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2017年3月29日水曜日

FM-FUJI『桜の季節』[志村正彦LN155]

 ここ二三年、定点観測している桜の樹。蕾が膨らんでその先端が濃い桜色に染まっているのだが、まだ開花はしていない。予想より遅れているのはここ数日の寒さのせいだろう。一昨日は富士北麓地域にはかなりの雪が降った。甲府から見える富士山も雪山にすっかり戻ってしまった。

 昨年の秋、この桜の樹の葉はその前の年よりはやく枯れだした。何となく勢いがないので少し心配していたのだが、冬を無事に越えて、花開く準備をしている。
 「桜は常にそこにある」とある生徒が書いたことは以前紹介した。確かに、桜は常にそこにあり、そして時の循環を歩み続けている。

 昼、たまたま車に乗っていた。地元の局なのでエフエム富士にチューニングを合わせることが多い。十二時半頃、突然、あのメロディが聞こえてきた。フジファブリック『桜の季節』だ。ラジオで聞くのは格別の味わいがある。なぜだろう。同じ時間に様々な場所で聞いているリスナーと楽曲を共有しているからだろうか。

 今日は、志村正彦の声がFM波に乗って山梨の地に降り注いているような気がした。『桜の季節』が桜の季節の到来を告げていた。甲府盆地では明日か明後日にはおそらく開花するだろう。彼の故郷富士吉田は冬の寒さが厳しいところなので、四月の中下旬が桜の季節となる。

 『桜の季節』 from 「Live at 富士五湖文化センター」という映像がUNIVERSAL MUSIC JAPAN のyoutubeにある。LIVE DVD BOX   『FAB BOX II』、単品の『Live at 富士五湖文化センター』に収められたものの短縮版である。2008年5月31日の収録、山梨で歌われた最初で最後の『桜の季節』となった。言葉を一つ一つ確かめるようにして伝えようとする志村の姿がある。
 



 この歌に出会って以来、桜を見ることと『桜の季節』を聴くこと、その経験が分かちがたく結びつくようになった。今年はどのような経験をするのだろうか。

2017年3月26日日曜日

『セレナーデ』の「眠りの森」[志村正彦LN154]

 前回、『セレナーデ』の歌詞の構成を1a-《[2a-3b-4c]-[5a-6b-7c]》-8cと仮定してみた。今回は、1aと8cとの間に挿まれた《[2a-3b-4c]と[5a-6b-7c]》のブロックを考察したい。この中でも対になっているのは[3b-4c]と[6b-7c]の部分である。
 始めに[3b-4c]を読もう。


3b 木の葉揺らす風 その音を聞いてる
  眠りの森へと 迷い込むまで

4c 耳を澄ましてみれば 流れ出すセレナーデ
  僕もそれに答えて 口笛を吹くよ


 この歌の主体「僕」は、「眠りの森」へと「迷い込む」まで、「木の葉揺らす風」の「音」を聞いている。1aに「眠くなんかないのに 今日という日がまた/終わろうとしている さようなら」とあるので、「僕」は今日という日に別れを告げて眠りにつこうとしている。だが、すぐには眠れない。耳を澄まして外界の音を聞いている。「木の葉」が揺れて「風」が吹いている。自然の音が旋律と律動を作る。その音はまるで催眠効果をもつかのようだ。だからその外界は「眠りの森」という比喩で表現されている。

 「耳を澄ましてみれば 流れ出すセレナーデ」はどこか遠くの世界から、おそらく「眠りの森」場から聞こえてくる。あるいは、「眠りの森」そのものがセレナーデを奏でていると捉えられるかもしれない。「僕」はそのセレナーデに耳を澄ます聞き手の位置にいる。「僕」は「口笛を吹くよ」とそのセレナーデに答える。口笛で合奏する。
 次に[6b-7c]を読んでみたい。


6b 鈴みたいに鳴いてる その歌を聞いてる
  眠りの森へと 迷い込みそう

7c 耳を澄ましてみれば 流れ出すセレナーデ
  僕もそれに答えて 口笛吹く


 「眠りの森」のセレナーデは次第に、「鈴みたいに鳴いてる」歌に変化していく。楽曲から声が分離し、歌となり、聞こえない言葉が聞こえてくる。セレナーデを聞いているうちに、「僕」は「眠りの森」へと「迷い込みそう」になる。3bには「眠りの森へと 迷い込むまで」とあり、まだ眠りに入る前の時間を描いている。それに対して、6bの「眠りの森へと 迷い込みそう」は、もうすぐにでも「僕」が眠りに入っていくことを伝える。[3b-4c]と[6b-7c]との間には、眠りへと入っていく時間の推移がある。

 また、4cの「口笛を吹くよ」に対して、7cでは「口笛吹く」というように、「を」「よ」という助詞が消えている。「口笛を吹くよ」にはまだ主体の「僕」の意識のようなものがある。「を」という格助詞によって、(僕が)「口笛」「を」吹くということ、主体「僕」の動作「吹く」とその対象「口笛」との関係が明示されている。「よ」という終助詞にも「僕」の意志や判断が添えられている。

 それに対して、7c「口笛吹く」では「を」や「よ」という助詞が失われることで、主体「僕」の意識が希薄になっている。「眠りの森」のセレナーデの声に誘われて、「僕」は眠りの世界に入り込もうとしている。声の催眠にかかったかのように自動的に「口笛を吹く」。意識の水位が下がり、「迷い込む」かのように「眠りの森」へと入っていく。

 志村正彦は、「迷い込むまで」から「迷い込みそう」へ、「口笛を吹くよ」から「口笛吹く」へ、というように表現を微妙に変化させて、歌の主体「僕」が眠りへと入り込むまでの時間の推移や意識の変化を描いた。

  (この項続く)
  

2017年3月19日日曜日

『セレナーデ』の構成[志村正彦LN153]

 アルバム『シングルB面集 2004-2009』の12曲目に収録されている『セレナーデ』について以前一度書いたことがある。この作品は2007年11月7日リリースの10thシングル『若者のすべて』のB面曲、カップリング曲として発表された。今年で誕生して十年になる。

 志村正彦・フジファブリックの曲としてあまり知名度が高くないが、志村作品のベスト5を選ぶとするなら僕としては必ず入れたい曲である。欧米でも日本でも「セレナーデ」というテーマの歌は数多いが、その中でも時を超えて残り続ける作品だと思う。

 『セレナーデ』の歌詞をすべて引用したい。二行八連の構成であり、その二行ごとに連番を付す。楽曲の構成からすると、a-b-cの三つの旋律があるのでそれも加えることにする。


1a 眠くなんかないのに 今日という日がまた
  終わろうとしている さようなら

2a よそいきの服着て それもいつか捨てるよ
  いたずらになんだか 過ぎてゆく

3b 木の葉揺らす風 その音を聞いてる
  眠りの森へと 迷い込むまで

4c 耳を澄ましてみれば 流れ出すセレナーデ
  僕もそれに答えて 口笛を吹くよ

5a 明日は君にとって 幸せでありますように
  そしてそれを僕に 分けてくれ

6b 鈴みたいに鳴いてる その歌を聞いてる
  眠りの森へと 迷い込みそう

7c 耳を澄ましてみれば 流れ出すセレナーデ
  僕もそれに答えて 口笛吹く

8c そろそろ 行かなきゃな お別れのセレナーデ
  消えても 元通りになるだけなんだよ


 1a-2a-3b-4c-5a-6b-7c-8cという展開は、歌詞と楽曲からすると 1a-[2a-3b-4c]-[5a-6b-7c]-8cという構成になる。[a-b-c]の枠組を持つ[2a-3b-4c]と[5a-6b-7c]という二つのブロックを、1aと8cという大きな枠組が包み込んでいる。そう考えると、 1a-《[2a-3b-4c]-[5a-6b-7c]》-8cという構成を仮定できる。非常に繊細で微妙な意味を持つ歌詞であるので、そのような仮定のもとに歌詞の分析を試みたい。

 二つの[a-b-c]のブロック。[2a-3b-4c]と[5a-6b-7c]の歌詞は繰り返す部分と微妙に変化する部分を持つ。その差異と反復が『セレナーデ』の時間の推移を表している。そして物語の舞台を形作っている。1aの「今日という日がまた 終わろうとしている」は真夜中の時を、8cの「そろそろ 行かなきゃな」は夜が明ける時をそれぞれ指し示す。
 真夜中から夜明けへという時の流れの中で、『セレナーデ』の独特な夜の世界が現れる。

 (この項続く)

2017年3月12日日曜日

『シングルB面集 2004-2009』[志村正彦LN152]

 『ルーティーン』収録のアルバム、『シングルB面集 2004-2009』は、『FAB BOX』という完全生産限定BOXセット [DVD2枚+CD3枚]の中の一枚としてリリースされた。この『FAB BOX』はオリジナルの2010年版(2010/06/30)もその復刻版の2014年版(2014/10/15)も現在では入手できない。ネットでは新品の在庫品にしろ中古品にしろかなりの高額で取引されている。ペアとなるA面シングル集の『SINGLES 2004-2009』の方は現在でも入手可能のようだが、こちらの方も初回生産限定盤(2014年にその復刻版も出た)、期間限定盤(スペシャル・プライス)などのエディションがあった。

 完全限定版はプレミアム感もあり、既存のファン向けの商品の性格が強い。完売してしまえばそれまでで、新しくファンになった者にとっては理不尽なリリースの形だ。『シングルB面集 2004-2009』は配信のデジタル音源では入手可能だが、「もの」としてのアルバムを欲しい人は少なくないだろう。志村ファンであれば永久保存の音盤を手に入れたいはずだ。このB面集が通常版でリリースされることを強く望む。あるいは、A面シングル集とB面シングル集を合わせたコンプリートシングル集のCD2枚組アルバムを新たに企画するのはどうだろうか。ミニ詩集のような装丁の歌詞カードが付けば素晴らしい。スペシャル・プライスの廉価版であればさらに良いのだが。

 あらためて『シングルB面集 2004-2009』の収録曲を列挙してみよう。

1. 桜並木、二つの傘
2. NAGISA にて
3. 虫の祭り
4. 黒服の人
5. ダンス2000
6. 蜃気楼
7. ムーンライト
8. 東京炎上
9. Day Dripper
10. スパイダーとバレリーナ (作詞:志村正彦・作曲:山内総一郎)
11. Cheese Burger (作詞:志村正彦・作曲:山内総一郎)
12. セレナーデ
13. 熊の惑星 (作詞:志村正彦・作曲:加藤慎一)
14. ルーティーン

*(  )内の付記がないものはすべて、作詞・作曲:志村正彦。


 『桜並木、二つの傘』『NAGISAにて』『虫の祭り』『黒服の人』は春夏秋冬の歌、もうひとつの「四季盤」でもある。『桜の季節』『陽炎』『赤黄色の金木犀』『銀河』というオリジナルの四季盤とは異なる季節感が流れている。B面集の四季盤の方がリアルな生活や時間の感覚にあふれている。
 さらに、『ダンス2000』『蜃気楼』をはじめ、A面からは零れ落ちてしまうような不思議な世界が描かれている。『Cheese Burger』『熊の惑星』もユニークだ。終わりに近い『セレナーデ』と終わりの曲『ルーティーン』の二つは別格の存在感を持つ。B面集の中のさらなるB面のような深い味わいがある。誰にも作ることのできない歌という意味合いでは、B面集の方が志村正彦・フジファブリックらしいアルバムだと言えるかもしれない。

 最後にジャケット写真を見てみよう。




 ご覧の通り、「fujifabric」や「SINGLES2004-2009」のフォントが逆さまになっている。『SINGLES 2004-2009』のジャケットが裏返ったようなデザインが施されていて、なかなか洒落ている。シングルのA面集とB面集とが鏡像のような関係になり、互いが互いを照らし合わしている。
 もともとアナログレコード盤の時代、レコードを裏返すことが聴くことのアクセントになっていた。A面からB面に裏返す行為そのものが、音楽を聴くことの重要な何かと結び付いていた。それが何かと問われても答えるのは難しいが、表から裏へと返す、その束の間の時、その狭間の時が何か大切な一時だった。いったん音楽が終わり、静寂が訪れることが必要だったような気もする。

 シングルカットされるからにはA面曲はヒットを志向しなければならない。B面曲はそのような制約から自由であり、ある種の冒険や実験を行うこともできた。不可思議な存在感があった。CDの時代になると、B面曲ではなくカップリング曲と呼ばれるようになったが、「B」と「カップリング」という言葉の隔たりは意外に大きいのではないだろうか。BにはBにしかない存在価値がある。
 『シングルB面集 2004-2009』の作品にはそこはかとなく、アナログレコード盤の時代のB面曲の面影がある。

 

2017年3月5日日曜日

『ルーティーン』の声 [志村正彦LN151]

 三月の甲斐の山々。稜線が霞のようなもので覆われてくる。日差しがやわらかくなり、気温が上昇してくる。冬の寒さに慣れた身体が少しずつほぐれていく。それはそれで心地よいのだが、反面、気怠いような物憂いような気持にも染め上げられる。

 三月は年度の終わり。生活や仕事の流れの中では、三月が区切りという感じが強い。学校では卒業式や離退任式があり、人が巣立つ。冬が遠ざかり、春が近づく。人と季節それぞれが移り変わる。
 年度のしめくくりの仕事に追われ、新しい年度への準備もいそがしい。体には案外よくない季節かもしれない。毎年この時期、体調が少し悪くなることもある。一年の疲れが体そして心の芯にたまっているのかもしれない。一年のくりかえし。そのための一日のくりかえし。くりかえしのくりかえしの日々。そのような季節にふと聴いてみたくなるのが、志村正彦・フジファブリックの『ルーティーン』だ。
 
 2009年4月8日、シングル『Sugar!!』のカップリング曲としてリリースされた。同時期のアルバム『CHRONICLE』と同様に、スウェーデンのストックホルムで録音された。現在でもデジタル音源では入手可能だが、シングルは完全生産限定盤、アルバムにも限定盤『FAB BOX』中のDisc 3『シングルB面集 2004-2009』に収録ということで、CD盤としては入手困難だ。そのこともあってか、あまり知られていないのが残念である。『シングルB面集 2004-2009』が単独でリリースされるのが望ましいのだが、それはまだ実現していない。このB面集には『蜃気楼』『ルーティーン』『セレナーデ』など美しく儚い作品が多い。『SINGLES 2004-2009』というA面集よりも、志村らしい作品、志村でしか作りえない作品が収められているとも言える。

 『CHRONICLE』のDVDには、「ストックホルム”喜怒哀楽”映像日記::ルーティーン (レコーディングセッション at Monogram Recordings)」が収められている。志村と山内総一郎のギター、金澤ダイスケのアコーディオンの演奏と志村のボーカルが録画された貴重な映像だ。冒頭で志村は「わびさび日本系で」という指示を出している。海外での収録ゆえに「日本系」を意識したのだろうか。むしろというかそれゆえにと言うべきか、この歌には国や文化の違いを超えた普遍性がある。

 この年の12月、志村は急逝する。翌年、彼の残した制作途上の楽曲を中心に収録した『MUSIC』が「遺作」のような意味づけで発表されたが、このアルバムはあくまで参考作品として捉えるべきだと思う。志村の意志と構想で完成させたものではないからだ。彼の生前最後の作品を一つだけ選ぶとするならこの『ルーティーン』ではないかと私は考えている。
 歌詞のすべてを引用したい。二行七連の歌詞だ。


 日が沈み 朝が来て
 毎日が過ぎてゆく

 それはあっという間に
 一日がまた終わるよ

 折れちゃいそうな心だけど
 君からもらった心がある

 さみしいよ そんな事
 誰にでも 言えないよ

 見えない何かに
 押しつぶされそうになる

 折れちゃいそうな心だけど
 君からもらった心がある

 日が沈み 朝が来て
 昨日もね 明日も 明後日も 明々後日も ずっとね
   
      ( 『ルーティーン』作詞作曲:志村正彦 )


 声は限りなく優しい。耳に甘く溶け込むようでもある。
 歌詞自体が、日常的な語彙、いわばルーティーンの言葉で綴られているが、深い想い、語りえない想いを伝えている。曲が終了し、束の間の沈黙がある。第六連と七連との間だ。微かにギターをたたく音と共に、七連目の二行が歌われる。
 最後の二行は、言葉の意味としてではなく、言葉の行為として、「祈る」ことを成し遂げている。歌うことそのものが祈りになっている。何を祈るのか、祈りを向ける対象はわからない。歌詞の文脈からすると、昨日も、明日も、明後日も、明々後日も、ずっと「日」が続いていく、そのことへの祈りなのかもしれない。ルーティーンへの祈りと言い換えることもできる。ただそのように言葉を捉えたとしても、この歌の祈りには届かないような気がする。

 聴き手にとってこの歌の祈りは、日々のくりかえしの中で「折れちゃいそうな心」、「さみしい」こと、「押しつぶされそうになる」ことへの深い慰藉、なぐさめといたわりになる。
 この歌が録音されて一年も経たないうちに、この歌い手のルーティーン、日々のくりかえしは永遠に失われた。時々、不思議に思うことがある。音盤に刻まれた歌をくりかえし聴くことができることを。歌は生き続けるということを。自明になってしまってあえて振り返ることもないのだろうが、録音と記録という技術は本来、人の声に関する「奇跡」のような出来事だったのかもしれない。
 『ルーティーン』の声は今も日々のくりかえしを祈り続けている。