ページ

2016年8月31日水曜日

anderlust『若者のすべて』 [志村正彦LN138]

 8月31日は夏の終わりの日なのだろう。翌日9月1日は一日しか違わないが、秋の始まりの日という気がする。まだ暑い日々は続くが、不思議なほどに、暦は季節を区切ってしまう。

 今朝、定点観測している桜の樹を見た。緑色の葉の中にすでに黄色の葉がかなり混じっている。朝日の逆光をあびて、緑と黄の織り交ぜられた色が輝いていた。台風が去って日差しは眩しいものの風は涼しく心地よかった。午後になると、雲間から富士山が現れてきた。26日、吉田の火祭りがあり、富士も山じまいを迎えた。秋に向けてその姿も変容しつつあるのだろう。

 夏の終わりというと、やはりフジファブリック『若者のすべて』だ。このところtwitterで、ラジオやテレビ、花火大会のBGMで流されているという報告が多い。すっかり夏の定番ソングとなったようだ。この歌が愛されているのはファンとして素直にうれしい。

 少し前になるが、フジファブリックの最新情報として、「フジテレビ"ノイタミナ"アニメ『バッテリー』新エンディング・テーマとしanderlustが『若者のすべて』をカバーしています。この曲は、anderlustの2nd Single『いつかの自分』の期間限定生産盤、通常盤に収録されます。」というメールが来た。

 anderlustは全く知らないし、アニメのことも詳しくない。でも『若者のすべて』のカバーであれば聴かないわけにはいかない。ネットで調べると、通常盤、期間限定生産盤、初回生産限定盤などのいくつかの盤がある。迷ったが結局、『いつかの自分(期間生産限定アニメ盤)(DVD付)』を購入した。「バッテリーノンクレジットエンディング映像2 (若者のすべて【6話ver.】)」のDVDが付いていたからだ。 

 anderlustは、越野アンナと西塚真吾による男女2人組のユニット。名は「抑えきれない旅への衝動」を意味する“Wanderlust”という言葉から、Wを抜いた造語とのこと。「lust」というのは強い欲望や欲動を意味する。大胆な名前だ。プロデューサーは小林武史。かなり力を入れて売り出している大型新人のようだ。

 パッケージはアニメの1シーンから取ったものだろうか、表も裏も野球をモチーフとしている。微笑ましい絵だ。インナースリーブの『若者のすべて』の欄には「LYRICS:MASAHIKO SHIMURA  COMPOSE:MASAHIKO SHIMURA」とある。志村正彦のローマ字表記のクレジットは珍しい。
 続いて「ARRANGE&KEYBOARDS:TAKESHI KOBAYASHI」、GUITAR、DRUMの担当の名が記されている。VOCAL:越野とBASS:西塚と合わせて五人編成による録音のようだ。

  CD音源をまず聞いてみる。小林武史によるイントロのキーボードのアレンジが、予兆を感じさせるように美しく響く。越野アンナの声は綺麗に高い音域まで伸びていく。しかし、透明な感じではなく、わずかばかりだが夾雑物が混じっているような感触の声だ。硬い金属的な感触とでも形容できるだろうか。否定的な意味合いではなく、ある種の味わいにもなっている。西塚真吾のベースもよく動き回る。

 年齢の若いアーティストらしく、anderlustの『若者のすべて』は、彩りが鮮やかで力強い。「若者の現在」という感覚のサウンドデザインだ。この曲の数あるカバーの中でも最も現代的なポップソングになっている。

   (この項続く)

2016年8月28日日曜日

ペソアの言葉―『虹』2 [志村正彦LN137]

 前回、志村正彦はおそらく実際に見たこと、感じたことを言葉にしていると書いた。「虹が空で曲がってる」は、現実であり実感である「実」の風景であろう。

 五月から七月にかけて、ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアを巡る旅のエッセイを十回にわたり書いた。志村正彦のことも念頭にあったからだ。
 ここで詩人の在り方についてのペソアの言葉を引用したい。彼が遺したテクストの中でも最も有名なもので、ペソアに関するwebやbotでもよく引用されている。

一流の詩人は自分が実際に感じることを言い、二流の詩人は自分が感じようと思ったことを言い、三流の詩人は自分が感じねばならぬと思い込んでいることを言う。
 
(『偶然任せのノート』「南東」誌 1935年11月、訳・澤田直、『ペソア詩集』思潮社2008年8月)

  「一流」「二流」「三流」という区分はともかくとして、詩人の感性とその表現に関するこれほど的確で辛辣な表現を他に知らない。「実際に感じること」ではなく「感じようと思ったこと」「感じねばならぬと思い込んでいること」を表現したものは、詩ではなく詩のようなものであるにすぎない。感じることがそのものではなく、それに対する願望や義務などの計らいと化してはならない。続く箇所にはこうある。

多くのひとはただ習慣に従って物事を感じるのであり、それは人間的誠実さという点からすれば全くもって誠実だ。しかし、彼らはいかなる度合においても知的誠実さをもって感じてはいない。ところが詩人において重要なのはこの知的誠実さなのだ。  (同上)

 人間的な誠実さと知的な誠実さ。習慣化した見方は人間的には誠実であっても、詩人としては誠実ではない。詩人の知的誠実とは「自分が実際に感じること」を表現することにある。
 このペソアの主張と接続させてみたい志村正彦の発言がある。『音楽とことば ~あの人はどうやって歌詞を書いているのか~』(企画編集・江森丈晃、ブルース・インターアクションズ2009年3月)で彼はこう述べている。

歌詞というのは、どんなものでも、何を書いてもいいものではあるんだけど、実は、なんでもよくはない。そこにリアルなもの、本当の気持ちが込められていなければ、誰の気持ちにも響いてくれないと思うんです。

 「リアルなもの」「本当の気持ち」が歌詞に込められていなければ誰にも響かないという志村の言葉は、ペソアの「実際に感じること」に通底する。詩や歌詞を読んだり聴いたりしていて、そこで表現されている核心に「実」が感じられないことがある。作り物めいた感じ、借り物めいた感じと言えばいいだろうか。詩や歌詞を「作る」ことに性急で、志村の言う「リアルなもの」が伴っていない。詩人の「実」がない。文字通り、不実だ。そのような虚ろな歌が日本語ロックの世界にも多い。

 志村の場合、作り物めいた不自然さを感じることはない。彼の言う通り、「リアルなもの」が彼の詩の核心にある。もちろん彼の表現が実際に感じたことに基づいているのかがどうかは確かめようもないが、言葉と言葉とのつながり方がとても自然であり、時には突飛なほどの飛躍や不自然とも感じられるような転換があるが、それを含めて、深い現実感がある。言葉の現れ方がリアルであり、言葉の配列にある種の動かしがたい必然性がある。

 『虹』の冒頭「週末 雨上がって 虹が空で曲がってる」も、第二連の「週末 雨上がって 街が生まれ変わってく」も、詩人が実際に見たこと、リアルな風景を描いている。「リアルなもの」が彼の歌の源泉にある。彼の歌を「詩」に限りなく近づけている。

2016年8月16日火曜日

「虹が空で曲がってる」ー『虹』1 [志村正彦LN136]

 甲府は盆地なので熱気が籠る。時には日本一暑いという記録の出る土地だ。ただし、山に囲まれた土地なので、夜になり風が吹くと気温が下がる。いい具合に夕立があると涼むこともできる。このところ、日中はまだ猛暑だが、朝晩は過ごしやすくなってきた。8月の後半に入り、真夏のピークが過ぎつつあることを実感する。

 夏の野外の所謂「フェス」に行く年齢ではもうないので、この時期は、ROCK IN JAPAN FESTIVAL(RIJF)などwowowで放送される番組を家でぼんやりと見るのが恒例行事だったが、今年は生放送がなくなった。生放送とはいっても、何会場もあるライブをそのまま中継できるわけもなく、制作側が選んだものをただ受け身で見るだけだったが。アーティストによっては後に25分程度の総集編が放送される。フジファブリックもここ数年放送されている。夏の野外という場に特有の雰囲気、バンドとその聴衆との関係の様子が伝わってくる。

 三年ほど前になるだろうか、金澤、加藤、山内の三氏が夏のRIJFと年末のCDJの映像を振り返る『フジファブリック フェス・ヒストリー・スペシャル』という番組が放送された。2005年の初登場の時に最初に演奏されたのは『虹』だった。(加藤氏の「虹事件」、ベースのチューニングが狂っていたが誰も気づかなかったという話もあった)記録を見るとそれ以来、RIJFには2010年と2015年を除いてずっと出演し、今年で通算10回となった。13日のステージは『虹』の後『若者の全て』で締めくくられたそうだ。
 『虹』はフジファブリックの夏のフェスの代表曲となっている。歌詞の内容からしても、野外の空の下が似合う歌だ。 公式の映像を添付させていただく。



 
  週末 雨上がって 虹が空で曲がってる
  グライダー乗って 飛んでみたいと考えている
  調子に乗ってなんか 口笛を吹いたりしている

            (『虹』 作詞作曲・志村正彦)


 「週末 雨上がって」 雨上がりの風景に「虹」が登場する。週末に何かを期待する、その期待の地平のようなものに、虹が現れる。
 「虹が空で曲がってる」条件が整えば、虹が空の中で大きく綺麗に半円を描くのが見えるようだが、なかなかそうはいかない。虹はすぐに消えてしまう。雲の合間に現れることも多い。くっきりとは見えないこともある。ふつうはその一部分、区切られたゆるやかな弧を描く虹が見えることの方が多いだろう。だから 、「虹が空で曲がってる」という歌詞を初めて聴いたとき、「曲がってる」という言葉に新鮮な驚きを感じた。虹が主語となり曲がるという述語で受けるその表現にも感心した。

 志村正彦はなぜ「虹が空で曲がってる」と描いたのか。
 現実にそのような景色を見たからだというのが、当たり前ではあるが、最も根拠のある答えだろう。しかし、虹が曲がる風景を見たとしても、それをそのまま言葉にするかどうかは、まさしくその表現者による。私たちは慣習化した言い回しを使いがちだ。何かを見出したとしても、その次の瞬間には、そのありのままの風景を忘れ、慣れきった言葉の世界に安住してしまう。

 志村はおそらく実際に見たことを描いている。実際に感じたことを述べている。「虹が空で曲がってる」は「実」の風景なのだ。「実」はありのままの世界であり、ありのままの感覚を生きることだ。優れた詩人は「実」を描く。言葉に変換する。その表現がありきたりな表現を越えていく。

2016年8月7日日曜日

「黙って見ている落ちてく スーベニア」-『星降る夜になったら』2[志村正彦LN135]

 『星降る夜になったら』の冒頭、「真夏の午後」の「うたれた通り雨」から「柔らかな日がさして」「雷鳴は遠くへ 何かが変わって」という展開は、例えば、『陽炎』の「やんでた雨に気付いて 慌てて家を飛び出して」、『虹』の「週末 雨上がって 虹が空で曲がってる こんな日にはちょっと 遠くまで行きたくなる」を思い出させる。

 志村正彦は、雨が上がり、風景が変わっていく出来事を繰り返し作品にした。そして、『陽炎』の「家を飛び出して」、『虹』の「遠くまで行きたくなる」ように、『星降る夜になったら』でも、雨上がりの空が「星降る夜」に移り変わると、「街を出る」と歌う。

 星降る夜になったら
 バスに飛び乗って迎えにいくとするよ
 いくつもの空くぐって
 振り向かずに街を出るよ

  「バスに飛び乗って迎えにいくとするよ」の「とするよ」は微妙な言葉使いだ。「星降る夜になったら」とあり、「夜」の到来を仮定しているからには、歌の主体「僕」はまだ「真夏の午後」にいる。「迎えにいく」ことも「街を出る」ことも、「僕」の願望のままに止まっている。しかし、後半になると次のように歌われている。

 星降る夜を見ている
 覚めた夢の続きに期待をしてる
 輝く夜空の下で
 言葉の先を待っている

 夜が訪れた。歌の主体「僕」が「星降る夜を見ている」場面だ。この時、「星降る夜」を、一人で見ているのだろうか、それとも「迎えにいく」とされた誰かと共に見ているのだろうか。一人か二人かで、この歌の世界は変容する。
 根拠はないのだが、この場面にいるのは「僕」ただ一人のような気がする。そうであるのなら、「覚めた夢の続き」への期待は期待のままであり、「言葉の先を待っている」は、「言葉の先」が何かは分からないままただ待ち続けていることになる。「僕」は「星降る夜」と孤独に対話している。

 黙って見ている落ちてく スーベニア
 フィルムのような 景色がめくれた
 そして気づいたんだ 僕は駆け出したんだ

 続く場面で、世界が転調する。「スーベニア」、思い出の記念品が落ちていく。スローモーションのような動きを「僕」は黙って見ている。すると、記憶の「フィルム」にある「景色」が動画のようにめくれていく。そして「僕」は何かに気づき「駆け出した」。
 「スーベニア」は何かを想起させるもの。原語「souvenir」 はもとはフランス語で、意識の上に何かが到来する、という意味だ。その原義からすると、きわめて志村正彦的な物でありモチーフであろう。特別な記念品や記念写真でなくても、なにげない景色、花、雨、空、雲、月。風景がめくれるように動き始めると、「僕」も何かに気づいて、たまらなくなって、動き出す。

 今日、久しぶりに、『Live at 富士五湖文化センター』DVDを取り出した。収録された『星降る夜になったら』の演奏を見たかったのだ。インナースリーブをあらためて読むと、開催日2008年5月31日が「雨のち曇り」という記述があった。わざわざ天候を記した配慮に微笑んだ。
 志村の「最後の方に向けて駆け抜けたいと思います」というMCと共に『星降る夜になったら』が始まる。 メンバーの金澤ダイスケ、加藤慎一、山内 総一郎、サポートの城戸紘志。皆、全力で志村を支え、富士吉田という場を愛しみ、とても充実した様子で楽しそうに楽器を奏でている。

 80年代のポップなプログレッシブロックのような明るい曲調は金澤ダイスケによるものだろう。軽快なドライブ感もあり、ファンの間で人気が高いのも頷ける。
 金澤、加藤、山内の三人のコーラスによる「星降る夜になったら」という問いかけに応えるように志村が歌う。志村パートと三人のパートとの対話のように聞こえるのが素晴らしいアレンジとなっている。『星降る夜になったら』が終わるとそのまま『銀河』のイントロが始まる。夏の夜から冬の夜へのバトンタッチだっだ。

 36度に昇る猛暑の日、弱い冷房をかけて窓を閉め切った部屋で、『Live at 富士五湖文化センター』DVDを音量を上げて再生した。はじめは『星降る夜になったら』だけのつもりだったが、結局、全てを通しで見てしまった。音と映像に引きこまれた。『線香花火』『若者のすべて』『星降る夜になったら』『Sufer King』『陽炎』と、夏にゆかりある作品が多い。激しいロックの音が響く。志村正彦は、喉の調子がよくないようで時折苦しげだが、懸命に歌いきっていた。

 このDVDパッケージそのものが「スーベニア」になりつつある。

 2008年のフジファブリックは、志村の言葉の深さ、楽曲の多様性、メンバーの卓越した演奏によって、日本語ロックの歴史の中でも最高のロックバンドだったと言える。だが、そのLIVEは永遠に失われてしまった。

2016年8月1日月曜日

「雷鳴は遠くへ 何かが変わって」-『星降る夜になったら』1[志村正彦LN134]

 今日、八月一日が「水の日」だということを初めて知った。この時期、水の使用量が多く、水について関心が高まるので記念日とされたそうだ。
 昼過ぎから空の雲行きが変わり、ものすごい雨が降ってきた。雷鳴が響く。風も吹き荒れている。水の日に、大量の雨水が甲府盆地に注がれたことになる。

 雨と雷鳴。「夏」が濃厚に迫る。はげしい雨のリズム。空気を切り裂く雷の響き。しばらくの間ぼんやりとしていた。そうこうするうちに、フジファブリック『星降る夜になったら』のイントロが頭の中で再生されはじめた。金澤ダイスケと志村正彦の作る軽快なリズムとメロディに乗って、志村の声が動き出す。

 真夏の午後になって うたれた通り雨
 どうでもよくなって どうでもよくなって
 ホントか嘘かなんて ずぶぬれになってしまえば
 たいしたことじゃないと 照れ笑いをしたんだ

 「どうでもよくなって どうでもよくなって」が、どうにも、よい。
 志村正彦は具体的な出来事を、いつも通り語らない。どういうことがどうでもいいのかはわからない。「ずぶぬれ」と「照れ笑い」の情景が互いを照らしあう。どうでもよくなる瞬間が訪れる。誰にでもそんな「真夏の午後」の記憶がある。そんな気がする。そんな出来事がこれからも起きる。

 西から東へと 雲がドライブして
 柔らかな日がさして 何もかも乾かして
 昨日の夢がなんか 続いているみたいだ
 その先がみたくなって ストーリーを描くんだ

 雷鳴は遠くへ 何かが変わって

  雨上がりの空。雲と日差し。世界が洗われる。そして乾いていく。いつのまにか、雷鳴も遠くへと過ぎ去った。

  志村正彦は「夢」のモチーフを繰り返し歌に表現した。「昨日の夢」が続いているみたいと、この歌の主体は想う。この言葉は、『若者のすべて』の「途切れた夢の続きをとり戻したくなって」とも呼応する。ただしこの歌では、夢の「先」の「ストーリーを描く」と、前向きに言葉が繰り出される。「とり戻したくなって」と「その先がみたくなって」とでは、動きのベクトルの方向が異なる。『星降る夜になったら』は、先へ先へと、夢の歩みを加速させる。


  真夏の午後の偶景。 「雷鳴」はアンセムのように轟く。アンセムが遠ざかり、静寂に包まれると、確かに、何かが変わる。何が変わるのかというつまらない解釈はやめよう。解釈できない言葉、声と音の連なりがいつまでも残響する。それでも一つだけ言えるのは、歌の主体にとって、「夢」に関わる何かかもしれないということだ。