す程の 覚悟ぐらいできてるさ


 ここに描かれるのが、「ベイベー」と《彼》と二人の関係だとすれば、「ベイベー」に「もう遅い」と言われるのは《彼》で、「投げ出す程の覚悟」をしているのも《彼》である。第三者である「あの人」に好意を寄せる彼女にとって、今さら《彼》が何をしても心が動くことはなく、《彼》は自分の恋をあきらめる覚悟をしていると解釈することもできる。だが、「もう遅いと言うのなら」と仮定表現になっているのだから、まだ「もう遅い」と言われたわけではない。「少しの勇気振り絞って」一発逆転を狙うこともできるはずだ。 しかし、「踏み切れないでいる人よ」と《彼》は今度は自分自身の観察者になる。
 
 それも一つの物語だ。しかし、ディスコに似合わなかったオバサンには、クラブに似合わない《彼》を主人公にした、もう一つの捨てきれない物語がある。

 「ベイベー」と《彼》とは赤の他人だ。心ならずもこの場にやってきた主人公はなじむことも楽しむこともできずに観察者としてフロアを眺めているうちに「ベイベー」を発見し、「あの人」を意識しながらアピールすることすらできない彼女をひそかに応援する。そして、遠くからひそかに彼女に向けて自らの決意を語る。それは《彼》がここにやってくる前からずっと考えてきたことなのだろう。何が「もう遅い」のか、何を「投げ出す」「覚悟」なのかはわからないが、それは《彼》にとって人生を左右する大切な事なのだ。《彼》は誰かに向けてその覚悟を語らなければならない。その誰かが、家族でも恋人でも友達でも同僚でもなく、赤の他人の、ことばを交わしたことすらない「ベイベー」であ るというようなこともあり得ると思うのだ。たぶん「ベイベー」はその場で《彼》が見つけた鏡なのだろう。鏡に映し出された「覚悟」とためらいを行きつ戻りつしている自分を眺めながら、《彼》は狂騒の中で独り異次元を生きている。

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