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2017年2月28日火曜日

ジャック・ランシエール『無知な教師 知性の解放について』

 教育については語りたくないという気持ちがある。後ろめたいような、気恥ずかしいような何かがつきまとう。この国の教育には大きな問題があり、それゆえに様々な議論がある。誰もが教育という経験を持つのだから、すべての人が一人ひとり各自の教育観や教育論を持っている。そのすべてが尊重されるべきだというのが議論の前提だが、それゆえにこの議論の進む方向はなかなか定まらない。深めていくのが難しい。

 それでも数回にわたって、一人の教師としての実践を中心に教育や国語教育について書いてきたのは、このblogの中心テーマである志村正彦・フジファブリックの歌を教材とする授業についてこの場に書き残すべきだと思ったからだ。私自身の実践ではあるが、そのことを離れて、志村正彦に関する様々な事柄、同時代の動き、出来事をできるだけ記載していくという「偶景web」の指針からそのように判断した。それに関連して、その授業の背景、授業の組み立てについての根本的な考え方にも触れた。昨年のこの時期、『銀河』について報告したことがあるように、志村正彦に関する授業には、歌詞を物語化するなど多様な試みがある。これからもその可能性を探っていきたい。繰り返しになるが、生徒の生き生きとした自由な言葉を触発するという点で、彼の歌にはきわめて大きな力がある。

 私はそもそも教育学や国語教育学の書物をほとんど読まない怠惰な教師だが、率直に述べると、特に「専門家」による著作は敬して遠ざけている。理屈を超えて何となく拒否反応があるのだ。だが六年ほど前、ジャック・ランシエールの『無知な教師 知性の解放について』(法政大学出版局、2011/7/28)を読んでからは、この書物を実践の拠り所とするようになった。教育学ではなく教育学批判の本であり、狭義の教育を超えて、人々の「知的な解放」を探究する本である。この本に出会った頃にちょうど志村正彦の歌について語り合う授業も始めた。テーマやモチーフとしての志村、理論や方法としてのランシエール。あたりまえであるが、この二つは別の流れ、異なる系譜のものではあるが、今振り返ると、この二人の表現と思考に負うものが非常に大きいことに気づく。

  ジャック・ランシエール(Jacques Rancière, 1940 - )はフランスの哲学者。ルイ・アルチュセールの弟子だったが、師を批判する書物を出すことで頭角を現した。その後、歴史資料を丹念に読み解き、19世紀の労働者の書いたによる哲学的、詩的作品を発掘し、その意義を考察した『La Nuit des prolétaires』(1981、『プロレタリアートの夜』未訳)、19世紀の教師ジョセフ・ジャコトの「知性の解放」のため教育を紹介し分析した『Le Maître ignorant 』(1987、『無知な教師 知性の解放について』2011)を著した。
 『無知な教師』の核心にあるのは次の出来事である。

  19世紀初頭、フランス人のジョセフ・ジャコト(Joseph Jacotot, 1770 –1840)は、ルーヴェン大学(現在のベルギーにある。当時はオランダ語圏だった)でオランダ語を母語とする学生にフランス語を教える職を得た。ジャコトはオランダ語が分からない。学生はフランス語が分からない。通常の「教える」ことが不可能な状況だった。ジャコトはどうしたか。私たちがこのような状況に置かれたらどうするだろうか。

 ジャコトは学生に「説明する」言葉を持たない。彼は『テレマック』というフランス語・オランダ語の対訳本を与え、そこに書かれた一つひとつの言葉に注意深く取り組むことだけを指示した。その結果、驚くべきことに、学生は高い水準のフランス語を習得した。
 この偶然の出来事、発見がジャコトの教育を根本から変えていった。教師は自分の知らないことを教えることができる。教えられないことを教える。むしろ、教えられないからこそ教えることができる。この驚くべき出来事、教育学の常識に反する事実が、ジャコトの受けた「啓示」である。ランシエールはこの「啓示」を次のように分析している。

ジョゼフ・ジャコトを捉えた啓示は、説明体制の論理を逆転させなければならぬ、ということに帰着する。

教育学の神話は、劣った知性と優れた知性があると主張する。劣った知性は、習慣と必要との狭い範囲の中で、行き当たりばったりに感知したものを記録し、記憶に留め、経験に基づいて解釈したり繰り返してみたりする。これは幼い子供や庶民階級の人の知性だ。優れた知性は物事を理性によって認識し、単純なものから複雑なものへ、部分から全体へと、筋道を立てて進める。この知性のおかげで、教師は自分の知識を生徒の知的能力に合わせて伝授し、学んだことを生徒がきちんと理解したかどうか確かめることができる。以上が説明の原理である。これは啓示以降、ジャコトにとっては愚鈍化の原理となる。

 ジャコトそしてランシエールが批判する「説明体制の論理」「愚鈍化の原理」は、現在の学校教育の中心にもある。教師は生徒に説明する。説明して教えこむ。だが、教えることの自明性が疑われることはない。教師は生徒を「劣った知性」と「優れた知性」を持つ者とに二分化する。だが決して、二分化の評価の自明性も疑われることはない。
 しかし、現場の一教師としての私の実感は、少なくとも「言葉を語る」という能力において、「劣った」「優れた」という二分化は無効である。生徒には「言葉を語る」能力がすべて平等に与えられている。彼らは思考し表現する。そのテーマ、モチーフにより、表現に差異が生じるのは確かだが、その差異を超えて、彼らは豊かに言葉を生みだしていく。それを引き出せないのは、その教育自体に原因がある。教えすぎたり固定的な評価をしたりすることで、生徒の自発的な力を阻害してしまう。これは実感というより確信に近いが、主観的な判断でなく、客観的な資料を提示することもできる。私の拙い実践報告や論文はそのことを示すものでもある。
 でも、どうすればよいのだろうか。その問いかけに対して、ジャコト=ランシエールはこう語っている。

生徒を解放すれば、つまり生徒自身の知性を用いるように強いれば、自分の知らないことを教えられるのだ。教師とは、知性が己自身にとって欠くことのできないものとならなければ出られないような任意の円環に、知性を閉じ込める者なのである。無知な者を解放するには、自分自身が解放されていること、すなわち人間精神の本当の力を自覚していることが必要であり、またそれで十分なのだ。無知な者は、教師が彼にはそれができると信じ、彼が自分の能力を発揮するように強いれば、教師が知らないことを独りで習得できる。

 つまり、教師にとって必要なことは「自分自身が解放されていること、すなわち人間精神の本当の力を自覚していること」である。解放されていない教師は自らを教える立場に固定し、教える行為に固執する。結果として、生徒が自ら学ぶ力、自ら考える力を抑圧してしまう。時には権威や侮蔑と共に、時にはある種の善意や誠意を伴って。だからこの問題の根は深い。

 人は誰でも独りで学び、知性を育み、自らを解放していく。
 このことの深い意味を理解するためには、ジャコトのような出来事を現実に経験するしかないが、それに近い事柄は、教える者あるいは学ぶ者は誰でも経験しているはずだ。でも、それはなぜか忘却されてしまう。現代の教育の場面でも、意識的無意識的に、否認され否定される。
 それでも、ジャコト=ランシエールの思想、「知性の解放」のための教育はこれからも実践されていくだろう。

2017年2月19日日曜日

小川洋子『バックストローク』を読む

 前々回の最後で「教師が一方的に教えるのではなく、生徒が考え表現することを尊重するのがこの授業の根本にある。生徒の言葉が彼ら自身の思考と表現の言葉となることを目指している」と書いた。大修館書店の本に書いたり、山梨英和大学で報告したりした一連の授業はこの考え方に基づいている。

 生徒・学習者を中心とする授業のデザインは十数年前から試みている。小説の授業の実践では、教育出版のHPの「高校メルマガ配信記事」の「教材研究・実践報告」に、「現代文B小川洋子『バックストローク』を読む1・2」という拙稿が掲載されている。(これは2008年秋に行った高校3年生対象の授業を考察したもので、「1」が2009年6月、「2」が2010年6月の「教育出版高校メルマガ」で配信された。)その冒頭に書いた文を引用したい。

 小説を「読む」とはどのような行為なのか。そして、「小説」を学ぶ、教えるという行為はどの方向に向かうべきなのか。この問いを抱えながら、授業の準備を行い、教室に向かう。小説教材の最初の授業のとき、小説を読む充分な時間を生徒に与えるように心がけている。小説を読むのには固有の時間があり、読書の主体としての生徒には一人ひとり別の時間が流れている。教科書に印刷されている小説作品は文字の記号としてそこにあるが、読書主体としての生徒の読む行為を通じて、その存在を獲得し始める。

 教室ではまず始めに、時間は充分にあるので各自のペースで読んでいくことを指示する。その際「教材」ではなく、「作品」という意識で読むことを重視している。生徒がページをめくり始める。すぐに小説世界に入っていく者。煩わしそうに読む者。各々の読む時間が進行する。時に愉悦を感じ、時に困惑を感じる時間。静かな時間が流れ、時々、ページをめくる音が聞こえてくる。

 この後、生徒は小説を読んで感じたこと考えたことを自由に書く。私が作品についてあらかじめ説明することはない。教師が余計なことをいうとそれに引きずられてしまうからだ。それは生徒の自由な思考と表現を奪う。何も言わずに生徒が書くのを「待つ」姿勢を貫く。生徒が文を提出することで最初の授業が終わる。その後、生徒がどのように読んでいるのかを分析し、それに基づいて授業を構想していく。あくまで「読書主体としての生徒」の読みを中心に授業をデザインする。(付言すれば、2011年から始めた志村正彦・フジファブリックの歌を聞き歌詞を読む授業もこの方法で行っている。)

 通常の高校国語の授業は、教師用指導書等にある授業展開を参考に展開していく。その方法の根本には、教える者(教師、教科書著作者・編集者)が小説の読みを決定し、授業も構想するという考え方がある。教師中心の教材解釈であり、指導方法となる。(その背景には、作者が小説の主題や意味を支配しているという考えがある)この考え方は、すでに半世紀近く前、1960年代以降に欧米の文学理論、読書行為論や記号論で批判されているが(この系譜の理論を代表するのがロラン・バルトだ)、日本の国語教育ではこの指導方法や教育観が支配的だった。この教師中心の指導に対して批判的な実践をするのが、現場の教師としての私の一貫したモチーフであった。教育出版HPの2008年の授業研究はそれを最初にまとめたものであり、去年の大修館書店の授業報告はその発展形である。

 実際に生徒がどのように小川洋子の『バックストローク』を読んだのかは、拙稿を参照していただきたい。十八歳の思考や感性には素晴らしいものがある。生徒の読みから学ぶことは多い。

2017年2月12日日曜日

桜は常にそこにある。[志村正彦LN150]

 桜という主題を探究する一連の授業では、俵万智の随筆『さくらさくらさくら』[『風の組曲』河出書房新社 (2000/01)所収]、志村正彦の歌詞『桜の季節』[フジファブリック『桜の季節』 Single  CD、 EMIミュージック・ジャパン(2004/4/14)]、社会学者佐藤俊樹の評論『桜が創った「日本」―ソメイヨシノ 起源への旅』[岩波書店 (2005/2/18)]の三つを教材にした。各々のテクストの中で最も魅力のある部分を取り上げて授業を展開した。

 俵万智は桜についてこのように述べている。

桜というのは、花だけを取り出して観賞するものではないのかもしれない。桜の咲いている空間ごと、そして時間ごと、日本の春という舞台の全てを含めて桜なのだという気がする。

 「花」だけではなく、桜の咲いている「空間」や「時間」、「舞台」の全てが「桜」なのだという指摘は鋭い。桜を見つめる視線が、「花」だけにズームインしていくのではなく、「花」を離れてその周辺へとズームアウトしていく動きがある。

 志村正彦は桜の季節をこう歌っている。

 桜の季節過ぎたら遠くの町に行くのかい?
 桜のように舞い散ってしまうのならばやるせない

 その町にくりだしてみるのもいい
 桜が枯れた頃 桜が枯れた頃

 「桜の季節」。慣用的な表現でもあり、さっと読み飛ばしてしまうかもしれない。だが、「桜」と「季節」が「の」で結ばれているのは志村らしい言葉の接合の仕方ともいえる。
 この歌は一人称の主体が二人称の相手に対する「問いかけ」という枠組を持つ。「遠くの町」に行く相手に対して、歌の主体は「その町」と捉えなおした上で「くりだしてみるのもいい」と自らに語りかける。ただし、その時季は「桜が枯れた頃」の季節なのだが。

 佐藤俊樹はソメイヨシノの風景を次のように考察している。

ソメイヨシノの「一面の花色」は、桜の美しさを極端なかたちで現実化したものだ。その意味で、ソメイヨシノはやはり理想的な桜であった。けれども、「一面の花色」は桜の理想のあくまでも一つにすぎない。別の理想像をもつ人、いやそれ以上に、理想というものの多様さを直感できる人にとって、ソメイヨシノは美しさとともに、異様に歪曲された感じを抱かせる。

 佐藤俊樹は、ソメイヨシノの「起源」、江戸末期にエドヒガンとオオシマザクラが交雑した樹のクローンとして誕生した事実を述べるだけでなく、「桜」の「美」をめぐる「想像」と「現実」との複雑な関係性を指摘している。ソメイヨシノの出現以前から、「一面の花色」という「想像」が文学作品の中で描かれていた。その想像を「現実」のものとするかのうようにソメイヨシノは育成されていった。

 俵万智の随筆、志村正彦の歌詞、佐藤俊樹の評論、三つとも「桜」についての新しい捉え方を提起している。生徒はこの三つの教材を読んで、「桜」について捉えなおし、考察を深めて、最終段階で「桜という存在と私」という題で600字の文章を書いた。三人の筆者の考え方を受け止めた上で、それにとどまることなく、自己の「桜経験」を振り返り、「桜」という存在と「私」という主体とのつながりについて思考し表現した。『変わる! 高校国語の新しい理論と実践』に収録した生徒作品を一つ紹介したい。

桜は季節によって姿を変えていくが、人は花のない桜の木を桜として捉えていない。同じ場所に同じ樹木として立っているにもかかわらず、あの桜色の世界がないだけで違うものに見えてしまうほど、私たちに染みついた桜のイメージは固定されている。夏は若々しい緑の葉がつき、秋には葉が落ち、冬は寒さに耐え乗り越えて、春になるとあの特有の花を惜しげもなく開いて、人々を笑顔にする。努力を人知れず積み上げ、笑顔を生み出すのは、人と同じだ。桜は常に寄り添い見守ってくれる暖かい木だ。桜は常にそこにある。

 この生徒は、季節によって姿を変えていく桜に焦点を当てている。「桜のイメージ」の固定化への批判もあり、春になり「あの特有の花」で人々を「笑顔」にする桜への親愛の情もある。「努力」する桜、「常に寄り添い見守ってくれる」木としての桜という擬人化は高校生らしい感受性があふれる。最後の「桜は常にそこにある」という表現は深い。

 志村正彦の歌は問いかける。以前にも書いたが、その問いかけが生徒の思考と感性を触発する。生徒の言葉を生み出す。この生徒作品にも『桜の季節』の問いかけに対する応答がある。志村の描こうとした風景には「無」の感覚が漂うが、この生徒が見つめてきた風景には「有」や「生」の感触が濃厚である。感受性は異なるが、それゆえの対話がある。
 「桜は常にそこにある」のだが、人はそれを忘却してしまう。生徒の文からそのことを教えられた。

 この授業は昨年の4月から5月にかけて試みた。生徒の振り返りの文で最も印象に残ったのは、「来年は桜の見方、見え方が変わるだろう」という言葉だった。
 あと一月半で今年の桜の季節を迎える。桜の風景がどのように現れるのだろうか。


2017年2月5日日曜日

生徒は『桜の季節』をどう評価したか [志村正彦LN149]

 「思考と表現のデザイン」教育フォーラムでは、生徒中心の「思考のデザイン」学習の新しい方法について報告した。しかし、思考力を育成するためには「方法」の開発だけでなく、生徒の思考を触発させるような「作品」「教材」も開拓されねばならない。

 『変わる!高校国語の新しい理論と実践』には字数の制約があって掲載できなかったが、一連の授業の中で、生徒が志村正彦・フジファブリック『桜の季節』について評価や分析を行った。
  生徒は『桜の季節』を高く評価した。(段階評価の結果を数値化すると、「とても優れた作品」71%、「優れた作品」23%、「普通の作品」6%となった。教材の評価を明確にするためにあえて数値化した。)生徒の評価理由を簡潔に紹介したい。

・歌詞に問いかけの形が入っているから、色々と考えられる。
・何度聞いても全てが解釈できるわけではない歌の世界観に引き込まれた。
・今までにない桜ソング。独創的でいい。
・聴く人が一人ひとり自分のストーリーを作ることができる。
・「桜が枯れた頃」というように歌自体の季節感が味わえないどこか不思議な世界を持つ。
・繰り返しには誰かへの強いメッセージ性が感じられた。
・自分にあてた手紙のようなものだと思った。

 生徒は『桜の季節』が優れている理由を自分の視点で述べている。この歌の「問いかけ」や謎、世界観や独自の季節感。「自分のストーリーを作ることができる」「自分にあてた手紙のようなもの」だという記述は志村の歌詞の世界の本質に迫っている。
 志村正彦・フジファブリックの作品の授業において、私自身の「解釈」や「分析」を講義のような形で生徒に伝えることはない。そんなことをすれば生徒の自由な思考を損ねてしまう。だから、志村正彦のプロフィールや作品に関する基本データを簡潔に知らせることと、歌を集中して聴き、言葉を丁寧に読みとることだけを指示している。
 つまり、教師が一方的に教えるのではなく、生徒が考え表現することを尊重するのがこの授業の根本にある。生徒の言葉が彼ら自身の思考と表現の言葉となることを目指している。