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2016年12月31日土曜日

「正彦君はいつも遠くを見つめていました」[志村正彦LN147]

 今年の初夏の頃、志村正彦についての思いがけない大切な出来事があった。

 僕は国語科の教員だが、キャリア教育や進路指導の係を担当している。この高校に来てからもう十五年になるが、その間ずっと進路指導室という部屋に席がある。生徒は7割が進学、3割が就職で、進路を実現するという責任の重い仕事に携わってきた。
 六月頃だった。進路室で同僚が農業高校について話をしていた。その時、漫画『銀の匙 Silver Spoon』のことが話題となり、アニメ版の主題歌を作ったフジファブリックという流れで、「志村正彦」という名を出した。(授業とは異なり、同僚の先生方に志村さんの話をすることも、このblogの存在を知らせることもほとんどない。あの時は自然にその名が出てきた)

 すると、今年赴任されて進路の係となった女性の先生が「わたし、正彦君の担任だったんです」と話してくれた。驚いた。同時に嬉しくなった。山梨は狭い地域であり、話しているうちにどこかでつながりが見えるということがしばしばある。その先生は、志村正彦が山梨県立吉田高等学校一年生の時のクラス担任だった。
 それからしばらくの間、志村さんのことで話が弾んだ。高校生の時の彼を今までよりも身近に感じるようになった。その話を今回は書いてみたい。(このblogに書いてもよろしいでしょうかと尋ねると、先生から快く了承していただきました。ここに書いてもよいことを少しだけ書かせていただきます)

 「正彦君はいつも遠くを見つめていました」
 先生の記憶の中心には、教室やいろいろな所でいつも遠くを見ているような志村正彦の姿がある。
 「正彦君は丸顔なんですよ」、少し微笑みながらそう言われた。そして綺麗な目をした高校一年生だった。元気のいい楽しいクラスで、沢山の思い出があるそうだ。少しやんちゃな男子も多かった。志村さんは目立つわけではないが、仲間とはよく付き合っていた。何かに打ち込んでいる感じがあり、クラスでも一目置かれていたそうだ。将来、歌詞を書くなんて全く想像できなかったとも言われた。思春期の男子なので、繊細なところはあまり出さなかったのだろう。
 先生はクラス文集を大切に取っておかれていて、予備として保管していた一冊をいただいた。思いがけないことで感謝を申し上げるだけで精いっぱいだった。(志村さん手書きの一頁もあったが、ここに記すことは控えます)

 クラス担任は本人・保護者との三者懇談で進路の希望を聞く。志村さんは一年生の時から「音楽家になりたい」とはっきりと語っていた。ゆるぎのない決意を知り、理解ある先生は納得した。(その後の志村さんの活躍を予想していましたかと聞くと、そこまでは想像していなかったけれど、未来を見据えるような表情からその道に進むことを確信したそうだ)「志村日記」にある通り、高校入学時から音楽家志望だった。

 その後「ロックの詩人 志村正彦展」のポスターを差し上げた。
 「瘦せてしまいましたね」とぽつりと言われた。先生の表情が寂しそうだった。記憶の中の「丸顔」の高校生。目の前にあるポスター写真の二十代後半の若者。撮影は2007年の晩秋で、確かにこの時期はやや痩せている。遠くを見つめるような綺麗な眼差しはそのままだが、深さとある種の苦さが込められている。高校一年から十年を少し超える月日が流れているが、そんなに長い間というわけでもない。この間の音楽家としての生活、その時間がどのようなものだったのか。痩せてしまったという一言から、様々なことを考えさせられた。

 志村さんが高校に入学したのは1996年。今年は2016年。二十年が経つ。先生が穏やかに懐かしそうに話す表情から、受け持ったクラスの生徒に対する愛情が伝わってきた。
 いつも遠くを見つめていた志村正彦。そのことを記し、今年最後の文を閉じたい。

2016年12月28日水曜日

2016年を振り返る[志村正彦LN146]

 今年は、折に触れてこのblogで触れたが、志村正彦・フジファブリックの作品が地上波テレビなどで何度も取り上げられた。映像メディアも多様化しているが、やはり地上波の力は大きい。反響の度合いが格段に違う。

・ 5月19日、NHKEテレ、『ミュージック・ポートレイト』「妻夫木聡×満島ひかり 第2夜」。俳優の妻夫木聡が『茜色の夕日』を人に贈りたい曲として選んだ。

・ 8月18日深夜、フジテレビ、アニメ『バッテリー』第6回。エンディング曲として『若者のすべて』(anderlustによるカバーヴァージョン)が流された。

・ 11月15日、NHKBSプレミアム、ドラマ『プリンセスメゾン』第4回「憧れのライフスタイル」。『茜色の夕日』が挿入歌として使われた。

・ 12月1日、NHKEテレ、『ミュージック・ポートレイト』「古舘伊知郎×大根仁 第2夜」。映画監督の大根仁が『夜明けのBEAT』を人生の転機となった大切な曲として紹介した。

 確認できていないだけで、この他にもあったかもしれない。twitterなどで、季節の折々に、例えば夏の花火の季節に『若者のすべて』が色々な場所で流されたという報告があった。anderlustによる『若者のすべて』カバーはCD音源化されたが、ライブなどで志村と縁のある音楽家を中心に、フジファブリック作品が演奏されたという話も少なくなかった。

 年末、志村正彦の故郷、山梨県富士吉田市では、夕方5時にフジファブリック『茜色の夕日』のチャイムが流された。彼の同級生を中心とした集まり「路地裏の僕たち」や市役所のおかげだ。
 昨夜は「Yahoo!JAPAN」の「エンタメ」ニュース欄で「志村正彦さん 防災無線で追悼という毎日新聞の記事が配信されていた(12/27(火) 17:29)。東京から来た女性の「青春時代に聴いた志村さんの音楽と人間性にひかれます。地元でチャイムを流し続けてくれているので、また来たいです」というコメント、24日下吉田駅前にファンが集っている写真が載せられていた。
 チャイムが流される。ただそれだけのことかもしれないが、それはそれだけで終わらない。大切な何かが確実に伝わっていく。

 「路地裏の僕たち」のメンバーは5月から地元ラジオ局の「エフエムふじごこ」で、『路地裏の僕たちでずらずら言わせて』(日曜日14:00~14:30、再放送水曜日20:30~21:00)を始めた。「都留信用組合プレゼンツ」とあり、スポンサーのローカル色が強いのがいい。
 同級生ならではの思い出話。時に甲州弁が混じるのがとてもいい。彼らも参加し、9月に開催された「SHINJUKU LOFT 40TH ANNIVERSARY MUSIC FES DREAM MATCH 2016」出演アーティストによる志村正彦についてのコメントもあった。最近、「富士ファブリック」オリジナルメンバーの3人による結成時の話が数回放送されたが、志村が当時好きだったブラジル音楽などが紹介され、非常に興味深い内容だった。(ネットラジオの録音方法が分からないので、外出中で聞けない日もあるのが残念だが)

 今年は1月にデビッド・ボウイ、11月にレナード・コーエンが亡くなった。60年代70年代から活躍してきた「ロックの詩人」の生が閉じられていく時代を迎えている。ボブ・ディランは歌い続け、ノーベル文学賞を受賞した。「ロックの詩」の文学としての価値が歴史に刻まれた。
 このblogは、その折々の出来事、偶発性に触発されることは重視しているので、洋楽の話題が多くなった。僕にとってロックの原点は英米にある。現在の音楽シーンで最も好きなバンド、AnalogfishとHINTOについて何度も書いた。この二つのバンドの作品とライブは今日の都市音楽の最高の達成点だと断言する。ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアの足跡を訪ねる小さな旅のノートも綴ることができた。地元の愛すべきクラブ、ヴァンフォーレ甲府のこと、サッカースタジアムという場についても触れた。

 歌や詩の言葉、音楽の作品やライブを縦軸に、甲府や山梨という場、時には旅の地を横軸にして、この偶景webは織り込まれていく。その中心点にいるのは志村正彦なのだが、今年は相対的に、彼の作品を取り上げることが少なくなってしまった。関心が低下しているのではなく、むしろその逆である。書いてみたい様々なモチーフが蓄積されているのだが、僕の記述ペースではこの回数と分量が限界だった。(それでも今回で82回を数えた。4日に1回の割合に近い)来年は少しスタイルを変えてみたい。

 今年、志村正彦に関する私自身の仕事に関して一つの進展があった。
  『変わる! 高校国語の新しい理論と実践―「資質・能力」の確実な育成をめざして』(編著大滝一登・幸田国広、大修館書店、2016/11/20)という書籍に、 『思考の仕方を捉え、文化を深く考察する―随筆、歌詞、評論を関連付けて読む―』という原稿を執筆した。三つの作品、俵万智の随筆『さくらさくらさくら』、志村正彦・フジファブリックの歌詞『桜の季節』、社会学者佐藤俊樹の評論『桜が創った「日本」』を横断的に教材化して、生徒の思考と表現を触発させ、「桜」という不可思議な存在、言語文化的な主題について探究する授業を報告し分析したものである。十回分の授業を十二頁に集約させたために概要的な記述になっている(全体のバランスと分量の制約があり、志村正彦に関する部分も当初書いた原稿を削除せざるを得なかった)。拙いものではあるが、ここ数年試みてきた「思考と表現の構造化」の学習、「志村正彦の歌詞」の教材化によって、新しい高校国語の方向の一つを素描することはできたのかもしれない。
 この本の詳細についてはあらためて書いてみたい。

 12月14日、フジファブリックのニューアルバム『STAND!!』が発表された。2014年9月リリースの『LIFE』から二年ぶりの新作だ。現メンバーの3人が数曲ずつ曲を作ったそうだ。どのような世界を作り上げたのだろうか。変化しているのだろうか。最近注文したのでまだ届いていないのだが、冬休みの間に聴いてみたい。 

 2016年も、志村正彦・フジファブリックの作品はかけがえのないものとして、人々に届けられている。

2016年12月23日金曜日

都市音楽としての『茜色の夕日』-ドラマ『プリンセスメゾン』[志村正彦LN145]

 NHKBSプレミアムで10/25~12/13の毎週火曜日に放送された「プレミアムよるドラマ」枠のドラマ『プリンセスメゾン』。11月15日の第4回「憧れのライフスタイル」で、フジファブリック『茜色の夕日』が挿入歌として流れた。ネットの情報で知り、再放送を見ることができた。

 原作は池辺葵という漫画家の作品だそうだ。NHKのサイトには、「女、26歳、居酒屋勤務、結婚の予定なし。でも、“家”を買います」というコピーがある。「沼越幸」(森川葵)が購入するマンションを探す姿に現代の女性が求めているものを描く。彼女は不動産会社の営業マン「伊達政一」(高橋一生)を中心に様々な人々と出会う。

 第4回のラスト近く、冒頭から24分過ぎ、沼越幸が務めている居酒屋のシーンで『茜色の夕日』が静かに流れ出す。伊達政一が沼越の働く姿を垣間見るとそのまま小路を歩きだす。その瞬間から音量が高くなり、志村正彦の声が画面を覆いつくす。

  君に伝えた情熱は呆れるほど情けないもので
  笑うのをこらえているよ 後で少し虚しくなった


 言葉の一つ一つが耳にしみこむ。
 伊達は自宅に戻りソファに座る。

  東京の空の星は見えないと聞かされていたけど
  見えないこともないんだな そんなことを思っていたんだ

 この歌詞に合わせて伊達が歌い出す。心に刻まれた『茜色の夕日』を自らの声で追いかけるように。「思い出すもの」がたくさんあるかのように。伝えられないものがたくさんあるかのように。
 志村正彦の声と伊達を演ずる高橋一生の声が、重なり合い、響き合う。その意外性、 不思議な感覚にひきつけられた。

 高橋一生はドラマや映画でしばしば見かけるが、五年前の冬、新宿の紀伊国屋ホールで演劇を見たことがある。鴻上尚史の「第三舞台」の封印解除&解散公演「深呼吸する惑星」だった。見た目通り少し線が細い感じだが、舞台に立つとなかなか存在感のある役者だった。

  高橋一生の演じる伊達の緊張感ある表情とやや暗い眼差し。池の水に対する恐怖症を感じさせるシーンなど、心に重く抱えているものがありながらも、誠実に礼儀正しく仕事にいそしむ。作中の人物設定は三十五歳のようだ。志村正彦が元気でいれば同じ位の年だ。(志村が会社員になっていたら、伊達のような表情で仕事をしていたのかもしれない、などというありえない空想をしてしまった)

 どのような演出の意図があって、『茜色の夕日』が挿入歌となったのかは分からないが、このドラマの文脈では、「東京の歌」として位置付けられているのは間違いない。都市生活者の都市音楽としての『茜色の夕日』。(この「都市音楽」という表現は、浜野サトル氏の著作『都市音楽ノート』の表題から使わせていただいている)ただし、地方からの出郷者が作る都市音楽、都市の歌なのだが。志村がそうであったように、作中の伊達も地方からの上京者という設定なのかもしれない。

 歌の主体は「少し思い出すものがありました』という語り口で歌い出す。今、東京で、生きている。その場と時から、かつて生きていた場、時へと回帰していく。
 志村正彦の描く風景、春夏秋冬の季節感、それは彼の故郷富士吉田、山梨に由来するものあることは確かだ。だが、そのままのものではなく、それらが一度失われたうえで、あらためて想い出されたもの、都市という場からの眼差しで再構築されたものだ。そのことが彼の歌の普遍性を支えている。望郷の歌、帰郷の歌、郷土性の高い歌とは一線を画している。

 明日12月24日は彼の命日である。今年も一週間の間、彼の生まれ育った富士吉田で『茜色の夕日』が夕方5時のチャイムの曲となる。
 今日は昨夜からの雨が上がったが、風がすごく強い。
 『茜色の夕日』は、故郷の風に吹かれているのだろうか。

2016年12月18日日曜日

『Biko』Peter Gabriel-ビコ生誕70周年

 今朝、「google」のトップ画面には、シャツ姿のアフリカ系人の男性が何かを見つめている姿があった。誰だろうか。気になった。


 イラストにポイントをあてると「スティーヴ・ビコ生誕70周年」と表示される。ビコだったのか。クリックすると検索画面に変わり、「スティーヴ・ビコ 生年月日1946年12月18日」とあった。今日はビコが生まれて70年目となる日だった。「google」は時に良い仕事をする。

 スティーヴン・バントゥー・ビコ (Stephen Bantu "Steve" Biko)は南アフリカの反アパルトヘイト活動家だ。「黒人意識運動(Black Consciousness Movement)」の代表として活動していたが、1977年9月12日、拷問をうけ死去した。30歳の若さだった。

 1980年発表のPeter Gabriel(ピーター・ゲイブリエル)ソロアルバム3作目『Peter Gabriel』(彼のソロは1作目から4作目まではすべて『Peter Gabriel』としか記されていない。当時彼は雑誌のタイトルのようなものだと述べていた。ジャケット写真からファンの間では『Melt』とも呼ばれている)のB面最後の曲が、『biko』だった。当時の日本ではスティーヴ・ビコはほとんど知られていなかった。少なくとも僕はそうだった。多くのロックファンと同様にこの歌によってビコの存在を知った。

 洋楽の中では今に至るまで、Peter Gabrielは僕にとって唯一無二の存在だ。Genesisというバンドで彼は、物語や神話のモチーフを活かした歌詞、奇妙な仮面や衣装をまとった演劇的なステージなど、アバンギャルドなロックを創造した。ソロになってさらに、深い内省の力、鋭い批評性やユーモアも加わった。そのような彼が社会の現実に向き合い、問題を告発する歌を作り世界に広めようとしたことに、驚きと共に深い感動を覚えた。80年代の前半、一番多く聴いていたのはこのアルバムだった。

 『Biko』は発表以来、彼のコンサートの最後で必ず歌われるようになった。1994年3月、PeterGabriel 「Secret World Tour」ライブが日本武道館で開催された。(今に至るまで、彼の単独来日ライブはこのツアー1回だけだ)僕にとっては文字通りの「夢」のライブだったのだが、この時もアンコールの最後でこの歌が力強く歌われた。

 「Peter Gabriel VEVO」に「Amnesty International」のコンサート映像がある(時と場は1990年チリのようだ)。記者会見の映像もあり、コメントも聞ける。四十歳になった彼は地元の音楽家やStingと共演し、繊細にして強い意志が込められた声で歌っている。最後の観客の歓声に心を動かされる。



 歌詞を引用する。
 第二ブロックが印象深い。Peter Gabrielらしいvisionにあふれている。黒色と白色の世界を分断する線が赤く染まっている。歌の主体「僕」はそのような色彩の夢を見る。「僕」は、そして僕らは夢から覚めるのだろうか。
 分かりやすい英語だが、拙訳を付したい。

 September '77
 Port Elizabeth weather fine
 It was business as usual
 In police room 619
 Oh Biko, Biko, because Biko
 Oh Biko, Biko, because Biko
 Yihla Moja, Yihla Moja
 The man is dead
 The man is dead

 When I try to sleep at night
 I can only dream in red
 The outside world is black and white
 With only one colour dead
 Oh Biko, Biko, because Biko
 Oh Biko, Biko, because Biko
 Yihla Moja, Yihla Moja
 The man is dead
 The man is dead

 You can blow out a candle
 But you can't blow out a fire
 Once the flames begin to catch
 The wind will blow it higher
 Oh Biko, Biko, because Biko
 Yihla Moja, Yihla Moja
 The man is dead
 The man is dead
 And the eyes of the world are watching now, watching now

 1977年9月
 ポート・エリザベス快晴
 いつもの仕事だった
 619号取調室で
 ビコ、ビコはビコゆえに
  Yihla Moja
 その男は死んだ

 夜眠ろうとすると
 僕は赤色の夢だけを見る
 外の世界は黒色と白色で
 一つの色だけが死んでいて
 ビコ、ビコはビコゆえに
  Yihla Moja
 その男は死んだ

 ろうそくを消すことはできる
 だが火を吹き消すことはできない
 一度炎が燃えはじめると
 風が炎を高く舞いあげる
 ビコ、ビコはビコゆえに
  Yihla Moja
 その男は死んだ
 そして、世界の目が今見つめている


 Bob Dylanのノーベル賞受賞によって、彼の初期のプロテストソングが注目を浴びているが、Peter Gabrielの 『Biko』も非常に優れたそして影響力を持つプロテストソングだ。従来とは異なる形の差別や貧困という「分断」が「世界」に広がる今日、「世界」の眼差しを問いかけるこの歌の存在は大きい。

2016年12月11日日曜日

パティ・スミスが歌う『はげしい雨が降る』-ディランのノーベル賞授賞式

 昨夜、パティ・スミスがノーベル賞授賞式でボブ・ディランの代わりに『はげしい雨が降る』(A Hard Rain’s A-Gonna Fall)を歌った。もうすぐ七十歳になるパティを見ると別の感慨も覚える。
 公式の映像がyoutubeにある。1:03頃から1:11頃までがそのシーンだ。

 パティは緊張のせいか2番の途中で詰まってしまう。「ごめんなさい。とてもナーバスになっています」と言うと、会場からあたたかい拍手。それに促されるようにして、少し戻ったうえでもう一度歌い始めた。
 パティの声を通じてディランの言葉が会場に静かにしかし強く広がっていく。歌詞に触発されたのだろうか、涙ぐむ女性も映されていた。真摯であたたかい雰囲気に包まれていた。歌詞の一節を引きたい。拙訳を付す。

  Heard the song of a poet who died in the gutter,
  Heard the sound of a clown who cried in the alley,
  And it's a hard, and it's a hard, it's a hard, it's a hard,
  And it's a hard rain's a-gonna fall.

  側溝で死んだ詩人の歌を聞いた
  路地で泣いた道化の声を聞いた
  激しい激しい激しい激しい
  激しい雨が降る

 ボブ・ディランの歌が「文学」であるかどうかというつまらない議論があるようだが、言葉が私たちに作用していく作品は、文字であれ音声であれ、すべて「文学」だと考える。書かれた文学の歴史はまだまだ浅い。もともと歌謡や口承文芸がその根源にある。
 ディランのノーベル賞授賞は、彼の歌、そして広く、ロックの歌、ロックの詩に出会う人が増えていくことに最大の意義があるのだろう。

【付記】
 昨夜放送のNHKスペシャル『ボブディラン ノーベル賞詩人 魔法の言葉 は非常に興味深かった。タルサにある「ボブ・ディラン アーカイブ」に取材に行き、あの『ブルーにこんがらがって』(Tangled Up in Blue)の創作過程を資料に基づいて解説していた。ディランがどれだけの時間をかけて作品を完成していったのかの一端が分かる。12月17日(土) 午前0時10分から再放送される。この番組については回を改めて書いてみたい。
 また、今夜23:00からNHKBSプレミアムで 『BOB DYLAN Master Of Change~ディランは変わる~』も放送される。

2016年12月5日月曜日

大根仁の選んだ『夜明けのBEAT』[志村正彦LN144]

 NHKEテレ『ミュージック・ポートレイト「古舘伊知郎×大根仁 第2夜」』を先ほど見終わった。ネットの情報で大根仁監督がフジファブリック『夜明けのBEAT』を選んだと知ったので再放送を録画しておいた。(本放送は12月1日にあった)

 この番組は、気心の知れた2人が人生の節目で心に響いた「大切な音楽10曲」を語り合うもの。古舘伊知郎と大根仁は20年来の知り合いだそうだ。二人は一緒に仕事をしていたのだが、古舘が「報道ステーション」を始めたことで、大根にとって生活の基盤となる仕事が失われる。これを転機として彼は深夜ドラマにシフトしていく。過去のドラマのパロディなど工夫を重ねたが、イマイチ「数字」(視聴率)が取れない。人に届けることができない。年齢も40歳を超える。ヒット作をちゃんと作らねばと思う。そんなある日定食屋で読んでいたある漫画に心をつかまれる。それが『モテキ』だった。普遍的なテーマ「恋愛」に活路を見出していく。テレビドラマ『モテキ』の誕生話だ。そしてこの作品が大ブレイクした。


 ドラマ『モテキ』の話に続いてナレーターが語りだす。ご覧になられなかった方のために、音源や映像部分を(  )内に注記しながら、発言を忠実に再現しよう。

(語り)大根は自らのモテなかった体験を主人公に投影してドラマを作り始めます。同時に主題歌を探していた大根、ふとこの曲に出会います。(ここから『夜明けのBEAT』イントロが流れる)
大根自身鳥肌が立ったというほど作品にぴったりなこの曲。大根はドラマ作りを加速させます。(ここから『夜明けのBEAT』MVが始まる。森山未來が夜を彷徨うシーン。歩いて倒れ、倒れて歩く。「半分の事で良いから 君を教えておくれ」「些細な事で良いから まずはそこから始めよう」の歌詞テロップ)

 MV中の志村正彦登場シーンが流れると、それに合わせるように、大根の次の言葉が始まった。

(大根)この曲はボーカルの志村さんという人が2010年そのモテキのオンエアが始まるちょっと前に亡くなってしまったんですよね。で、だから志村さんはこの曲をこのドラマに向けて書いたつもりではないんですよ。でもなんかそうなのにもうなんか内容的に完全にシンクロしているし、なんかこの呼ばれている感じは何だろうなっていうね。

 「この呼ばれている感じは何だろうな」というのが大根仁の『夜明けのBEAT』経験の核心にあるものだろう。彼は「呼ばれている」ことに誠実に応えた。そうすることで、『モテキ』と『夜明けのBEAT』は遭遇を果たせた。この歌がドラマ作りを加速させたように、ドラマ『モテキ』が『夜明けのBEAT』を数多くの人々に伝えることになった。

 志村正彦も大根仁も『モテキ』の作中人物の一人となり、この二人が対話しているかのような幻想を想い描けるかもしれない。 FUJIFABRIC Official YouTube Channelから大根監督作成のMVを添付しよう。





 久しぶりにこのMVを見た。森山未來のダンスはエッジが効いている。踊りも演奏も映像も、深夜から早朝までの時間を疾走していく。ラストシーン、薄紫色の雲と空の世界は、題名通りの「夜明け」の感覚に満ちている。そしてこのMVを支えているのは、数秒しか映らないのではあるが、志村正彦の歌い叫ぶ姿であろう。


 今年はすでに5月に『ミュージック・ポートレイト「妻夫木聡×満島ひかり第2夜」』で、妻夫木によって『茜色の夕日』が選ばれている。
 記憶されるべき作品として、志村正彦・フジファブリックの歌は「今」を生きている。