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2017年4月30日日曜日

『セレナーデ』ー言葉のない世界 [志村正彦LN157]

 一月ぶりに、志村正彦・フジファブリックの『セレナーデ』に戻りたい。
 はじめに、[3b-4c]と[6b-7c]の部分をもう一度引用する。


3b 木の葉揺らす風 その音を聞いてる
  眠りの森へと 迷い込むまで

4c 耳を澄ましてみれば 流れ出すセレナーデ
  僕もそれに答えて 口笛を吹くよ

6b 鈴みたいに鳴いてる その歌を聞いてる
  眠りの森へと 迷い込みそう

7c 耳を澄ましてみれば 流れ出すセレナーデ
  僕もそれに答えて 口笛吹く


 3b「迷い込むまで」から6b「迷い込みそう」へ、4c「口笛を吹くよ」から7c「口笛吹く」へと表現を変化させて、作者の志村正彦は、歌の主体「僕」が「眠りの森」へと迷い込むまでの時間や意識の変化を描いた。

 つぎに、[3b-4c]と[6b-7c]以外の部分、1a・2a・5aを[1a-2a-5a]という括りにして引いてみよう。


1a 眠くなんかないのに 今日という日がまた
  終わろうとしている さようなら

2a よそいきの服着て それもいつか捨てるよ
  いたずらになんだか 過ぎてゆく

5a 明日は君にとって 幸せでありますように
  そしてそれを僕に 分けてくれ


 [1a-2a-5a]には、1a「今日という日」の終わり、2a「いたずらになんだか過ぎていく」時、5a「明日」への祈り、というように、今日から明日へと流れていく時の層に、歌の主体「僕」の日々の想いが重ねられていく。
 二つに分けた[1a-2a-5a]と[3b-4c][6b-7c]とは、言葉もメロディも別の系列に属している。

 [3b-4c][6b-7c]の部分は、「眠りの森」「セレナーデ」「口笛」のモチーフから成る。歌の主体「僕」は「流れ出すセレナーデ」に答えて「口笛吹く」。ここからは想像だが、セレナーデに誘われるようにして、「僕」は眠りについたのではないだろうか。「僕」は夢の中でそのまま「セレナーデ」を聞いている。木の葉の音、風の音は夢の中の音へと変わっていく。この曲は冒頭から、虫の音、小川のせせらぎ、自然の音がずっと鳴り続けている。自然の奏でる音と楽曲の音とが混然一体となっていく。それらの音のすべてが眠りに誘い込むように。

 言葉では語られていない部分をさらに想像で補ってみる。
 「僕」の夢の中で、「僕」は「君」に会いに行く。「僕」と「君」との逢瀬がどのようなものであったか。すべては夢の中の出来事。起きたことも起こりつつあることもこれから起きることも夢から覚めた後には消えてしまう。

 夜明けが近づく。「僕」の夢が終わろうとしている。「セレナーデ」も終わろうとしている。夢からの覚醒の直前か、あるいは覚醒の瞬間か、「僕」は「君」に最後の言葉を告げようとする。


8c そろそろ 行かなきゃな お別れのセレナーデ
  消えても 元通りになるだけなんだよ

 
 「お別れのセレナーデ」が響く。「僕」はどこに行くのだろう。夢の中の出来事であれば「消えても 元通りになる」。「僕」は「君」にそう言い聞かせる。夢の中の世界は消えても、元の世界はそのまま在り続ける。そのようなあたりまえの事実が残るのか。
 そのように解釈しても、理屈で捉えてみても、あたりまえすぎるこの最後のフレーズが作用する、あたりまえではない力を受け止めることはできない。「そろそろ 行かなきゃな お別れのセレナーデ/消えても 元通りになるだけなんだよ」は、このフレーズを聞き終わった後も、どこかでこだまし続ける。まるで現実と夢との狭間にこびりついて、意識と無意識との合間のような場所に固着して。

 そうこうしているうちに、「お別れのセレナーデ」は虫の音の高低や小川のせせらぎの重なる自然の音の群れに溶け込んでいく。聴き手もまた「眠りの森」へと迷い込んでいく。『セレナーデ』が言葉のある世界から言葉のない世界へと連れていく、かのように。

   (この項続く)

2017年4月26日水曜日

Jack Bruce『Theme For An Imaginary Western』

 前回、Felix Pappalardiが歌う『Theme For An Imaginary Western』の映像を紹介した。ネットで関連映像を探すと、Jack Bruceがピアノ弾き語りで歌うものが見つかった。しかも、「Felix Pappalardi、我が友に捧げる」と告げて歌い出している。





 1990年10月17日、ドイツのテレビ音楽番組『Rockpalast』のために、ケルンのLive Music Hallで収録されたようだ。もともとこの歌は1969年リリースのJack Bruceのソロ1stアルバム 『Songs for a Tailor 』で発表された。プロデューサーはFelix Pappalardi。そのような関係から、後にMountainの1stアルバム『Climbing!』にも収録されたのだろう。
 作曲はJack Bruce。作詞のPete Brownは1940年生まれの朗読詩人、作詞家、歌手。Bruce/BrownのコンビでCreamの代表作を作った。
 歌詞を引いてみたい。

  When the wagons leave the city
  For the forest, and further on
  Painted wagons of the morning
  Dusty roads where they have gone
  Sometimes traveling through the darkness
  Met the summer coming home
  Fallen faces by the wayside
  Looked as if they might have known
  Oh the sun was in their eyes
  And the desert that dries
  In the country towns
  Where the laughter sounds

  Oh the dancing and the singing
  Oh the music when they played
  Oh the fires that they started
  Oh the girls with no regret
  Sometimes they found it
  Sometimes they kept it
  Often lost it on the way
  Fought each other to possess it
  Sometimes died in sight of day

 『想像されたウェスタンのテーマ』という直訳の邦題が付けられているように、架空のの西部劇の物語のための主題歌なのだろう。風景の描写が巧みでまさしく想像力が喚起される。しかし、歌の中心軸はつかみにくい。最後の部分で繰り返される「it」が何を指すのか判然としないからだ。歌詞の中のモチーフというよりも、「Theme For An Imaginary Western」という「Theme」自体を指し示しているのだろうか。私たちが探し続けている「it」としか名付けようのない何かなのか。聴き手にゆだねられていると考えてよいのか。

 それでも最後の「Sometimes died in sight of day」に引きずられて勝手に想像してみると、歌詞の全体が死者の視線からの光景を描き出しているようにも感じられる。これはFelix Pappalardiの死という事実から逆に投影された解釈であるのだろうが、この歌詞の描く風景の底にはある種の儚さ、朧げな感じが横たわり、生き生きとした実感がないことからも来ている。もう見ることのできない夢の中の光景のようでもある。

 このライブでJack Bruceは、人生の旅の途中で倒れたロック音楽の開拓者Felix Pappalardiに捧げてこの『Theme For An Imaginary Western』を歌ったのは間違いない。
 Jack Bruceも2014年10月25日に71歳で亡くなった。肝臓の病気が原因のようだ。
 ブルース・ロックを基調にしながら、その定型を超えて、サウンド面でも歌詞の面でも新しい世界を創造した貢献者が、Jack Bruce、Pete Brown、そしてFelix Pappalardiだった。「ロックンロール」とは異なる「ロック」音楽の源を彼らは造った。

2017年4月17日月曜日

Felix Pappalardiの手紙

 今夜は激しい雨が降っている。
 桜の季節の終わりには冷たい大粒の雨が降る。毎年そうとは限らない。でも、いつもそんな気がする。

 ブログを書き始めるとき、一年前に何を書いたのか振り返ることがたまにある。昨年の今日、4月17日は「Felix Pappalardiの悲劇」という題だった。この日は彼の命日。それから1年後の今日も再び彼に関するある出来事に触れてみたい。『桜の季節』の「愛をこめて手紙をしたためよう」に触発されてなのか、ある手紙のことを思い出している。

 僕はFelix Pappalardi(フェリックス・パッパラルディ)に手紙を書いたことがある。1973年夏の武道館ライブの後のことなので、その年の秋だったように思う。もう四十数年の時が流れているので記憶はおぼろげだ。

 当時の僕は中学三年生。そのレベルの拙い英語で何を書きたかったのか、どうしてファンレターを書く気になったのかもはっきりしないが、Mountain(マウンテン)の武道館ライブを直に聴いた感動を言葉にして伝えたい欲望があったとしか言いようがない。(それはこのようなブログを書いている今とどこかでつながっているのかもしれない)
 後にも先にもこれ以外にファンレターを書いたことはない。もちろん初めてのAir Mailだった。ほとんど自己満足のようなものだから、書けばそれで終わりでもよかったのだろうが、結局、僕は投函した。宛先は所属先のアメリカのレコード会社だった。

 冬が近づく頃、Air Mailの手紙を生まれて初めて受け取った。どうして海外から手紙が届くのか、よく分からないままに封筒を見ると、Felix Pappalardiという文字があった。信じられないまま開封すると、すべて自筆で書かれた便箋三枚があった。末尾にFelix PappalardiとGail Collins の連名の署名があった。便箋はロサンゼルスのホテルのもので、とても薄くて独特の手触りの紙だったことをよく覚えている。滞在先のホテルで二人が書いたのだろう。

  ファンレターに対する形式的な内容の返信かもしれないとも思ったが文面を読むと、僕の手紙に対する本人の言葉としか思えない感触が確かにあった。武道館ライブの感想に対する感謝の言葉、制作中のアルバム(名前はなかったが、翌年の1974年にリリースの『Avalanche(雪崩)』というアルバムを指していたのだろう)についての言及、日本に対する印象や関心が綴られていたと記憶している。記憶しているとしか書けないのは、その後、東京での学生生活を含め三度ほどの転居でその手紙が行方不明になってしまったからだ。(まだどこかにあるのではないかという望みは捨てていない。僕にとっての宝物であるこの手紙を失うことは残念というよりも、申し訳ないというか罪のようなものを感じてしまう)

 制作中のアルバムのコピーを送ってもよいとも書かれてあったが、畏れ多いような気持ちになって、どう返事を書こうかなどと考えているうち に時間が経ち、返信の機会を失くしてしまった。そのことにもどこか罪の気持ちが残っている。
 極東の国の素性も分からない一少年からのたどたどしいファンレターに、Felix PappalardiとGail Collins は誠実にあたたかい文面の手紙を返してくれた。今日はそのことをこの場に記しておきたかった。

 70年代前半の時代にはまだどこかに、ロック音楽を通じた音楽家と聴き手との間のつながり、音楽を通じた共同体という理想が共有されていたのかもしれない。それはある種の美しい幻想だったのだろうが、Felix Pappalardiからの手紙は現実の出来事だった。

 Felix Pappalardiが歌う映像をネットで探した。Mountain の『Theme For An Imaginary Western (想像されたウェスタンのテーマ)』。Pappalardi/Collinsのオリジナル作品ではなく、作曲JACK BRUCE /作詞 PETE BROWNだ。JACK BRUCEのソロアルバムで発表され、後にMountainがレコーディングした。
 映像は1970年夏の「the Cincinnati Pop Festival」を収録した番組「Midsummer Rock Festival」のもの。タイムコードが入っているので編集段階のようだ。画質が粗いが、あの時代のロックフェスティバルの雰囲気が濃厚だ。四人のオリジナルメンバー、ギターLeslie West(レスリー・ウェスト)、ドラムスCorky Laingコーキー・レイング、キーボードSteve Knight(スティーヴ・ナイト)と共に演奏しているのも貴重だ。

 彼の声は憂愁をおびているが、のびやかで力強く広がっていく。




  手紙を受け取った十年後、1983年にFelix Pappalardiは亡くなった。彼の手紙が行方不明のままだということがずっと心の痛みとなっている。

2017年4月10日月曜日

「愛をこめて手紙を」[志村正彦LN156]

 金曜日、たまたまNHKのニュースチェック11を見ていると、最後の「きょうの一曲」でフジファブリック『桜の季節』がかかった。「この季節に聴きたくなる大好きな曲」というコメントでリクエストされていた。地上波で思いがけなくあのメロディが流れると、心がどことなく燥ぐ。

 土曜日、勤務先の高校で入学式があった。ここ数年、桜の開花がはやく、入学式の日にはすでに散りかけていた。今年はどこもそうであるように開花が遅く、桜はその盛りを迎えようとしていた。新入生とその保護者が正門近くの桜の樹の下で記念写真を撮影していた。桜の花びらが樹と人を、そして人と人を結びつけていた。桜のそばに人がいるとぬくもりのようなものが漂う。

 日曜日、甲府盆地の桜が満開だという報道があった。

 『桜の季節』の中にも、桜が人と人とを結びつけるモチーフがある。手紙のモチーフだ。


    ならば愛をこめて
  手紙をしたためよう
  作り話に花を咲かせ
  僕は読み返しては 感動している!


 以前書いたこととかなり重複するが、この「手紙」について再び触れてみたい。志村正彦は『音楽と人』2004年5月号でこの歌について語っている。インタビューした上野三樹氏はこう問いかける。


 -今作の「桜の季節」は手紙がモチーフですが。手紙って、よく書かれますか。

「ほとんどないです。今って、メールがあるから、みんな手紙って書かないですよね。だから誰かが時折、手紙をくれたりすると驚くじゃないですか。家の母親とかよく送ってくるんですけど。そういうハッとする感じを出したかったんです。」

 -お母さんに返事書かなきゃ。

「書かないです!恥ずかしい。(後略)


 -しかも結局書いたけど出してないでしょ、この曲。

「そうです。手紙を書いて、そこで終了している曲です。」

 -そこでまたひとりになると。

「そうですね。」


 作者自身が「手紙を書いて、そこで終了している曲」だと述べている。「手紙」は宛先人に届くことなく、差出人のもとに留まる。歌の主体は「ひとり」になる。きわめて志村らしい展開ではある。
 手紙を書く機会が減ったとはいえ、誰もが手紙を書いたがそれを相手に送らなかった経験はあるだろう。葉書やメールの場合でもよい。書き終わっただけで心が整理できたり、目的のようなものが達成できたりする。そんなこともあろう。手紙はその宛先人という他者に向けて書くと同時に自分に向けて書くものでもあるからだ。書かれただけで投函されなかった手紙。でも、それは宛先人にほんとうに届いていないのだろうか。そんなことをふと考えた。

 手紙はつねに宛先に届く、と精神分析家ジャック・ラカンは著書『エクリ』の冒頭「『盗まれた手紙』についてのゼミナール」で書いている。この言葉を詳述することは控えるが、確かに、一度書かれたものは書かれた時点で少なくともどこかに他の場所に届いているような気もする。そもそも手紙は誰が誰に向けて書いているのだろうか。手紙は不可思議なものでもある。

 「愛」をこめてしたためた「手紙」は、志村正彦の作品そのものの喩えである。歌詞の中の一つの言葉がその歌詞全体を指し示す言葉にもなる。そのように捉えてみる。
 ならばこう考えよう。この作品の聴き手である私たちは、この作品の宛先人でないにしろ、受取人の一人となることができる。「僕」が読み返して「感動している!」もの、「花を咲かせ」た「作り話」は、作品という手紙を通じて私たち受取人に届く。しかも、そこには「愛」がこめられている。『桜の季節』そのものが春という季節の手紙となる。

 毎年この季節に、この手紙は私たちに届けられる。その手紙にこめられた「愛」もくりかえしくりかえし届けられるのであろう。