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2016年6月30日木曜日

エレクトリコ28番 [ペソア 8] 

 ペソアの部屋のある2階の中央は吹き抜けになっていて、その壁面にペソアを描いた絵画があった。



 1階に降りる。書籍や記念品を並べた売店があった。ペソア人形のワイン栓などのグッズを買う。これも分身かもしれない。コエーリョ・ダ・ローシャ通りに出る。振り返ると、入口上の垂れ幕の赤、空の青のコントラストが綺麗だ。ここで1時間以上過ごしたが、充実した時間だった。ペソアが晩年を過ごした家がそのまま博物館になっていることが貴重だ。寝室は残し、その他は大胆に改築し、現代的な展示とイベントの場に造りかえた空間デザインも個性的だ。



 遅い昼食を取ることにした。ガイドブックで調べておいたのだが、この通りを西の方へ10分ほど歩くと、カンポ・デ・オウリケ市場がある。1934年に開設された古い市場だが、数年前にフードコートがつくられた。中に入ると、こじんまりとしているが食べもののコーナーが並んでいた。「Casa do Leitão」という店で、焼いた豚肉(レイタオン・アサード)をマデイラ島のパンでサンドイッチしたものを買う。見た目はハンバーガーだが、皮がパリッとしていてとても美味しい。
 店内を回ると、ポルトガル名物バカリャウ(干しダラ)の缶詰屋が目にとまる。色とりどりで可愛いパッケージ。お土産に数個買った。




 カンポ・デ・オウリケ市場を後にする。このあたりは中心街からは西側に離れている郊外の住宅地として人気があるそうだ。市電28番線も通っているので便利な場所なのだろう。

 近くの停車場から、「Elétrico 28」、路面電車のエレクトリコ28番線に乗る。1901年に電化されたそうだが、テクノロジーは当時のままのようだ。振動も多く、建物の壁面間際を走っていく。道路工事の砂がはみ出していたり、車が突っ込んできたりで、はっきり言って怖い。遊園地の乗り物のようなスリルが味わえる。
 夏のバカンス時期なので、私たちを含め観光客が多い。
 


 『不安の書』の主体は路面電車内で「細部」に集中する。101章にこうある。

 わたしは路面電車に乗り、いつもの習慣にしたがって、前にいる人たちをあらゆる細部にわたってゆっくりと気をつけて見ている。わたしにとって、細部とは物、声、言葉だ。
 
 「感受する人」ペソア。物を見て、声を聴き、その言葉を読みとる。彼はその細部からはるか遠くにあるものを想像し、それが増殖していく。

 わたしは眩暈を感じる。丈夫で細い籐で編んだ路面電車の座席はわたしをはるか遠い地方へ運び、工場、職工、職工の家、暮らし、現実、あらゆるものとなったわたしのなかで増殖する。疲れ果て、夢遊病者のようになって下車する。精いっぱい生きたのだ。

 「想像する人」ペソア。車内で「疲れ果て」、「夢遊病者」と化す。百年以上前、この28番線で、詩人は「眩暈」を感じる時間を、ひとつの日常として、過ごしていたのだろうか。

 この路線は人の乗降が多く、途中から座席に座れた。中心街へ入り、アルファマを過ぎる。さらに席が空いたので移動してみると、車窓の風景が変わる。そうこうしているうちに終点に着いた。30分ほどのエレクトリコの旅だった。

 しばらく歩いて、フィゲイラ広場に戻る。この広場の名はペソアの散文にも時々登場する。あの当時は大きな市場があったそうだ。昼前にここからタクシーに乗り、ペソアの家に行き、28番線に乗りここへ戻ってきた。この日の午後、夏の日差しは眩しかった。広場に面した店でアイスクリームを食べる。一息つけた。

2016年6月26日日曜日

ペソアの部屋、トランク[ペソア 7]

 フェルナンド・ペソアの家、博物館。二階の角にペソアの寝室があった。この部屋だけは当時のままらしい。入り口に案内のディスプレー。ポルトガル語と英語で表示されていた。

 中に入る。入り口から見ると手前の左側に、草稿や資料の複製が置かれたチェスト。奥の壁際左寄りにたくさんの草稿が詰められていたトランク。中央やや右寄りにベッド。その横にランプが置かれたサイドテーブル。その右側の壁際にワードローブ。写真には写っていないが、入ってすぐ左側にはペソアの黒のジャケット、シャツ、ネクタイそれに靴も展示されていた。奥の左側には窓があった。通りが望める。



 やはり一番目にとまったのは木製のトランク(収納箱)。キャプションを見ると複製だったが、これが「ペソアのトランク」かと、しばし見入ってしまった。内部には複製の資料がそれらしく積み重ねられていた。当時の様子が想像できる。



 しばらくして、宮澤賢治も沢山の原稿が詰まったトランクを遺していたことを思い出した。賢治は生年1896年-没年1933年。ペソアは生年1888年-没年1935年。賢治の方がやや遅く生まれたが、ほぼ同世代の詩人だと言ってよいだろう。生前はほとんど無名だったが、膨大な原稿が遺され、没後高い評価を受けたという共通点がある。

 ローチェストの上には数点の草稿やタイプ資料の複製が置かれていた。青と赤の色鉛筆、ペン立て、灰皿。ここで書き物をしていたのだろう。












 




 『不安の書』を読んでいくと、117章の冒頭にこういう文がある。

 しばらく―何日間だったのか何カ月間だったのか分からない―何ひとつ印象を記していない。我思わず、ゆえに我あらず。自分が誰なのかを忘れた。存在の仕方を知らないので、書くことができない。斜めに眠ることにより別人になった。自分を思い出さないというのを知れば、目覚める。  

 「我思わず、ゆえに我あらず。」デカルトのコギトを反転した表現はペソアらしい。「自分が誰なのかを忘れた。存在の仕方を知らないので、書くことができない。」もペソア的なあまりにペソア的な言葉だろう。逆に捉えるのなら、彼は書くことによって自分の「存在の仕方」を知ろうとした。自分が誰なのかを思い出そうとした。

 この文には1932年9月28日の日付がある。この前の116章の日付は7月25日だったので、二か月間ほど、この部屋で、「何一つ印象を記していない」日々を過ごしたのかもしれない。
 117章には、ペソアの住む界隈の描写もある。この部屋の窓から見た風景だろうか。

  澄みわたり動かない日の空は本物で、深い青ほどは明るくない青い色をしているのを知っている。かつてよりもいくらかくすんだ黄金色の太陽が湿っぽい反射光で壁や窓を黄金色に染めているのを知っている。風もなく、風を思わせたり欺いたりする微風もないが、はっきりしない町に目覚めた涼しさが眠っているのを知っている。考えず望まずに、そうしたすべてを知っていて、思い出をとおして以外には眠くなく、不安を通じて以外には懐かしく思わない。
 
 ペソアには街の「自然詩人」とでも呼びたくなるような、街路の美しい描写とそれに促された思考がある。
 そして、「不安を通じて以外には懐かしく思わない」という一節を読むと、なぜだか、志村正彦の『陽炎』が浮かんできた。


2016年6月20日月曜日

ペソア博物館、内部の空間[ペソア 6]

 エントランスから階段を上がっていく。最上階から見始め、階下へと降りていく動線のようだ。
 最上階はどうやら三階の上の屋根裏空間を利用して作ったようだ。壁面にペソアの写真がたくさんコラージュされている。ペソアとその異名が増殖している感覚だ。ディスプレー装置がペソアの生涯を映し出す。グラフィックな表示や動画に工夫があり、洗練された展示だった。


   『不安の書』156章で、「複数の人格」についてこのように書かれてある。

 自分のなかにわたしはさまざまな人格を創造した。たえず複数の人格を創造している。それぞれのわたしの夢は見られるとすぐに、たちまち別な人物に化身し、夢見るようになり、わたしではなくなる。
 創造しようとして、わたしは自分を破壊した。自分のなかで自分をこれほど外面化したので、自分のなかではわたしは外的にしか存在しない。わたしは、さまざまな俳優がさまざまな芝居を演じながら通りぬける生きた舞台なのだ。


 抽象的な表現でとらえにくい。末尾にある、「さまざまな俳優がさまざまな芝居を演じながら通りぬける生きた舞台」としての「わたし」という喩えが、それでもまだ分かりやすいだろうか。この展示空間自体がペソアの複数の人格の「舞台」のような気がした。
 展示室には、数は少ないが、眼鏡などの愛用の品もあった。


 三階に降りると会議室があり、ここで朗読会などのイベントが開かれるようだ。小さくも大きくもなく程良い規模だ。ハットにコート姿のかわいらしい人形もあった。これもペソアの分身だ。人形化やキャラクター化されているのは、彼が愛されている証拠だろうが。



 










  二階に下りると、ペソアの家族の写真展示があった。小さな写真スタンドによるさりげない演出だが、やはりセンスがいい。
 吹き抜けの空間の向こう側には図書室や資料室があるようだ。
 ペソア愛用のタイプライターもあった。高価なものゆえ自分では買えなかったので、勤め先の機器を使っていた。それを収集し保管したのだろう。
 


 最上階から降りてくる動線であり、空間の構成が複雑なので、部屋の階や配置の記憶があいまいになってしまった。記述が間違えているかもしれないことをお断りする。

2016年6月13日月曜日

ふたつの日付 [ペソア 5]

 今日、6月13日は、フェルナンド・ペソアの誕生日だ。128年前、1988年6月13日にペソアはリスボンで生まれた。
 ペソアの異名「Alberto Caeiro(アルベルト・カエイロ)」の詩の一節にはこうある。

  私が死んでから 伝記を書くひとがいても
  これほど簡単なことはない
  ふたつの日付があるだけ──生まれた日と死んだ日
  ふたつに挟まれた日々や出来事はすべて私のものだ

 昨年夏の旅は、ジェロニモス修道院の棺と碑から、ペソアの晩年の家(ペソア博物館)へと遡るものだった。生と死の「ふたつに挟まれた日々や出来事」をほんのわずかだけだが、たどろうとした。

 旅に戻る。ジェロニモス修道院を後にして、バスは中心街へと出発した。リスボン大聖堂の近くで降り、アルファマ地区を歩く。この界隈は1755年のリスボン大地震でも被害にあわなかったそうだ。古くからの建物、その間に狭い路地が続く。リスボンの昔の面影があると言われている。街並を通り抜けると、ファド博物館に行き着く。ポルトガル音楽というとファドだ。音楽好きとしては寄りたかったが、時間が許さない。再びバスに乗り、ロシオ広場で解散。まだ昼前。これから自由時間だ。


アルファマの路地
ファド博物館

 

 私と妻の二人はペソア博物館へ行くために、28番線の市電、エレクトリコの停車場に向かう。始発の停車場はすごい行列。あきらめて、フィゲイラ広場に戻り、タクシーに乗る。リベルダーデ大通りを上がる。街路の並木の緑、車の窓からの風がすがすがしい。大通りを左折して西の方角へ進んでいく。車窓の風景と地図を見比べて、もうそろそろ着くかなという頃、新米の運転手さんのようで道に迷っている。通行人に聞いたり道を行ったり来たりして、やっと「Casa Fernando Pessoa(フェルナンド・ペソア博物館)」に到着した。「Casa~」なので、文字通りでは「フェルナンド・ペソアの家」と呼ぶべきかもしれない。


ペソア博物館

 ペソアは1920年から1935年の死去まで、二階の一室に住んでいた。中心街からやや離れた場所にあり、当時も今も生活者の住む街だと思われる。
 1993年、リスボン市はペソアが晩年を過ごしたこの家を利用して、ペソア博物館を設立した。ペソアの部屋をのぞいて、内部は大幅に改築された。さらに数年前に展示ルームなどを現代風に改装したようだ。外見は道路沿いにある普通の建物なのであまり目立たない。近づくと、通りに面した窓に「PESSOA」という赤色の字が記されていた。壁面にも文字があった。


  入り口のドアを開け、エントランスでチケットを購入すると、年配の女性の受付の方から「どこから来たのですか」と声をかけられる。「日本からです」と答えると、「日本からの客を迎えるのは初めてです」と言われた。日本人は珍しいのだろうが、「初めて」という言葉に驚く。受付も当番制だろうから、この女性の当番の時に初めてということだろうが。どのくらいの期間の中での初めてなのだろう。確かめてみたかったが、タイミングを逸してしまった。日本人が訪れることは極めて珍しいことは間違いない。

  平日の昼頃の時間帯のせいか、他に客は見あたらなかった。一時間以上滞在したが、その間、子供連れの家族を一組見かけただけだった。ここでは時々、詩の朗読会などが行われるようだ。そういうイベントの際や生徒や学生の見学の場合を除けば、来館者はあまりいないのかもしれない。日本でも同様の状況がある。
 東西を問わず、文学者の記念館は地味な存在だ。

2016年6月8日水曜日

『不安の書』[ペソア 4]

 「どれほど些細なことも/お前のすべてを注いでなせ」。ジェロニモス修道院のペソアの碑文にある異名レイスの詩の一節だ。

 ペソアの没後、27543枚の原稿、ポルトガル語、英語、仏語で書かれた韻文や散文が大型の収納箱に遺されていた。ペソアが彼のすべてを注いで書いたテクストがそこに存在していた。

 生前から散文の主だったものは『不安の書(Livro do Desassossego)』という題で刊行する予定だったが、果たせなかった。膨大なテクストの調査研究の結果、1982年、ようやくこの書物が世に出た。詩と同様に、ペソアの「異名」ベルナルド・ソアレス(Bernardo Soares)、リスボン在住のある事務員の綴る手記という形式で、断章のテクストが集められている。序文には、ペソアがソアレスに出会ったことが語られている。実名と異名との遭遇。眩暈のような出来事からこの書は始まる。

 2007年、高橋都彦氏によって翻訳書が刊行された。649ページの大著で、企画から十数年要したそうだ。この労作のおかげで今、私たちはペソアの散文を読むことができる。邦訳『不安の書』(新思索社)は460の断章を収録している。未整理の遺稿という性格上、オリジナルの書にもいくつかの編集版があり、章の数も一定しないようだ。文字通りの「未完の書」である。


 この書の舞台はリスボンの街。話者ソアレスは路地を歩き、小さな公園を訪れ、事務所の窓から街を眺め、部屋で眠りにつく。書名の「Desassossego」という言葉には「動揺」という意味もあるようだ。街の風景を見つめ、街のざわめきを聞きとり、小さな出来事に遭遇する。主体は揺れ動き、何かを感受する。その感性が凝縮された思考と結びつくとき、断章が生まれる。日付のあるもの、ないもの。日記風のもの。散文詩的な作品。哲学的断章。創作めいたもの。純粋な断片。そして彼の生には倦怠と疲労の主調音が流れる。

 ここ二年ほど、休日に時々『不安の書』を読んできた。断章であるゆえに、ある日は250章から、ある日は100章からというように、部分、部分を読みすすめ、それを何度か繰り返した。このような読み方の方がこの書にはふさわしいだろう。

 ジェロニモス修道院の回廊の内側には中庭があった。
 その中庭に降り注ぐ光。芝の緑。通路の白。空の青。回廊のベージュ。その色合いがおだやかな調和をなしていた。周囲の喧騒をよそに、静けさに包まれていた。


中庭を囲む回廊の一階にペソアの棺と碑がある

 今回の文を書くにあたり、『不安の書』を読み返した。89章が目にとまった。なんとなく、あの回廊と中庭の風景につながるような気がした。この章には1931年9月16日という日付がある。ペソア、43歳。彼の生涯からすると、もう晩年だといえる。この章の全文を引用したい。

 去りゆく日がくたびれた深紅色に染まって流れるように消滅する。わたしが誰なのか、言ってくれる者は一人もいないだろうし、わたしが誰だったのか知る者もいないだろう。わたしは未知の山から、やはり知らない谷に下り、穏やかな午後、わたしの足跡は、森に開いた空き地に残した痕跡だった。わたしの愛した人はみなわたしを忘却の陰のなかに残して去った。誰も最終の船について知った者はいない。郵便局には、誰も書くはずがないので便りが届いている知らせはなかった。
 しかしながら、何もかも偽りだった。ほかの者たちが語ったかも知れない物語は語られず、当てにならない乗船に望みを託した以前出発した者、未来の霧ときたるべき逡巡の子については、確かなことは分からない。わたしは、遅れてくる者のうちに名前を連ねており、その名前はあらゆるものと同様に幻だ。  九月一六日



 「遅れてくる者」の名、「幻」の名が、ペソアの碑に刻まれている。 

2016年6月5日日曜日

ジェロニモス修道院の碑文[ペソア3]

 六日目、リスボンの街を歩く一日が始まる。
 朝、ツアーのバスでジェロニモス修道院へ。エンリケ航海王子やヴァスコ・ダ・ガマの偉業を讃えるために、16世紀初頭に着工。300年以上の期間をかけて19世紀に完成した。世界遺産の一つで観光客 が多い。



 修道院内部の部屋を見た後、回廊を回る。きめ細かやかな彫刻、天井の装飾が美しい。中庭から差し込む光がおだやかで、内部のベージュの色合いが目にやさしい。歩くとすぐに、フェルナンド・ペソアの棺の置かれた場所にたどりついた。現代的で簡素なデザインの碑が周囲の装飾的な様式と意外に溶けこんでいる。

 1935年、ペソアはプラセレス墓地に埋葬された(ここは彼の晩年の居住地、現在のペソア博物館からそう遠くないところにある)。その後、ポルトガルの国民的な詩人としての名声が高まり、没後半世紀を経て、1985年、ジェロニモス修道院の回廊内に移された。観光の地となっているが、ここは静謐な感じがある。


 生前はほとんど無「名」だった存在。「名」が無く、それゆえ、それにもかかわらず、多くの異名という「名」を持ったペソア。今日、彼が名のある有「名」な存在として、大航海時代のポルトガルの栄光を世に知らせる場に眠っているのというのも、不思議な運命である。

 碑にはペソアの異名、リカルド・レイス(Ricardo Reis)の詩が刻まれていた。


 帰国後、画像から「Arquivo Pessoa」で調べると、『Para ser grande, sê inteiro: nada 』という詩のようだ。

Para ser grande, sê inteiro: nada
Teu exagera ou exclui.
Sê todo em cada coisa. Põe quanto és
No mínimo que fazes.
Assim em cada lago a lua toda
Brilha, porque alta vive.
  14-2-1933  Odes de Ricardo Reis

 翻訳は、『ポルトガルの海 増補版』(池上岑夫編訳、彩流社、1997年)と『ペソア詩集 (海外詩文庫16)』(澤田直編訳、思潮社、2008年)にあった。
 二つの翻訳を紹介したい。

 偉大であるためには お前そのものでなければならぬ
 お前のなにであれ 誇張するな 排除するな
 なにごとでもお前自身であれ どれほど些細なことも
 お前のすべてを注いでなせ
 いずこの湖にも月は輝いてその姿をあますところなく映す
 高きに生きているからだ
      ( 池上岑夫 訳 )

 偉大であるためには 自分自身でなければならない
 いかなるものも 誇張も排除もしないこと
 ひとつひとつのことに すべてであれ
 どんな些細な行為のうちにも 自分のすべてを投入せよ
 そうすれば あらゆる湖に月が輝く
 月は天の高きところにあるのだから
      ( 澤田直 訳 )

 ポルトガル語は全く知らない。音の響きや抑揚も分からない。翻訳で読んで、詩の意味はおおよそ伝わるが、理解できているのかと自問すればためらう。詩の主体を指す人称が池上訳は「お前」、澤田訳は「自分」と違うので、印象がかなり異なる。詩的表現としてはどちらも成立するのだろうが。

  ポルトガルのポルトガル語とブラジルのポルトガル語には大きな違いのあることを最近知ったほど疎いのだが、ペソアの詩に近づくために、ポルトガル語の基本を学びたくなった。

2016年6月3日金曜日

大西洋、リスボンの街 [ペソア 2]

 昨年の夏、ポルトガルに出かけた。8日間のツアーだった。準備にかける時間がなく、土日と合わせてこの日数が夏季休暇の限度なので、旅行会社の企画が最良の選択となる。成田からフランクフルト経由でリスボンへ。乗り換えに6時間ほど要したので、ホテル到着まで一日近くかかった。ユーラシアの西の果ての国はやはり遠い。

 リスボンに一泊後、ポルト、コインブラなどを訪れ、五日目、ロカ岬を経由してリスボンに戻り、六日目に市街を歩いた。
 旅行の途中で印象深い光景に出会った。しかし、ここはそれを残す場ではないので省くが、ロカ岬(Cabo da Roca)、ユーラシア大陸最西端の岬から見た大西洋の風景は記しておきたい。


ロカ岬から眺める大西洋

 しばらくの間、海を眺めた。水平線はかすかに弧を描いている。ユーラシア大陸の東の果てに住む者として、この風景の果てにアメリカ大陸があり、その果ての果てに、再びユーラシアの極東の地がある、そのような感慨にとらわれた。


カモンイスの碑文
  岬の石碑には、ポルトガルの国民詩人ルイス・デ・カモンイスの叙事詩の一節が刻まれている。

 Onde a terra se acaba e o mar começa
  ここに地終わり海始まる

 この場に立つと、「地」が終わるという感覚が何となく伝わる。「海」は始まるというよりも、海の「果て」がただただ広がっている、その途方もなさを感じる。

 この後、ロカ岬からシントラを経由してリスボンへ。夕方になったが、夏の街はまだまだ明るい。



 エドゥアルド7世公園の展望台から眺める。中央に立つのはポンバル侯爵の像と円柱。その向こう側が中心街。そしてテージョ川。大西洋へと流れていく。
 うす曇りのせいか日差しは強くない。暑さもそれほどでもない。美しい風景が広がる。
 リスボン。フェルナンド・ペソアの街だ。

  ペソアがリスボンを描いた詩を探した。『ポルトガルの海―フェルナンド・ペソア詩選』(池上岑夫訳、彩流社1985/09)の中に、ペソアの異名、アルヴァロ・デ・カンポス (Álvaro de Campos)の詩『Lisbon Revisited (1923)』があった。その一部を、原詩の該当箇所(ネット上のペソア・アーカイブから添付)と共に引いて、この頁を閉じたい。 

Ó céu azul — o mesmo da minha infância —
Eterna verdade vazia e perfeita!
Ó macio Tejo ancestral e mudo,
Pequena verdade onde o céu se reflete!
Ó mágoa revisitada, Lisboa de outrora de hoje!
Nada me dais, nada me tirais, nada sois que eu me sinta.


    青い空—子供の頃とかわらぬ空—
  虚ろにして完璧なる永遠の真実よ
  遠い昔から黙して流れる優しいテージョ川
  空を映す小さな真実よ
  ふたたびおれの訪れた苦悩 昔にかわらぬ現在のリスボンよ
  お前はなにもくれぬ 奪わぬ お前は無なるもの そしてそれこそ
   おれの感じているおれだ
        (   池上岑夫訳 )