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2017年1月29日日曜日

山梨英和大・教育フォーラムでの高校生の発言

 1月26日、「思考と表現のデザイン」教育-高大接続教育フォーラムが山梨英和大学で開催された。天気は快晴、英和大のキャンパスからは御坂山系の向こう側に美しい富士山の頂きが望める。東京からの参加者がその姿に感心していた。
 高校教員、教育系出版社を中心に50人程が参加した。第1回の試みということもあり、広報や周知の仕方に慣れていなかったり、題名がやや難しい印象があったりしたせいか、当初の想定数には至らなかった。地方の小さな高校と大学の個別と連携、それぞれの実践が話題の中心であったが、「面白かった」「興味深かった」という声がほとんどの参加者から寄せられたので、内容は目標とした水準には達していたと思われる。
 私は主催者の山梨英和大学との連携校の担当者ということから、実質的には「共催者」の立場だったので、いくつかあった課題についてしっかりと受けとめていきたい。

 フォーラムは、ギッシュ・ジョージ学長が聖書の「初めにロゴス(言葉)があった」を引いて「言葉」の存在の意義について簡潔に語った。その「言葉」をリレーするようにして、小菅健一氏、河手由美香氏、木下学氏、私の順で四人の講演者・報告者が、高校と大学とその接続において今課題となっていること、実践していることを語っていた。皆、個人的な経験をふりかえりながら自分の語り口で率直に述べていたことが印象的だった。当然だが、思考や表現の教育を試みる者は自らの言葉に対して自覚的で批評的であらねばならない。

 その内容についてこのblogで紹介することは控えるが、一言で言うなら、生徒・学生つまり学習者が中心となる授業についての模索の経過報告である。いわゆる「アクティブ・ラーニング(AL)」型の授業であるが、ALという用語が流行しだす以前から、私の勤務校ではその種の試みを重ねてきた。(その一端が『変わる!高校国語の新しい理論と実践―「資質・能力」の確実な育成をめざして』(大修館書店)収録の実践である)生徒が主体的に思考し表現すること。現在の高校の国語教育と大学の初年次教育の最大の課題である。
 議論の中で、私の授業におけるフィードバックの方法についての質問があった。まだ試行錯誤中であり、これから探究すべき課題だと答えるのが精いっぱいだったが、思わぬところでこの課題についての貴重な意見がもたらされた。

 学校帰りに立ち寄ってくれた生徒三人のうちの一人、K君の発言だった。(教員や大人だけでなく当時者である生徒が参加することも必要だと考え、声をかけていた)授業でのフィードバックという問題について、突然だったが生徒自身に発言を求めた。K君はフォーラムの議論の方向を彼なりに追いかけながら、高校生としての視点で的確な意見を出してくれた。自ら考えた言葉しかも対話性のある言葉で表現した。終了後、知り合いの参加者が異口同音に、生徒の言葉の質がこの授業の達成の度合いを示していると言った。確かに、彼の発言がこの実践のフィードバックになっていた。

 教育の実践は何をもって評価や達成とするのかが難しい。形式的、制度的な評価ができたとしてもそれが真正の評価であるかどうかは疑わしい。一年間を通してある授業を実践して、生徒がどのような思考力や表現力を獲得したのか。教師側の自己完結的な(時に自己満足的な)評価ではなく、「他者」としての生徒自身の思考や表現という「外化されたもの」で評価すること。教室という場を離れた社会の中での発言にその成果を見ること。私の拙い授業を超えて、高校生は思考と表現の力を育てていく。自立していく。その姿を見ることができたのがこのフォーラムの最大の成果だった。

2017年1月20日金曜日

1月26日(木) 「思考と表現のデザイン」教育のフォーラム

 1月26日(木)、山梨英和大学主催で「思考と表現のデザイン」教育-高大接続教育フォーラムが開催される。

 2012年から、甲府城西高校と山梨英和大学は連携して「思考と表現のデザイン」教育を実施してきた。大学側は小菅健一山梨英和大学副学長・教授、高校側は私が中心になって企画し運営してきた。その五年間の成果をふまえて、高校と大学そして社会が「思考力と表現力」を育成するために何をなすべきかという課題について話し合うフォーラムであり、私も報告者として参加する。

 私は、前回紹介した『変わる!高校国語の新しい理論と実践―「資質・能力」の確実な育成をめざして』所収の実践に基づいて、「思考シートによる構造化」授業の試みについて報告する。対立する二項とその統合という三項関係による思考を「思考シート」というワークシートによって図示、可視化することによって思考を構造化していく授業の方法である。生徒は、俵万智の随筆や志村正彦の『桜の季節』の言葉の世界をこの思考の方法によって分析した。30分程度の時間しかないので簡潔な報告となるが、フォーラムという場で参加者からのご意見をいただきたいと考えている。

 国語の授業では一貫して「考える力」「言葉で表現する力」の育成をテーマとしてきた。教材についても、ドキュメンタリー番組、映画やその脚本など教科書にはないものや視聴覚資料も取り入れてきた。志村正彦・フジファブリックの歌と歌詞、日本語ロックの作品を教材にしたのもその流れである。また、思考の構造化という方法への関心は大学生の頃にさかのぼる。
 
 80年代の初頭だった。私の通っていた大学の文学部ではジャック・デリダやロマン・ヤコブソンの研究者がいて、記号論や構造主義、脱構築やフランス現代思想が全盛の時代だった。バルトの研究家・翻訳家であった沢崎浩平先生が講師として来ていたことから「ロラン・バルトを読む会」という読書会が発足した。その会で小管健一さんと知り合った。沢崎先生のやむをえない事情により読書会は数回で終わってしまったが、今でも会場の喫茶店でバルトを語る先生の眼差しや仕草、ふっとつぶやかれた言葉が頭に浮かんでくる。

 ネットで久しぶりに「沢崎浩平」の名を検索してみると、内田樹氏が沢崎先生の思い出話を書いていた。(内田樹の研究室「エージェル」)二人は都立大の同僚だった。この話にある通り、沢崎先生は穏やかで実直でありながらどこか茶目っ気もある方だった。Hegel、エージェル、ヘーゲル。音の戯れがおかしい。

 小管さんも私も日本文学専攻だったが、バルトに興味を持ったのはあの時代の背景がある。二十年ほど前、小菅さんが山梨英和大学に赴任され、ある時に講演会を依頼したことで再び交流が始まった。そして五年前から、私の勤務校と高大連携の授業を始めることになった。「思考と表現のデザイン」というコンセプトは小菅さんの提案である。バルトのテクスト論の音調がどこかで響いている気がする。

 このblogの題名「偶景web」は、沢崎幸平訳のロラン・バルト『偶景』から借りたものであることは以前書いた。このblogに書くことも、教師としての仕事で取り組んでいることも、様々な意味で1980年代前半の「知」に影響されていることに思い至る。
 
 甲府近郊にお住まいの方で最近の国語教育や高大接続のあり方について関心のある方はぜひお越しください。1月20日締め切りとありますが、席にはかなりの余裕があるので、まだ申し込みが可能だということです。当日参加も大丈夫のようです。詳しいことは山梨英和大学のHPでご確認ください。

2017年1月15日日曜日

『桜の季節』の授業 [志村正彦LN148]

 LN147で触れたように、昨年11月刊行の『変わる!高校国語の新しい理論と実践―「資質・能力」の確実な育成をめざして』[編著者 大滝一登(文部科学省教科調査官)・幸田国広(早稲田大学教育・総合科学学術院教授)、大修館書店、2016/11/20]に、『思考の仕方を捉え、文化を深く考察する―随筆、歌詞、評論を関連付けて読む―』という実践報告を執筆した。

 この授業の意図と背景について書いた拙文が、大修館書店の雑誌「国語教室第104号」に掲載されている。大修館書店のHP「WEB国語教室」でPDF化されたものが閲覧できるが、その文章をここで紹介させていただく。


   「高校国語」を探究する書
               山梨県立甲府城西高等学校教諭 小林一之

 「桜が枯れた頃」という表現から何を想い描くだろうか。
 ロックバンド、フジファブリックの楽曲『桜の季節』の一節だ。冬枯れあるいは枯死した樹か。桜が咲き散る春の情景とは遠く隔たる季節であるのは間違いない。この歌の作者志村正彦は四季の景物を織り込み、揺れ動く心を綴った。彼の歌詞のような作品が現代の若者にとってのリアルな「詩」ではないかと考え、五年間授業を試みた。志村の言葉は生徒に深く作用し、言葉を紡ぎ出す。教室が自由で活発な場になり、私にとって生徒中心の授業へ転換する契機ともなった。
 本書の実践はその試みをさらに前へ進め、複数の教材を横断的に読み多様な視点を持つことで、桜という言語文化的な主題の考察を深めることを目標にした。思考と表現の方法を習得し、それを活用することを学びの過程に位置付けた。対比とその統合という三項関係による思考の構造化は汎用性が高く、様々な単元で活用できる。
 複雑な時代を生きる高校生は、自己と社会の課題を考え、他者と交流する力を身に付けねばならない。そのための根幹の教科に国語は再構築されつつある。転換期の今、新しい理論と実践の一助となることを本書はめざしている。私自身も深く学び取りたい。そして本書を通じて、「高校国語」という課題そのものを探究するために、私たち現場の教師が語り合う場ができればよいと考えている。


  字数の制約があり、簡潔に書かざるを得なかったので少し補足したい。
 文中にある「複数の教材」とは、俵万智の随筆『さくらさくらさくら』、志村正彦の歌詞『桜の季節』、社会学者佐藤俊樹の評論『桜が創った「日本」』の三つである。俵万智の随筆と佐藤俊樹の評論は「現代文A」「現代文B」教科書所収の本文に基づいたが、志村正彦の歌詞『桜の季節』は『志村正彦全詩集』(PARCO出版)の本文から新たに教材化した。

 この三つの作品の共通点は、「桜」についての新しい捉え方、考え方を表現していることにある。「桜が咲き、散る」にまつわる定型的な紋切り型とも言える感性や美学とは距離を置いている。中でも志村正彦『桜の季節』は最も重要な作品だと想定して授業を構成した。実際の授業後に生徒の印象と評価を分析したところ、想定通り、生徒が最も興味を抱いたのは志村の歌詞だった。
 志村正彦・フジファブリックの歌と歌詞、もう少し文脈を広げれば、すでに半世紀の歴史を持つ日本語ロックの優れた歌詞が、現代の若者にとってのリアルな「詩」であり教材の対象にもなるというのが、現場の一教師としての問題提起である。

       (この項続く)

2017年1月10日火曜日

音楽、憂鬱、天使たちークラーナハ展

 土曜日、国立西洋美術館の「クラーナハ展-500年後の誘惑」を見てきた。
 東京の美術館に出かけることもほぼなくなってしまったが、この展覧会にはれはどうしても行きたかった。終了まであと一週間の時点で何とか見ることができた。予想よりはるかに充実した展示で、二時間以上かけてルカス・クラーナ(父、Lucas Cranach der Ältere、1472年-1553年)の作品を堪能した。
 (東京では15日、今週の日曜日までの開催。大阪・国立国際美術館で1月28日~ 4月16日開催。おすすめです)

 副題には「500年後の誘惑」とあるが、クラーナハの絵画、特に女性の眼差しに「誘惑」を感じることはなかった。もちろん、「誘惑」の眼差しは女性のものではなく、それを見ている男の欲望の眼差しの反転したもの、つまり男性の所有するものだ。クラーナハの女性はどこも見つめていない。どこかを見つめているのなら、その見つめられている場所に男が位置することで、その場から男が女を眼差す「欲望」が生まれる。しかし、あの女たちの眼差しは空洞のようなもので、男たちが「欲望」を感じる場が存在しない。男の眼差しは空を切ってしまう。

 クラーナハは大きな工房を設けて絵画の大量生産を行ったそうだ。現代で言うなら、アンディ・ウォーホルのファクトリーになぞらえる論もあるようだ。近年修復された代表作の色彩は五百年という時を超えてしまったかのように鮮やかだった。同一のモチーフの反復。装飾品的な味わい。不思議なのだが、ポップアートのような感触もある。そのことがこの画家の革新性なのかもしれない。

 影響を受けた画家や関連作品の展示もあった。レイラ・パズーキというイラン人アーティストの「ルカス・クラーナハ『正義の寓意』1537年による絵画コンペティション」という作品が特に面白かった。クラーナハの『正義の寓意』を中国の複製画制作者に模写させたもので、90枚の複製画が壁面に並んでいた。まるでウォーホルのキャンベルスープやマリリン・モンローの世界。本物とのずれ具合がとてつもなくポップだった。

 あまり目立たない作品だが、『メランコリー』という絵が印象に残った。

クラーナハ『メランコリー』部分

 十五人の天使を中心に、謎めいた女性が右側に、夢魔が上側に描かれている。笛を吹く天使と太鼓を叩く天使。踊る天使と眠る天使。「音楽にはメランコリーを癒す力がある」と信じられていたというキャプションが添えられていた。当時のドイツでそのように信じられていたのか、美術史や文化史に疎いので、その説明の根拠についての知識はない。音楽が憂鬱を癒す。経験としては誰にも覚えのあることだろうが。
 『メランコリー』の図像は複雑であり、何を示しているのかは分からないが、五百年前のドイツ人がこの絵画を愛しみ、愉しんだことは伝わってくる。
 

2017年1月5日木曜日

夕ごころ

 元日や手を洗ひをる夕ごころ       芥川龍之介

 元日を迎えるとこの句を思う。芥川自選の七十七句を編んだ『澄江堂句集』の一句。芥川の作という枠を超えて、今や元日の句として最も有名な句であろう。

 元日は、初日の出、朝の時間が祝福される。だが、芥川は朝をそれとなくやりすごす。昼から夕方へと時は移り、「手を洗ひをる」。身体の所作だが、幾分か象徴的でもあり、自分を洗う、自身を浄める意味を帯びているかもしれない。補助動詞「をる」のおさまりがいい。「洗ふ」動作に終止符を打ち、いったん間をあけ、「夕ごころ」につなげていく。

 芥川龍之介は眼差しの人でもある。自らの「手」を凝視した後、田畑の家の庭にでも降りて、夕暮れを見たのだろうか。それとも書斎にいて記憶の夕景を思い出していたのだろうか。どちらにしろ、彼は「夕ごころ」に佇んでいる。
 「yuugokoro」というなめらかな響きはどこか懐かしいが、芥川特有の憂愁がある。

 芥川は夕暮れ、日暮れの時を好んだ。よく読まれている作品では『羅生門』冒頭の「ある日の暮方の事である」、遺稿『或阿呆の一生』の「彼は日の暮の往来をたつた一人歩きながら、徐ろに彼を滅しに来る運命を待つことに決心した」など、繰り返し表現している。日暮れ時、物語の主人公は一人で往来を歩く。路地を彷徨する。その憂愁に包まれている。
 そんなことを考えていると、志村正彦・フジファブリック『茜色の夕日』が浮かんできた。この歌にも「夕ごころ」の憂いが込められている。

 大晦日にさかのぼりたい。朝日新聞朝刊のある面全体に歌詞らしきものがあった。下の小さな文字を読んで、NHK紅白歌合戦に出場する「THE YELLOW MONKEY」のメッセージ広告だと分かった。「ロックの歌詞」がこのような形で新聞の全面を覆うのは初めてのことではないか。どれだけの経費がかかったのか。毒を以て毒を制すということなのか。「残念だけど、この国にはまだこの歌が必要だ。」という言葉が添えられていたが、確かに、この国に必要な歌であることは間違いない。

 夜、紅白を見た。椎名林檎とRADWIMPSのドラマーが刄田綴色だと気づいて驚いた。
 終盤近くになって、THE YELLOW MONKEYの登場。吉井和哉が、ロック的なあまりにロック的な『JAM』を堂々と切々と歌う。2016年のロックの聞き納めとなった。

  儚なさに包まれて 切なさに酔いしれて
  影も形もない僕は
  素敵な物が欲しいけど あんまり売ってないから
  好きな歌を歌う
     ( THE YELLOW MONKEY 『JAM』  作詞・作曲:吉井和哉 )