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2016年2月29日月曜日

「チームは暗い闇の中にいる」

 ヴァンフォーレ甲府は第1節の確定「首位」となった。

 甲府クラブ時代を含め五十年の歴史で初のことらしい。地元テレビの夜のニュースがそう報じていた。山梨では「甲府首位」がホットな話題になっている。他サポーターからすると笑い話だろうが、ちょっとだけ僕らの気持ちを分かってほしい。
 たかが「第一節の首位」「一週間の天下」と言うなかれ。有り難き、ことなのだ。

 昨日の「山梨日日新聞」に興味深い裏話が掲載されていた。
 何と、開幕の三日前、中国からクリスティアーノに移籍のオファーが来た。かなり高額の年俸のためクリスも前向きになったようで、海野一幸会長、佐久間悟監督たち幹部が甲府に残るように説得したそうだ。その際の言葉が記事になっていた。(これを掲載した記者の「勇気」をたたえたい)そのまま引用する。

 「今、チームは暗い闇の中にいる。そこから抜けられるロープがクリスなんだ。お前(クリスティアーノ)が成長できるように俺たちも努力するから、移籍は思いとどまってほしい。」

 クリスは幹部の説得を受け入れ、開幕戦を迎え、あの通りの大活躍となった。引用にある「チームは暗い闇の中にいる」という言葉は、何というか、劇画かVシネマの台詞のようだ。すでに結論が出ているから、笑い飛ばせてしまえるような台詞かもしれないが、その時点、移籍か残留かの緊迫した場面では、この言葉はとても切実なリアリティを持っていたはずだ。VF甲府が「暗い闇」の中にいるのは現実だからだ。

 地方の経済は悪化している。活気がない。希望もあまりない。人口も減少している。最近、甲府市は全国の県庁所在地の中で人口が最も少なくなったという発表があった。山梨全体が下降し、誤解を恐れずに言うならば、「下流化」しつつある。
 そのような状況のもとで、VF甲府を取り巻く状況も悪化している。クラブ会員数も観客数も下降している。毎年残留争いをしていて、成績も上がらないので、根気よく支援していたサポーターの一部が離れだしている。そのような現実があるからこそ、あのような発言になったのだ。降格してしまえばもっと悪循環になる。 

 たかがサッカーされどサッカー。

 VF甲府のホームゲームに集まる観客、ファン・サポーターは、スポーツ観戦ということ以上に、老若男女が集い、チャンスの時もピンチの時もワーワーと盛り上がることのできる「お祭り」を求めている。スタジアムは、今や地方でも失われつつある「絆」や「つながり」の感覚を(たとえそれが一瞬の幻であったとしても)味わうことのできる「場」なのだ。Jリーグの地方クラブの存在価値はそこにある。
 
 地方が下流化しているからこそ、Jリーグの価値はむしろ上昇している。欧州の地方都市とクラブチームとの関係に近いものが日本でも現れつつある。簡潔に言えば、「街には何もないけどサッカーチームはある。それが(唯一の)愉しみだ。」というような関係だ。
 少なくとも僕にとってはそうだ。ヴァンフォーレ甲府、そして僕の場合は「桜座」等でのライブがないと、街や郊外に出て行くことがなくなってしまう。そんな予感がある。

 チームが、できるかぎり、明るい光の中にいますように。

2016年2月27日土曜日

ヴァンフォーレ甲府 暫定首位!

 今日2月27日、サッカーJ1が開幕した。日程の関係で2月末からのスタート。二十年近く、ヴァンフォーレ甲府のサポートをしているので、「春はJ1開幕に乗って」という感覚が僕にはある。

 今日はアウェイでVS神戸。結果はYahoo! ・スポニチアネックスの記事「残留争い常連・甲府が暫定首位!王者・広島黒星発進 波乱のJ1開幕」にあるように、素晴らしいものとなった。おそらく「一日天下」となるのだろうが、それでも「首位」という位置は嬉しい。毎年、J2降格かJ1残留かの闘いを強いられているチームを愛する身としては、「一日」でも「瞬間」でも「暫定」でも何でも、「1位」は輝かしいのだ。

 以前はアウェイゲームの試合にも「旅」をかねて時々出かけていたが、ここ数年はほとんど行かなくなった。このblogを始めてから、土日のいずれかはこのエッセイを書いたり、そのための調べものをしたりの日々なので、時間のゆとりが少なくなったからだ。それでもホームの試合はかなりの回数応援に行く。

 午後3時キックオフ。スカパー!での観戦、いや、応援。
 柏から戻ってきたクリスティアーノは以前より献身的に守備をする。独りよがりなところが影を潜め、周りも生かす。新加入のニウソンは自ら切り開く力はないが、ポストプレーが巧みでフィニッシュへの起点となれる。3年目の稲垣祥は運動量が凄い。前線でのバランサーとして動き回る。シュートは上達したようだが、相変わらず決まらないのが彼らしい。長崎から新加入の黒木 聖仁が一番の収穫かもしれない。上背もあり、判断も速い。昨年より、中盤でのプレッシングの位置がやや高くなった。パスセンスも良く、センターMFとしての潜在力が高い。

 甲府のシステム。5-4-1の3ラインの守備ブロックは強固。山本英臣、津田琢磨、土屋征夫の年齢合計「111歳3バック」は健在(というか進化している。ちなみに土屋は41歳でJ1選手の最年長)。神戸はほとんど攻撃の形を作れなかった。ボールの出し所がなく、困惑している様子だった。
 甲府は守備でボールを奪うと、素早くサイドを経由して、クリスティアーノ・ニウソン・稲垣の3人で攻撃する。シンプルで分かりやすい形だが、実践するのは難しい。今日は高速カウンターが決まり、2対0、ほぼ完勝の内容だった。出来過ぎのような気もする。J1で開幕を迎えるのはこれで七回目だが、今日が初勝利だった。

 佐久間悟監督がシーズン当初から監督として指揮するのはは今年が初めて。昨年と同様、GMとの兼務だ。過去三回は途中での就任だったので、今年は最初から自らの構想を活かすことができた。しかし、予算はJ1最低規模、お金があまりない、専用練習場がない、自前のクラブハウスがないという「ないないづくし」の環境の中でチームを作らねばならない。佐久間悟監督兼GMが甲府のために一番闘っている。佐久間さん、良かったね。これからもお願いします。

 なんだか甲府らしくないような、それでも、形としては甲府らしいような、開幕戦の勝利だった。それでも、今年も「残留を争う」一年になるのは間違いない。
 ぎりぎりの闘いを大いに楽しむ。その境地にだどりつかなくては、甲府のサポーターとは言えないのだろう。
 そして、毎年、甲府の降格を予想しながらその予想がことごとく外れている数多くのサッカー評論家・解説者の「見識の無さ」を笑い飛ばすのも愉しみだということを付け加えたい。(サッカー評論家には「降格」はないのでしょうか?などど問いたい気がする)

 なお、名古屋グランパス監督に就任した小倉隆史も、今日監督デビューを初勝利で飾ることができた。彼は2003年から2005年までの3年間、J2時代の甲府に在籍し活躍した。日本人選手で人気も実績もある選手が加入したのは彼が初めて。有り難かった。将来を嘱望された彼は怪我が原因で不運な選手生活を送ったが、やはりスターとしての輝きがあった。試合前の練習でピッチに登場するときの彼の独特の仕草が忘れられない。小倉監督、初勝利おめでとう!

2016年2月22日月曜日

Auf、解放の叫び。ー『新・映像の世紀』第5集

 昨夜、2月21日夜、NHKで放送された『新・映像の世紀』第5集の題名は『若者の反乱が世界に連鎖した』。60年代後半の若者の反乱やカウンターカルチャーの発掘映像が流れた。前半はどこかで見たことのあるような映像が多く、取り上げ方も紋切り型で期待はずれだった。ジャン・リュック・ゴダールがカンヌ映画祭開催の中止を要求する映像には惹きつけられたが。

 後半になって、ベルリンの壁崩壊に話題が移ると、その映像に釘付けになった。 1987年6月6日、デビッド・ボウイの西ベルリンでの野外コンサート。壁近くの共和国広場で開催されたライブの演奏とその状況を撮影した映像が放送されたのだ。数回前、このblogで言及したあの伝説的なコンサートの映像を見るのは初めてだった。4分ほどに編集されていたが、とても印象深いものだった。

 ボウイがドイツ語のMCで「今夜はみんなで幸せを祈ろう。壁の向こう側の友人たちのために」と語っていた。この場に最もふさわしい曲『ヒーローズ』が歌われていた。
 演奏の映像はほんの短いものだったが、東ベルリン側の様子を密かに撮影した映像が非常に貴重だった。ライブ数時間前のまだ明るい日中からブランデンブルク門近くに集まる若者たち。それを監視し警備する当局。ライブが始まる頃だろうか、夕暮れ近くになり、一人の男の叫ぶ大きな声が録音されていた。字幕では「ここから出せ!」と記されていたが、録画を再生すると、「Auf」と聞こえる。ブランデンブルク門の東側の広場に響く「Auf」。この短く鋭い言葉が耳に刻まれた。

 「Auf」の意味を辞書で調べてみてもしっくりとこない。妻の叔父はドイツで哲学を研究し、ドイツ人女性を伴侶としている。日本とドイツを行き来し、今は日本で暮らしている。時々、哲学や欧州の文化について教示してもらっている。そこで今夜電話して二人に「Auf」の意味を尋ねてみた。
 結論は、ブランデンブルク門、ベルリンの壁近くの場所であることを考慮すると、「門を開放しろ」「壁を解放しろ」という意味になるようだ。「Auf」には閉じられた門を開けるという用例があるそうだ。あの場所から数百メートル向こう側でボウイのコンサートは開催された。その東側にいた若者は、門を超えて壁を越えて、向こう側、西側にあるライブ会場に行きたいと叫んでいたことになる。
 ロックを聴くこと、ライブを見ることへの欲望、その自由を解放すること。「Auf」は「解放」への叫びだった。

 叔母によると、この出来事はドイツでは有名らしい。以前紹介した『朝日新聞』2016年1月24日付の記事には、〈「壁を倒せ」と叫ぶ若者が東独警察と衝突した、と当時の報道は伝える〉という説明があったが、そのような状況を裏付ける映像だった。このNHKの映像の出所は分からないが、貴重な発掘映像であることは間違いない。

 ブランデンブルク門周辺の画像を探してみた。wikipedeiaに壁建設中の1961年の写真が掲載されていた。

 ベルリンの壁建設(1961年秋) wikipediaより

  中央やや左にブランデンブルク門。その周辺を囲むように壁が建設されている。わかりやすく写真の左右で言うと、右側が西ベルリン、左側が東ベルリン。下側が北、上側が南だ。このフレームからすると、写真の撮影位置は西ベルリン側の国会議事堂(当時は議事堂としては使用されていないが)だろう。門の西側に広がるのはティーアガルテン公園。門の南側の広大な空地の奥の方がポツダム広場の跡だ。(今はここに「冨士山」を有するソニーセンターもある)
  ボウイのコンサート会場は、この写真の撮影位置が国会議事堂で正しいのなら、その前の広場になる。(この写真で言えば、フレームから外れた右下の場所になるだろうか)

 2000年の旅の際この辺りを歩いたのだが、国会議事堂の屋上にはドームができて、観光名所になっていた。裏側から上れないかと建物に入ろうとしたら警備員に注意された。結局上るのはあきらめたのだが、屋上ではこの写真のフレームに近い風景が眺められたのだろう。
 この写真が1961年、ボウイのライブは1987年、壁崩壊は1989年、ドイツ再統一は1990年。この場には、20世紀後半の歴史の記憶が渦巻いている。
 
 この番組には他に、1963年公民権運動の大集会でのボブ・ディラン、1967年ザ・ビートルズ“All You Need Is Love”のレコーディング風景などの貴重な映像もある。

 明日、火曜日の深夜[2月24日(水)00:10~01:00]再放送があるので、未見の方はご覧になられることをおすすめします。

2016年2月21日日曜日

『銀河』についての証言 [志村正彦LN121]

 志村正彦自身は『銀河』という作品についてどのように考えていたのか。
 WEB上の記事を探してみると、該当するものが幾つかあったので紹介したい。

 「フジファブリック 『虹』インタビュー」(Billboard-Japan、Interviewer:杉岡祐樹)で、彼は、『銀河』についての「歌詞の世界観も今までより一歩前に踏み出したような、前向きな雰囲気があったと思うのですが、環境や生活に変化があったりしたんですか?」という質問に、次のように答えている。

 そこまでないですね。環境の変化はそこまでないんですけども、変化が欲しいっていう気持ちがあるんですね。変化が欲しいとか、曲にしてうたったりすると変化があったように自分で思える。そういうものをやってみたいんですね。

 さらに、『虹』に関連して、「この曲の歌詞も“とうとう踏み出す”というメッセージなど『銀河』に続いてかなり前向きな雰囲気がありますがその変化というのは?」という問いかけに対して、次のように述べている。

 これもやっぱり「踏み出したい」ですね、「今踏み出してます」というよりは。願望を歌っていればそういう感じになるんじゃないかっていう。だから逆にビビってるのかもしれないですよね、そろそろ動かないとマズいんじゃないかなって。

 志村は、『銀河』にしろ、続く5枚目シングル『虹』にしろ、現実の変化というよりも、変化への願望を表現したかったようだ。そのような願望を歌詞や楽曲に転換することで、自らが現実に動き出すことへの動力源になると考えたのだろう。
 彼らしい現実と作品との関係性だ。現実が作品を追い求め、作品が現実を追い求めている。

 「フジファブリック(志村正彦)インタビュー close up vol.113」(excite music、取材・文/藤津 毅)には、曲の成立と構成についての貴重な証言がある。
 『銀河』について「やっとサビが登場したと思ったら、その後にもちゃんと変化球が用意されていて、聴き応えがありました」というコメントに対して、志村はこう語っている。

 フジファブリックの曲ってこのような部分が割とあるんですよね。サビが終わった後に違うメロディをもってくるという。この曲の場合、別の曲で作っていたメロディがあって、それを合わせて、1つの作品にしたんです。「銀河」はコンセプト的な作品で、冬の曲なのにアツイ感じになっているから、これを聴いて盛り上がってもらえたらいいかな。

 ここで言及されたサビの後の「違うメロディ」とは、前々回、LN119の最後で考察した部分、以下のCメロの部分だと考えてよいだろう。

  きらきらの空がぐらぐら動き出している!
  確かな鼓動が膨らむ 動き出している!


 確かに、この部分、Cメロの曲調は、AメロやBメロ、サビとは異質だ。歌詞の「確かな鼓動」「動き出している」に呼応するように、不思議な感覚で旋律が転調していく。直前のサビから飛躍し、最後のサビへと橋渡ししていく。もともと別の曲のメロディだとすると、この奇妙にして絶妙な展開が納得できる。もしもCメロの歌詞の世界やコードの展開がなかったとしたら、この曲はもっと平凡なものになっていただろう。
 このwebでも書いてきたが、『若者のすべて』も二つの別の曲が合体してできたことが知られている。このような手法はよくあるのだろうが、志村の場合、本来異なるモチーフの曲や歌詞を複合させて、さらに新しいものを創り出す力に恵まれていたのではないだろうか。

 Aメロ・Bメロ・サビの系列は『銀河』の物語の枠組を作っている。聴き手は各自の物語を想像していく。そして、Cメロ、「確かな鼓動」の部分は、それまでの物語をいったん完了させ、転換と飛躍が図られる。聴き手は新たな風景、「きらきら」「ぐらぐら」広がる風景を心に刻むことになる。身体も「アツイ」鼓動に包まれる。「動き出している」疾走感が強まる。

 先ほどの「コンセプト的な作品で、冬の曲なのにアツイ感じになっているから、これを聴いて盛り上がってもらえたらいいかな」という志村の言葉に注目したい。
 メジャー2枚目のアルバムを準備していたこの時期、経験が蓄積され、自信や確かな手応えを感じてきたのだろう。終了するようでさらに転換して展開する。あるいは、いったん終了するかに見えて再開する。作詞と作曲の両面において、志村正彦は高度で自在な方法を獲得しつつある。歌詞と楽曲はより重層的に絡み合うようになっている。作品の「コンセプト」や歌詞の世界も、おしつけがましくなく、さりげなく、良い意味でひねくれながら、確実に深化している。

 もう少し踏みこんで書こう。
 この時代、日本語ロックはすでに類型化され、退屈なものに凝り固まっていた。それを壊し、新しい「鼓動」を生み出す。『銀河』はそのような「願望」や「変化」も、力強く激しく、歌い奏でているのではないだろうか。

       (この項続く)

2016年2月14日日曜日

重力波の鼓動[志村正彦LN120]

 前回、フジファブリック『銀河』の中心は、「きらきらの空がぐらぐら動き出している!/確かな鼓動が膨らむ 動き出している!」という一節にあると書いた。その続きを準備していたところ、三日ほど前、米国の研究チームが百年前アインシュタインに予言されていた「重力波」を初めて観測したという発表があった。世紀の発見らしい。

 『ナショナルジオグラフィック日本版』の記事「重力波、世紀の発見をもたらした壮大な物語」によると、この重力波は、地球から約13億光年の彼方で、2つのブラックホールが互いに渦を巻くように回転して衝突したときに発生したそうだ。その重力波を「音」に変換したものがyoutubeに公開されている。天文学も物理学も分からないが、こうして「音」になると、その存在を感覚的に少しは受けとめられる気もする。
 まずは「The Sound of Two Black Holes Colliding」を聞いていただきたい。


 

 一種の「鼓動」として聞こえてくる。

 ロックの聴き手としては、重力波の鼓動はまるでアナログシンセサイザーの音、パルスの音のようだ。グラフに記された周波数の変化もアナログシンセの音源の波形のように見えてくる。
 ドイツのバンド、Tangerine Dreamの音が浮んできた。70年代前半のジャーマン・プログレッシブ・ロックの響きだ。重力波はロックのビートを刻んでいる。そんなことを書いてみたい欲望に動かされる。紹介記事には、「私たちは重力波の音を聞き、宇宙の音を聞くのです。宇宙は目で見るだけでなく、耳で聞くものになったのです」という、ある学者の発言も引用されていた。

 約13億光年の彼方で、2つのブラックホールは合体し、1つのブラックホールを形成したという。元のブラックホールは死んで、新しいものが生まれる。重力波はその死と再生の鼓動でもある。

 偶々、重力波発見の報道に接した。その音を聞いて、「確かな鼓動が膨らむ 動き出している!」という志村正彦『銀河』の言葉を自ずから連想してしまった。
 宇宙の「確かな鼓動」はやはり「音楽」なのかもしれない。

                           (この項続く)

2016年2月6日土曜日

『銀河』の鼓動、二月の歌。[志村正彦LN119]

 2005年2月2日、フジファブリック『銀河』が発表された。

 十一年前のこの時期に、「四季盤」と呼ばれるシングル連作、春『桜の季節』、夏『陽炎』、秋『赤黄色の金木犀』に続く、冬の歌としてリリースされた。四季盤の最後の作品であり、そのモチーフからして冬の期間に出されたのだろうが、発売日が2月2日なのは偶然ではなく、ある選択が働いたのだと推測する。『銀河』の物語の「時」を想定してみるならば、真冬の「二月」上旬が浮かんでくるからだ。また、歌詞に「真夜中二時過ぎ」「二人」とあるように、「二」は鍵となる数字かもしれない。

 二月は山梨も極寒の時。

 白雪を被る富士山のイメージが強く、降雪地帯という印象を持たれる方も多いが、太平洋側の内陸部に位置するので、雪はあまり降らない。(一昨年二月の大雪は例外中の例外だったが)しかし、僕の住む甲府市西部の標高は300m弱で、盆地という地形ゆえに朝晩の冷え込みは厳しい。志村正彦の故郷、富士吉田市は標高が800mに届くほどで、冬の寒さはさらに厳しい。(甲府は333mの東京タワーに近く、富士吉田は634mのスカイツリーをかなり超えている)いわば、山梨、甲斐の国全体が「高原」であり、関東の「平野」に比べれば、「真冬」という感じが強い。
 冬の風が冷たく、空気がしんしんと冷え込む。それでも、晴天が多く乾燥した気候ゆえ、冬の夜空は美しい。星が、文字通り、きらめいている。

 志村正彦の『銀河』には山梨の冬の記憶が刻印されている。

 ともかく、MVを通じて、曲を聴いてみよう。official 映像を添付する。




 この奇想天外なミュージックビデオについては次回触れることにして、まずは志村正彦作詞の全文を引用したい。


  真夜中二時過ぎ二人は街を逃げ出した

  「タッタッタッ タラッタラッタッタッ」
  「タッタッタッ タラッタラッタッタッ」と
  「タッタッタッ タラッタラッタッタッ」
  「タッタッタッ タラッタラッタッタッ」と飛び出した

  丘から見下ろす二人は白い息を吐いた

  「パッパッパッ パラッパラッパッパッ」
  「パッパッパッ パラッパラッパッパッ」と
  「パッパッパッ パラッパラッパッパッ」
  「パッパッパッ パラッパラッパッパッ」と飛び出した

  U.F.Oの軌道に乗ってあなたと逃避行
  夜空の果てまで向かおう
  U.F.Oの軌道に沿って流れるメロディーと
  夜空の果てまで向かおう

  きらきらの空がぐらぐら動き出している!
  確かな鼓動が膨らむ 動き出している!

  このまま
  U.F.Oの軌道に乗ってあなたと逃避行
  夜空の果てまで向かおう
  U.F.Oの軌道に沿って流れるメロディーと
  夜空の果てまで向かおう

     ( 『銀河』 志村正彦作詞・作曲 )

 この歌の物語を映画のように鑑賞してみる。MVとは関係なく、歌詞そのものを映像の展開としてと捉えてみると、作者志村正彦の言葉によるカメラワークとその切り替えが冴えていることに気づく。

 始まり、Aメロでは「真夜中二時過ぎ二人は街を逃げ出した」と、「二人」を遠景で描く。「タッタッタッ タラッタラッタッタッ」のBメロでは、カメラは移動撮影で「二人」の動きを追っていく。「二人」は「街」を逃げだし、「丘」へと登り、どこか向こう側へと飛び出していく。
 サビ「U.F.Oの軌道に乗ってあなたと逃避行」のパートでは、一人称の歌の主体(歌詞の言葉としては表れないが)の目線でカメラを構え、「あなた」という二人称へとレンズを合わせる。フレームの中で歌の主体は「あなた」を見つめ、「夜空の果てまで向かおう」と呼びかけている。
 エンディング直前のCメロでは、カメラの目線は冬の夜空へ、銀河の果てへと切り替えられる。ズームアウトしながら、歌詞は「このまま」とつなげられ、大サビへと広がっていく。

 文学では、私的な経験を素材とする作品に虚構性がかなり混じり、逆に、虚構性の高い物語風の作品に私的な経験が反映されていることはしばしばある。

 あくまで想像にすぎないが、『銀河』の物語には志村正彦の高校3年冬の恋の物語が投影されている気がする。バイトを終えて夜中に「二人」は逢ったと、志村はあるインタビューで述べている。結局、この恋は数ヶ月で終わり、その年の春、「二人」は各々上京し、それぞれの道を歩んでいったようだが。彼の作品を素朴なリアリズムで捉えるのは間違っているかもしれないが、この歌についはそのように語ってみたい。
 そうなると、「街」は下吉田の街になり、「丘」はあの「いつもの丘」新倉山浅間神社のある丘になる。「いつもの丘」から見下ろす風景と見上げる夜空。かすかに感じる富士山の稜線の向こう側に銀河が広がる。星々が「U.F.Oの軌道」を描く。極寒の冬、「白い息」はますます白くなる。「逃避行」ではあるが、ネガティブな感じはしない。むしろ、何かに向かうための歩みであろう。

 どこにでもある高校生の恋の物語。その物語をどこにもないような歌詞と楽曲、『銀河』へと志村正彦は変換した。

 それでも『銀河』の物語はあくまで枠組であり、歌の中心は「きらきらの空がぐらぐら動き出している!/確かな鼓動が膨らむ 動き出している!」という一節にあると考えられる。
 歌の主体は、「きらきら」という星座の律動、「ぐらぐら」という夜空の回転を眺めている。天体の運動を感じている。次第に、視線は宇宙の彼方に溶け出していくが、身体の「鼓動」は「確か」なものとして、今ここに有る。そして、その「鼓動」は大きく膨らみ、強く動き出す。その瞬間を、志村正彦は歌いたかった。メロディもリズムも「鼓動」に促されるように疾走していく。

 『銀河』は二月の歌。寒さの厳しい月だが、短く、時の歩みが速い。三月になると春が来る。別れがあり出会いがある。新しい物語が始まる。そして何よりも花の季節を迎える。冬の終わり、春に向けて何かが動き出している。

 『銀河』は二月の歌、冬の季節の「確かな鼓動」を捉えた歌だ。

                          (この項続く)