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2017年4月10日月曜日

「愛をこめて手紙を」[志村正彦LN156]

 金曜日、たまたまNHKのニュースチェック11を見ていると、最後の「きょうの一曲」でフジファブリック『桜の季節』がかかった。「この季節に聴きたくなる大好きな曲」というコメントでリクエストされていた。地上波で思いがけなくあのメロディが流れると、心がどことなく燥ぐ。

 土曜日、勤務先の高校で入学式があった。ここ数年、桜の開花がはやく、入学式の日にはすでに散りかけていた。今年はどこもそうであるように開花が遅く、桜はその盛りを迎えようとしていた。新入生とその保護者が正門近くの桜の樹の下で記念写真を撮影していた。桜の花びらが樹と人を、そして人と人を結びつけていた。桜のそばに人がいるとぬくもりのようなものが漂う。

 日曜日、甲府盆地の桜が満開だという報道があった。

 『桜の季節』の中にも、桜が人と人とを結びつけるモチーフがある。手紙のモチーフだ。


    ならば愛をこめて
  手紙をしたためよう
  作り話に花を咲かせ
  僕は読み返しては 感動している!


 以前書いたこととかなり重複するが、この「手紙」について再び触れてみたい。志村正彦は『音楽と人』2004年5月号でこの歌について語っている。インタビューした上野三樹氏はこう問いかける。


 -今作の「桜の季節」は手紙がモチーフですが。手紙って、よく書かれますか。

「ほとんどないです。今って、メールがあるから、みんな手紙って書かないですよね。だから誰かが時折、手紙をくれたりすると驚くじゃないですか。家の母親とかよく送ってくるんですけど。そういうハッとする感じを出したかったんです。」

 -お母さんに返事書かなきゃ。

「書かないです!恥ずかしい。(後略)


 -しかも結局書いたけど出してないでしょ、この曲。

「そうです。手紙を書いて、そこで終了している曲です。」

 -そこでまたひとりになると。

「そうですね。」


 作者自身が「手紙を書いて、そこで終了している曲」だと述べている。「手紙」は宛先人に届くことなく、差出人のもとに留まる。歌の主体は「ひとり」になる。きわめて志村らしい展開ではある。
 手紙を書く機会が減ったとはいえ、誰もが手紙を書いたがそれを相手に送らなかった経験はあるだろう。葉書やメールの場合でもよい。書き終わっただけで心が整理できたり、目的のようなものが達成できたりする。そんなこともあろう。手紙はその宛先人という他者に向けて書くと同時に自分に向けて書くものでもあるからだ。書かれただけで投函されなかった手紙。でも、それは宛先人にほんとうに届いていないのだろうか。そんなことをふと考えた。

 手紙はつねに宛先に届く、と精神分析家ジャック・ラカンは著書『エクリ』の冒頭「『盗まれた手紙』についてのゼミナール」で書いている。この言葉を詳述することは控えるが、確かに、一度書かれたものは書かれた時点で少なくともどこかに他の場所に届いているような気もする。そもそも手紙は誰が誰に向けて書いているのだろうか。手紙は不可思議なものでもある。

 「愛」をこめてしたためた「手紙」は、志村正彦の作品そのものの喩えである。歌詞の中の一つの言葉がその歌詞全体を指し示す言葉にもなる。そのように捉えてみる。
 ならばこう考えよう。この作品の聴き手である私たちは、この作品の宛先人でないにしろ、受取人の一人となることができる。「僕」が読み返して「感動している!」もの、「花を咲かせ」た「作り話」は、作品という手紙を通じて私たち受取人に届く。しかも、そこには「愛」がこめられている。『桜の季節』そのものが春という季節の手紙となる。

 毎年この季節に、この手紙は私たちに届けられる。その手紙にこめられた「愛」もくりかえしくりかえし届けられるのであろう。

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