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2016年12月31日土曜日

「正彦君はいつも遠くを見つめていました」[志村正彦LN147]

 今年の初夏の頃、志村正彦についての思いがけない大切な出来事があった。

 僕は国語科の教員だが、キャリア教育や進路指導の係を担当している。この高校に来てからもう十五年になるが、その間ずっと進路指導室という部屋に席がある。生徒は7割が進学、3割が就職で、進路を実現するという責任の重い仕事に携わってきた。
 六月頃だった。進路室で同僚が農業高校について話をしていた。その時、漫画『銀の匙 Silver Spoon』のことが話題となり、アニメ版の主題歌を作ったフジファブリックという流れで、「志村正彦」という名を出した。(授業とは異なり、同僚の先生方に志村さんの話をすることも、このblogの存在を知らせることもほとんどない。あの時は自然にその名が出てきた)

 すると、今年赴任されて進路の係となった女性の先生が「わたし、正彦君の担任だったんです」と話してくれた。驚いた。同時に嬉しくなった。山梨は狭い地域であり、話しているうちにどこかでつながりが見えるということがしばしばある。その先生は、志村正彦が山梨県立吉田高等学校一年生の時のクラス担任だった。
 それからしばらくの間、志村さんのことで話が弾んだ。高校生の時の彼を今までよりも身近に感じるようになった。その話を今回は書いてみたい。(このblogに書いてもよろしいでしょうかと尋ねると、先生から快く了承していただきました。ここに書いてもよいことを少しだけ書かせていただきます)

 「正彦君はいつも遠くを見つめていました」
 先生の記憶の中心には、教室やいろいろな所でいつも遠くを見ているような志村正彦の姿がある。
 「正彦君は丸顔なんですよ」、少し微笑みながらそう言われた。そして綺麗な目をした高校一年生だった。元気のいい楽しいクラスで、沢山の思い出があるそうだ。少しやんちゃな男子も多かった。志村さんは目立つわけではないが、仲間とはよく付き合っていた。何かに打ち込んでいる感じがあり、クラスでも一目置かれていたそうだ。将来、歌詞を書くなんて全く想像できなかったとも言われた。思春期の男子なので、繊細なところはあまり出さなかったのだろう。
 先生はクラス文集を大切に取っておかれていて、予備として保管していた一冊をいただいた。思いがけないことで感謝を申し上げるだけで精いっぱいだった。(志村さん手書きの一頁もあったが、ここに記すことは控えます)

 クラス担任は本人・保護者との三者懇談で進路の希望を聞く。志村さんは一年生の時から「音楽家になりたい」とはっきりと語っていた。ゆるぎのない決意を知り、理解ある先生は納得した。(その後の志村さんの活躍を予想していましたかと聞くと、そこまでは想像していなかったけれど、未来を見据えるような表情からその道に進むことを確信したそうだ)「志村日記」にある通り、高校入学時から音楽家志望だった。

 その後「ロックの詩人 志村正彦展」のポスターを差し上げた。
 「瘦せてしまいましたね」とぽつりと言われた。先生の表情が寂しそうだった。記憶の中の「丸顔」の高校生。目の前にあるポスター写真の二十代後半の若者。撮影は2007年の晩秋で、確かにこの時期はやや痩せている。遠くを見つめるような綺麗な眼差しはそのままだが、深さとある種の苦さが込められている。高校一年から十年を少し超える月日が流れているが、そんなに長い間というわけでもない。この間の音楽家としての生活、その時間がどのようなものだったのか。痩せてしまったという一言から、様々なことを考えさせられた。

 志村さんが高校に入学したのは1996年。今年は2016年。二十年が経つ。先生が穏やかに懐かしそうに話す表情から、受け持ったクラスの生徒に対する愛情が伝わってきた。
 いつも遠くを見つめていた志村正彦。そのことを記し、今年最後の文を閉じたい。

2016年12月28日水曜日

2016年を振り返る[志村正彦LN146]

 今年は、折に触れてこのblogで触れたが、志村正彦・フジファブリックの作品が地上波テレビなどで何度も取り上げられた。映像メディアも多様化しているが、やはり地上波の力は大きい。反響の度合いが格段に違う。

・ 5月19日、NHKEテレ、『ミュージック・ポートレイト』「妻夫木聡×満島ひかり 第2夜」。俳優の妻夫木聡が『茜色の夕日』を人に贈りたい曲として選んだ。

・ 8月18日深夜、フジテレビ、アニメ『バッテリー』第6回。エンディング曲として『若者のすべて』(anderlustによるカバーヴァージョン)が流された。

・ 11月15日、NHKBSプレミアム、ドラマ『プリンセスメゾン』第4回「憧れのライフスタイル」。『茜色の夕日』が挿入歌として使われた。

・ 12月1日、NHKEテレ、『ミュージック・ポートレイト』「古舘伊知郎×大根仁 第2夜」。映画監督の大根仁が『夜明けのBEAT』を人生の転機となった大切な曲として紹介した。

 確認できていないだけで、この他にもあったかもしれない。twitterなどで、季節の折々に、例えば夏の花火の季節に『若者のすべて』が色々な場所で流されたという報告があった。anderlustによる『若者のすべて』カバーはCD音源化されたが、ライブなどで志村と縁のある音楽家を中心に、フジファブリック作品が演奏されたという話も少なくなかった。

 年末、志村正彦の故郷、山梨県富士吉田市では、夕方5時にフジファブリック『茜色の夕日』のチャイムが流された。彼の同級生を中心とした集まり「路地裏の僕たち」や市役所のおかげだ。
 昨夜は「Yahoo!JAPAN」の「エンタメ」ニュース欄で「志村正彦さん 防災無線で追悼という毎日新聞の記事が配信されていた(12/27(火) 17:29)。東京から来た女性の「青春時代に聴いた志村さんの音楽と人間性にひかれます。地元でチャイムを流し続けてくれているので、また来たいです」というコメント、24日下吉田駅前にファンが集っている写真が載せられていた。
 チャイムが流される。ただそれだけのことかもしれないが、それはそれだけで終わらない。大切な何かが確実に伝わっていく。

 「路地裏の僕たち」のメンバーは5月から地元ラジオ局の「エフエムふじごこ」で、『路地裏の僕たちでずらずら言わせて』(日曜日14:00~14:30、再放送水曜日20:30~21:00)を始めた。「都留信用組合プレゼンツ」とあり、スポンサーのローカル色が強いのがいい。
 同級生ならではの思い出話。時に甲州弁が混じるのがとてもいい。彼らも参加し、9月に開催された「SHINJUKU LOFT 40TH ANNIVERSARY MUSIC FES DREAM MATCH 2016」出演アーティストによる志村正彦についてのコメントもあった。最近、「富士ファブリック」オリジナルメンバーの3人による結成時の話が数回放送されたが、志村が当時好きだったブラジル音楽などが紹介され、非常に興味深い内容だった。(ネットラジオの録音方法が分からないので、外出中で聞けない日もあるのが残念だが)

 今年は1月にデビッド・ボウイ、11月にレナード・コーエンが亡くなった。60年代70年代から活躍してきた「ロックの詩人」の生が閉じられていく時代を迎えている。ボブ・ディランは歌い続け、ノーベル文学賞を受賞した。「ロックの詩」の文学としての価値が歴史に刻まれた。
 このblogは、その折々の出来事、偶発性に触発されることは重視しているので、洋楽の話題が多くなった。僕にとってロックの原点は英米にある。現在の音楽シーンで最も好きなバンド、AnalogfishとHINTOについて何度も書いた。この二つのバンドの作品とライブは今日の都市音楽の最高の達成点だと断言する。ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアの足跡を訪ねる小さな旅のノートも綴ることができた。地元の愛すべきクラブ、ヴァンフォーレ甲府のこと、サッカースタジアムという場についても触れた。

 歌や詩の言葉、音楽の作品やライブを縦軸に、甲府や山梨という場、時には旅の地を横軸にして、この偶景webは織り込まれていく。その中心点にいるのは志村正彦なのだが、今年は相対的に、彼の作品を取り上げることが少なくなってしまった。関心が低下しているのではなく、むしろその逆である。書いてみたい様々なモチーフが蓄積されているのだが、僕の記述ペースではこの回数と分量が限界だった。(それでも今回で82回を数えた。4日に1回の割合に近い)来年は少しスタイルを変えてみたい。

 今年、志村正彦に関する私自身の仕事に関して一つの進展があった。
  『変わる! 高校国語の新しい理論と実践―「資質・能力」の確実な育成をめざして』(編著大滝一登・幸田国広、大修館書店、2016/11/20)という書籍に、 『思考の仕方を捉え、文化を深く考察する―随筆、歌詞、評論を関連付けて読む―』という原稿を執筆した。三つの作品、俵万智の随筆『さくらさくらさくら』、志村正彦・フジファブリックの歌詞『桜の季節』、社会学者佐藤俊樹の評論『桜が創った「日本」』を横断的に教材化して、生徒の思考と表現を触発させ、「桜」という不可思議な存在、言語文化的な主題について探究する授業を報告し分析したものである。十回分の授業を十二頁に集約させたために概要的な記述になっている(全体のバランスと分量の制約があり、志村正彦に関する部分も当初書いた原稿を削除せざるを得なかった)。拙いものではあるが、ここ数年試みてきた「思考と表現の構造化」の学習、「志村正彦の歌詞」の教材化によって、新しい高校国語の方向の一つを素描することはできたのかもしれない。
 この本の詳細についてはあらためて書いてみたい。

 12月14日、フジファブリックのニューアルバム『STAND!!』が発表された。2014年9月リリースの『LIFE』から二年ぶりの新作だ。現メンバーの3人が数曲ずつ曲を作ったそうだ。どのような世界を作り上げたのだろうか。変化しているのだろうか。最近注文したのでまだ届いていないのだが、冬休みの間に聴いてみたい。 

 2016年も、志村正彦・フジファブリックの作品はかけがえのないものとして、人々に届けられている。

2016年12月23日金曜日

都市音楽としての『茜色の夕日』-ドラマ『プリンセスメゾン』[志村正彦LN145]

 NHKBSプレミアムで10/25~12/13の毎週火曜日に放送された「プレミアムよるドラマ」枠のドラマ『プリンセスメゾン』。11月15日の第4回「憧れのライフスタイル」で、フジファブリック『茜色の夕日』が挿入歌として流れた。ネットの情報で知り、再放送を見ることができた。

 原作は池辺葵という漫画家の作品だそうだ。NHKのサイトには、「女、26歳、居酒屋勤務、結婚の予定なし。でも、“家”を買います」というコピーがある。「沼越幸」(森川葵)が購入するマンションを探す姿に現代の女性が求めているものを描く。彼女は不動産会社の営業マン「伊達政一」(高橋一生)を中心に様々な人々と出会う。

 第4回のラスト近く、冒頭から24分過ぎ、沼越幸が務めている居酒屋のシーンで『茜色の夕日』が静かに流れ出す。伊達政一が沼越の働く姿を垣間見るとそのまま小路を歩きだす。その瞬間から音量が高くなり、志村正彦の声が画面を覆いつくす。

  君に伝えた情熱は呆れるほど情けないもので
  笑うのをこらえているよ 後で少し虚しくなった


 言葉の一つ一つが耳にしみこむ。
 伊達は自宅に戻りソファに座る。

  東京の空の星は見えないと聞かされていたけど
  見えないこともないんだな そんなことを思っていたんだ

 この歌詞に合わせて伊達が歌い出す。心に刻まれた『茜色の夕日』を自らの声で追いかけるように。「思い出すもの」がたくさんあるかのように。伝えられないものがたくさんあるかのように。
 志村正彦の声と伊達を演ずる高橋一生の声が、重なり合い、響き合う。その意外性、 不思議な感覚にひきつけられた。

 高橋一生はドラマや映画でしばしば見かけるが、五年前の冬、新宿の紀伊国屋ホールで演劇を見たことがある。鴻上尚史の「第三舞台」の封印解除&解散公演「深呼吸する惑星」だった。見た目通り少し線が細い感じだが、舞台に立つとなかなか存在感のある役者だった。

  高橋一生の演じる伊達の緊張感ある表情とやや暗い眼差し。池の水に対する恐怖症を感じさせるシーンなど、心に重く抱えているものがありながらも、誠実に礼儀正しく仕事にいそしむ。作中の人物設定は三十五歳のようだ。志村正彦が元気でいれば同じ位の年だ。(志村が会社員になっていたら、伊達のような表情で仕事をしていたのかもしれない、などというありえない空想をしてしまった)

 どのような演出の意図があって、『茜色の夕日』が挿入歌となったのかは分からないが、このドラマの文脈では、「東京の歌」として位置付けられているのは間違いない。都市生活者の都市音楽としての『茜色の夕日』。(この「都市音楽」という表現は、浜野サトル氏の著作『都市音楽ノート』の表題から使わせていただいている)ただし、地方からの出郷者が作る都市音楽、都市の歌なのだが。志村がそうであったように、作中の伊達も地方からの上京者という設定なのかもしれない。

 歌の主体は「少し思い出すものがありました』という語り口で歌い出す。今、東京で、生きている。その場と時から、かつて生きていた場、時へと回帰していく。
 志村正彦の描く風景、春夏秋冬の季節感、それは彼の故郷富士吉田、山梨に由来するものあることは確かだ。だが、そのままのものではなく、それらが一度失われたうえで、あらためて想い出されたもの、都市という場からの眼差しで再構築されたものだ。そのことが彼の歌の普遍性を支えている。望郷の歌、帰郷の歌、郷土性の高い歌とは一線を画している。

 明日12月24日は彼の命日である。今年も一週間の間、彼の生まれ育った富士吉田で『茜色の夕日』が夕方5時のチャイムの曲となる。
 今日は昨夜からの雨が上がったが、風がすごく強い。
 『茜色の夕日』は、故郷の風に吹かれているのだろうか。

2016年12月18日日曜日

『Biko』Peter Gabriel-ビコ生誕70周年

 今朝、「google」のトップ画面には、シャツ姿のアフリカ系人の男性が何かを見つめている姿があった。誰だろうか。気になった。


 イラストにポイントをあてると「スティーヴ・ビコ生誕70周年」と表示される。ビコだったのか。クリックすると検索画面に変わり、「スティーヴ・ビコ 生年月日1946年12月18日」とあった。今日はビコが生まれて70年目となる日だった。「google」は時に良い仕事をする。

 スティーヴン・バントゥー・ビコ (Stephen Bantu "Steve" Biko)は南アフリカの反アパルトヘイト活動家だ。「黒人意識運動(Black Consciousness Movement)」の代表として活動していたが、1977年9月12日、拷問をうけ死去した。30歳の若さだった。

 1980年発表のPeter Gabriel(ピーター・ゲイブリエル)ソロアルバム3作目『Peter Gabriel』(彼のソロは1作目から4作目まではすべて『Peter Gabriel』としか記されていない。当時彼は雑誌のタイトルのようなものだと述べていた。ジャケット写真からファンの間では『Melt』とも呼ばれている)のB面最後の曲が、『biko』だった。当時の日本ではスティーヴ・ビコはほとんど知られていなかった。少なくとも僕はそうだった。多くのロックファンと同様にこの歌によってビコの存在を知った。

 洋楽の中では今に至るまで、Peter Gabrielは僕にとって唯一無二の存在だ。Genesisというバンドで彼は、物語や神話のモチーフを活かした歌詞、奇妙な仮面や衣装をまとった演劇的なステージなど、アバンギャルドなロックを創造した。ソロになってさらに、深い内省の力、鋭い批評性やユーモアも加わった。そのような彼が社会の現実に向き合い、問題を告発する歌を作り世界に広めようとしたことに、驚きと共に深い感動を覚えた。80年代の前半、一番多く聴いていたのはこのアルバムだった。

 『Biko』は発表以来、彼のコンサートの最後で必ず歌われるようになった。1994年3月、PeterGabriel 「Secret World Tour」ライブが日本武道館で開催された。(今に至るまで、彼の単独来日ライブはこのツアー1回だけだ)僕にとっては文字通りの「夢」のライブだったのだが、この時もアンコールの最後でこの歌が力強く歌われた。

 「Peter Gabriel VEVO」に「Amnesty International」のコンサート映像がある(時と場は1990年チリのようだ)。記者会見の映像もあり、コメントも聞ける。四十歳になった彼は地元の音楽家やStingと共演し、繊細にして強い意志が込められた声で歌っている。最後の観客の歓声に心を動かされる。



 歌詞を引用する。
 第二ブロックが印象深い。Peter Gabrielらしいvisionにあふれている。黒色と白色の世界を分断する線が赤く染まっている。歌の主体「僕」はそのような色彩の夢を見る。「僕」は、そして僕らは夢から覚めるのだろうか。
 分かりやすい英語だが、拙訳を付したい。

 September '77
 Port Elizabeth weather fine
 It was business as usual
 In police room 619
 Oh Biko, Biko, because Biko
 Oh Biko, Biko, because Biko
 Yihla Moja, Yihla Moja
 The man is dead
 The man is dead

 When I try to sleep at night
 I can only dream in red
 The outside world is black and white
 With only one colour dead
 Oh Biko, Biko, because Biko
 Oh Biko, Biko, because Biko
 Yihla Moja, Yihla Moja
 The man is dead
 The man is dead

 You can blow out a candle
 But you can't blow out a fire
 Once the flames begin to catch
 The wind will blow it higher
 Oh Biko, Biko, because Biko
 Yihla Moja, Yihla Moja
 The man is dead
 The man is dead
 And the eyes of the world are watching now, watching now

 1977年9月
 ポート・エリザベス快晴
 いつもの仕事だった
 619号取調室で
 ビコ、ビコはビコゆえに
  Yihla Moja
 その男は死んだ

 夜眠ろうとすると
 僕は赤色の夢だけを見る
 外の世界は黒色と白色で
 一つの色だけが死んでいて
 ビコ、ビコはビコゆえに
  Yihla Moja
 その男は死んだ

 ろうそくを消すことはできる
 だが火を吹き消すことはできない
 一度炎が燃えはじめると
 風が炎を高く舞いあげる
 ビコ、ビコはビコゆえに
  Yihla Moja
 その男は死んだ
 そして、世界の目が今見つめている


 Bob Dylanのノーベル賞受賞によって、彼の初期のプロテストソングが注目を浴びているが、Peter Gabrielの 『Biko』も非常に優れたそして影響力を持つプロテストソングだ。従来とは異なる形の差別や貧困という「分断」が「世界」に広がる今日、「世界」の眼差しを問いかけるこの歌の存在は大きい。

2016年12月11日日曜日

パティ・スミスが歌う『はげしい雨が降る』-ディランのノーベル賞授賞式

 昨夜、パティ・スミスがノーベル賞授賞式でボブ・ディランの代わりに『はげしい雨が降る』(A Hard Rain’s A-Gonna Fall)を歌った。もうすぐ七十歳になるパティを見ると別の感慨も覚える。
 公式の映像がyoutubeにある。1:03頃から1:11頃までがそのシーンだ。

 パティは緊張のせいか2番の途中で詰まってしまう。「ごめんなさい。とてもナーバスになっています」と言うと、会場からあたたかい拍手。それに促されるようにして、少し戻ったうえでもう一度歌い始めた。
 パティの声を通じてディランの言葉が会場に静かにしかし強く広がっていく。歌詞に触発されたのだろうか、涙ぐむ女性も映されていた。真摯であたたかい雰囲気に包まれていた。歌詞の一節を引きたい。拙訳を付す。

  Heard the song of a poet who died in the gutter,
  Heard the sound of a clown who cried in the alley,
  And it's a hard, and it's a hard, it's a hard, it's a hard,
  And it's a hard rain's a-gonna fall.

  側溝で死んだ詩人の歌を聞いた
  路地で泣いた道化の声を聞いた
  激しい激しい激しい激しい
  激しい雨が降る

 ボブ・ディランの歌が「文学」であるかどうかというつまらない議論があるようだが、言葉が私たちに作用していく作品は、文字であれ音声であれ、すべて「文学」だと考える。書かれた文学の歴史はまだまだ浅い。もともと歌謡や口承文芸がその根源にある。
 ディランのノーベル賞授賞は、彼の歌、そして広く、ロックの歌、ロックの詩に出会う人が増えていくことに最大の意義があるのだろう。

【付記】
 昨夜放送のNHKスペシャル『ボブディラン ノーベル賞詩人 魔法の言葉 は非常に興味深かった。タルサにある「ボブ・ディラン アーカイブ」に取材に行き、あの『ブルーにこんがらがって』(Tangled Up in Blue)の創作過程を資料に基づいて解説していた。ディランがどれだけの時間をかけて作品を完成していったのかの一端が分かる。12月17日(土) 午前0時10分から再放送される。この番組については回を改めて書いてみたい。
 また、今夜23:00からNHKBSプレミアムで 『BOB DYLAN Master Of Change~ディランは変わる~』も放送される。

2016年12月5日月曜日

大根仁の選んだ『夜明けのBEAT』[志村正彦LN144]

 NHKEテレ『ミュージック・ポートレイト「古舘伊知郎×大根仁 第2夜」』を先ほど見終わった。ネットの情報で大根仁監督がフジファブリック『夜明けのBEAT』を選んだと知ったので再放送を録画しておいた。(本放送は12月1日にあった)

 この番組は、気心の知れた2人が人生の節目で心に響いた「大切な音楽10曲」を語り合うもの。古舘伊知郎と大根仁は20年来の知り合いだそうだ。二人は一緒に仕事をしていたのだが、古舘が「報道ステーション」を始めたことで、大根にとって生活の基盤となる仕事が失われる。これを転機として彼は深夜ドラマにシフトしていく。過去のドラマのパロディなど工夫を重ねたが、イマイチ「数字」(視聴率)が取れない。人に届けることができない。年齢も40歳を超える。ヒット作をちゃんと作らねばと思う。そんなある日定食屋で読んでいたある漫画に心をつかまれる。それが『モテキ』だった。普遍的なテーマ「恋愛」に活路を見出していく。テレビドラマ『モテキ』の誕生話だ。そしてこの作品が大ブレイクした。


 ドラマ『モテキ』の話に続いてナレーターが語りだす。ご覧になられなかった方のために、音源や映像部分を(  )内に注記しながら、発言を忠実に再現しよう。

(語り)大根は自らのモテなかった体験を主人公に投影してドラマを作り始めます。同時に主題歌を探していた大根、ふとこの曲に出会います。(ここから『夜明けのBEAT』イントロが流れる)
大根自身鳥肌が立ったというほど作品にぴったりなこの曲。大根はドラマ作りを加速させます。(ここから『夜明けのBEAT』MVが始まる。森山未來が夜を彷徨うシーン。歩いて倒れ、倒れて歩く。「半分の事で良いから 君を教えておくれ」「些細な事で良いから まずはそこから始めよう」の歌詞テロップ)

 MV中の志村正彦登場シーンが流れると、それに合わせるように、大根の次の言葉が始まった。

(大根)この曲はボーカルの志村さんという人が2010年そのモテキのオンエアが始まるちょっと前に亡くなってしまったんですよね。で、だから志村さんはこの曲をこのドラマに向けて書いたつもりではないんですよ。でもなんかそうなのにもうなんか内容的に完全にシンクロしているし、なんかこの呼ばれている感じは何だろうなっていうね。

 「この呼ばれている感じは何だろうな」というのが大根仁の『夜明けのBEAT』経験の核心にあるものだろう。彼は「呼ばれている」ことに誠実に応えた。そうすることで、『モテキ』と『夜明けのBEAT』は遭遇を果たせた。この歌がドラマ作りを加速させたように、ドラマ『モテキ』が『夜明けのBEAT』を数多くの人々に伝えることになった。

 志村正彦も大根仁も『モテキ』の作中人物の一人となり、この二人が対話しているかのような幻想を想い描けるかもしれない。 FUJIFABRIC Official YouTube Channelから大根監督作成のMVを添付しよう。





 久しぶりにこのMVを見た。森山未來のダンスはエッジが効いている。踊りも演奏も映像も、深夜から早朝までの時間を疾走していく。ラストシーン、薄紫色の雲と空の世界は、題名通りの「夜明け」の感覚に満ちている。そしてこのMVを支えているのは、数秒しか映らないのではあるが、志村正彦の歌い叫ぶ姿であろう。


 今年はすでに5月に『ミュージック・ポートレイト「妻夫木聡×満島ひかり第2夜」』で、妻夫木によって『茜色の夕日』が選ばれている。
 記憶されるべき作品として、志村正彦・フジファブリックの歌は「今」を生きている。

2016年11月30日水曜日

桜座の夜、歌の散布。

 11月27日、甲府桜座、『Analogfish & mooolsと捲く、芋ケンピ空中散布ツアー2016 ~空中サンプ~、ドローンに詰めるだけ詰め込んで、、秋。』LIVE。このツアーに通い始めて四年目になるが、これまでで最も印象深かった。
 開演前に、メンバーかスタッフの息子さんだろうか、男の子から芋ケンピが一つ渡され、「空中散布」が始まった。(後でmoools酒井泰明も観客一人ひとりに配り歩いた)

 ケンタ&カフカ。佐々木健太郎(Analogfish)とカフカ先生(moools)のデュオ。MCで小淵沢でのレコーディング時の挿話が入る。ケンタの声とカフカの鍵盤の音色がゆるやかに溶け込む。カフカ先生の故郷、北海道礼文島ではソ連の放送が聞こえたそうで、記憶に残る美しいピアノ曲を奏でてくれた。なんだかとても懐かしい時が流れる。

  KETTLES。コイケ、オカヤスによる男女デュオ。ベースレスのロックがどういうものかを堪能できた。ベースの不在は音を尖らせる。尖っているけどにこやかであり繊細でもある。2016年の東京パンクはこういう音なのかもしれない。『何をやっていたんだ』という曲が耳にこびりつく。今まで。

 moools。彼らが登場するだけで桜座の重心が低い方に降りていく。彼らの佇まいがそうさせるのか。有泉充浩のベース、斉藤耕治のドラムス、円熟した音が低く低くうねる。それに反作用するかのように、酒井泰明の声が高く高く言葉を突きあげる。浜本亮のギターは限りなく透明に近い音色。カフカの鍵盤音がさりげなく落ち着きを与えている。彼らを桜座で聴いて四年目になるが、70年代の英米のロックの音、その最上の部分が再現されているように感じる。単なる反復ではなく、mooolsらしいひねりのある現前であるのだが。

 Analogfish。斉藤州一郎のドラムスが桜座に鳴り出す。彼のパルスのようなビートの感覚はこの空間にとてもよく合う。どの曲も素晴らしかったのだが、とりわけ『Nightfever』『夢の中で』『世界は幻』と続いた三曲に圧倒された。

 夜空は年々深さを増し
 いつか僕はのみ込まれてしまうよ
 センターラインはどこにある
 そしてそのどちら側に君は立つ      『Nightfever』     

 誰かの夢の中で暮らしてるような気分
 そんな気分                             『夢の中で』

 べつだん 何不自由も無い
 すりガラスごしに見る 世界が幻だ      『世界は幻』

 制作年代もテーマも異なる三曲だが、この日は、「夜」、「夢」、「幻」とモチーフが絡み合い、つながるように響く(こう書くと三題噺のようでもあるが)。
 「センターラインはどこにある」のか、「誰かの夢の中」か、「すりガラスごし」か。場や人や物。その境界線のこちら側と向こう側、僕らはどこにいるのか。

 なぜだか感情が潤んだ。哀しい寂しいというものではない。冷静であるのだが、心の奥深く何かが呼び起こされる。下岡晃の語り、佐々木健太郎の唄、かけがえのない歌を今ここで聴いているのだという確信があった。

 この夜、桜座で、歌が散布された。Analogfish『Nightfever』の一節で閉じたい。

 nightfeverが覚める頃街は朝の中
 nightfeverが覚める頃君は夢の中



2016年11月22日火曜日

日曜日の桜座、Analogfish・moools・KETTLES、来る!

 今週の日曜日、11月27日、甲府の桜座で、『Analogfish & mooolsと捲く、芋ケンピ空中散布ツアー2016 ~空中サンプ~、ドローンに詰めるだけ詰め込んで、、秋。』が開催されます。moools、アナログフィッシュ、KETTLES、ケンタ&カフカの出演だそうです。(ケンタ&カフカって何?誰?)
 二か月ほど前にもここに書きましたが、まだまだ席があるようなので再度お知らせします。

 佐々木健太郎(Analogfish) さんのtwitterに、手製のチラシの画像がありました。素晴らしい味わいがあるので勝手に転載させていただきます。
 僕は読み返しては感動しています!


 佐々木さんは「甲府桜座は、ガラス工場を加工した、他では有り得ない、場所自体に魔法がかかっちゃってる場所です。音もとてもいいんです。芝居小屋という事もあり、ライブとゆーより舞台みたいというか、普段とは一味も二味も違います。」と呟いています。

 そうですそうです。桜座は「他では有り得ない」宝箱です。僕はここで色々な宝物と出会いました。特に山梨に住んでいる皆様、宝物を分かち合いましょう。いつも山梨のお客さんが少ない感じがします。もったいないです。予約は主催の「どうしておなかがすくのかな企画」のHPでできます。

 Analogfishは最近 Acoustic self-cover Albumの『town meeting / Analogfish Acoustic Edition』をリリースしました。山梨の小淵沢の「星と虹スタジオ」で録音され、ミックスも田辺玄(WATER WATER CAMEL)さんです。山梨の空気が詰め込まれていることでしょう。僕はまだ手に入れていません。会場の桜座で販売されそうなので、購入することを楽しみにしています。

2016年11月20日日曜日

レナード・コーエン、レオン・ラッセル。

 レナード・コーエンが11月7日に、レオン・ラッセルが11月13日に亡くなった。享年82歳と74歳。若くして世を去るロックの音楽家も少なくない中、この二人は音楽家としての人生を過ごすことができたのだろう。僕にとっては70年代前半から半ばにかけての時代に出会い、その時代にリアルタイムで聴いてきた歌い手だけに、かなりの感慨がある。

  72年か73年の頃、カーペンターズによるレオン・ラッセル『ア・ソング・フォー・ユー』(A Song for You)のカバー曲がヒットし、そのうち本家のレオン・ラッセルの歌もラジオでよくかかるようになったと記憶している。あの独特の声による語りの調子に魅了された。当時は「スワンプ・ロック」の中心人物として『ニューミュージック・マガジン』でよく紹介されていた。アメリカの歌の奥行きの深さのようなものを感じていた。カーニバル的な色彩感のある『タイト・ロープ』もヒットした。今では想像できないだろうが、当時のラジオ番組ではレオン・ラッセルのような渋い洋楽もかなり放送されていたのだ。

 レナード・コーエンとの出会いは、1975年リリースの『ベスト・オブ・レナード・コーエン』というベスト盤レコードだった。67年のデビュー作から74年の5枚目までのアルバムからの自選集で、本人による歌の背景の簡潔な説明も載せられていた。(これは本人公認のものだが、あの頃は日本のレコード会社の独自企画によるベスト盤もたくさんあった。小遣いの少ない若者にとってはありがたい存在だった。1997年邦盤のCDが発売されたが、現在は入手できないようだ)
 ミラノのホテルで撮影されたというジャケット写真も印象深いものだった。




 A面の『スザンヌ』『シスターズ・オブ・マーシー』『さよならマリアンヌ』『電線の鳥』と続く初めの四曲、B面終わりの方の『チェルシー・ホテル#2』『誰が火によって』を繰り返し聴いた。なかでも『電線の鳥』には強く惹かれた。

  Like a bird on the wire,
  Like a drunk in a midnight choir
  I have tried in my way to be free.

  電線の上の一羽の鳥のように
  真夜中の聖歌隊の酔いどれのように
  僕は僕のやり方で自由であろうと試みた

 英語そのものの壁、英米文学の伝統、ユダヤ・キリスト教的な思想の伝統という大きな壁があった。歌詞が理解できたわけではなかったが、レナード・コーエンの「声」が強く響いてきた。意味もおぼろげではあるが次第に作用してきた。「I have tried in my way to be free.」という声と言葉が刻み込まれた。それ以来このフレーズは、「自由」であることが試されるような時の折々に、頭に浮かんできた。

 題名でもある「a bird on the wire」という情景がどのようなものかは長い間分からなかった。イラ・ブルース・ナデル著『レナード・コーエン伝』(訳・大橋悦子 夏目書房2005/02)を読んで、この歌の成り立ちについて知ることができた。
 1960年、レナード・コーエンは故郷のカナダ・モントリオールを離れギリシャのイドラ島で暮らし始めた。当初そこには電線も電話もなかった。まもなく電柱が立ち電線が引かれた。彼はその状況についてこう述べている。

窓越しにそんな電話線を見つめては、文明が私を追いかけきてつかまえた、もう逃れられない、と思ったものだ。自分のために見つけたはずのこの十一世紀の生活を、もう続けることができなくなった。それが始まりだった。

 そう考えた時に、鳥たちが電線にとまりに来ることに彼は気づいたという。そこからこの冒頭の歌詞が生まれたようだ。

 この証言によれば「the wire」は「電話線」を指すことになる。電話線は他者や外部とのコミュニケーションの象徴だ。レナード・コーエンがそこから逃避してきた欧米の世界、二十世紀の生活と自分をつなげてしまう。ギリシャでのゆったりとした時間とは異なる時間に連れ戻してしまう。「もう逃れられない」というのは悲痛な叫びだ。電話線の上にとまっている「一羽の鳥」は、そのような状況の到来にもかかわらず、「自由」であろうとする試みの像なのだろう。

 デヴィッド・ボウイは今年1月に、ルー・リードは2013年10月に亡くなっている。ロックの第一第二世代、60年代後半から70年前半にかけての激しい時代を生きのびたロックの詩人たち。彼らの生が閉じられていく時代を迎えている。

2016年11月14日月曜日

A SONG FOR YOU - Leon Russell & Friends (1971)


 
And when my life is over
Remember when we were together
We were alone and I was singing this song for you

2016年11月11日金曜日

Leonard Cohen - Suzanne (from "Live At The Isle of Wight 1970")


He said all men will be sailors then until the sea shall free them
But he himself was broken, long before the sky would open
Forsaken, almost human, he sank beneath your wisdom like a stone

2016年11月6日日曜日

HINTO、"WC" TOUR 2016、渋谷WWWで。

  一週間前の10月30日、渋谷でHINTOを聴いてきた。新アルバム発売に合わせた「"WC" release ONE-MAN TOUR 2016」の最終日だった。
 正直書くと、東京のライブハウスまでわざわざ出かけるという意欲が最近はあまりない。このライブも迷っていたのだが、たまたまこの日に仕事関係の会議に行く用事ができた。これも何かの縁と思い、チケットを購入した。

 五時半過ぎにやっと会議が終わり、渋谷に移動。この日はハロウィンの前日で渋谷駅前は大混雑。ハロウィン目当てでない人にとっては大迷惑。すり抜けすり抜け、会場の渋谷WWWへ。途中で仮装した若者をたくさん目撃したのだが、いまいち楽しそうでないというのか、なんだか痛々しい。誰かが仕掛けたのだろうが、仕掛けられた祭りはやはり白々しい。

 開演六時半ぎりぎりに到着。ほぼ満員、最後列に何とかスペースを確保。映画館「シネマライズ」を改築した小屋だから段差がありステージが見やすい。しばらくするとHINTOの登場。『なつかしい人』が始まる。「100年まえから貴方のこと知ってる気がしているよ」の声が広がっていくと、場内が鎮まってくる。安部コウセイの表情を見て、言葉を聞き取ろうとする。この歌の静けさ、時をさかのぼり時を超えていくような調べはやはり特筆すべきものだ。
 2014年9月渋谷CLUB QUATTRO公演の『エネミー』の狂熱に圧倒されたことは以前ここに書いたが、この日の『なつかしい人』の静かな熱量にも心と身体が押し込まれた。

 このライブで気づいたのだが、安部光広のベースがHINTOサウンドの要だ。面白いベーシストだ。新しくもあり、どこか懐かしいようでもあるベースライン。彼のコーラスもこのサウンドに不可欠だ。安部兄弟の声と音が一つの塊となり、その塊に伊藤のエッジの効いたギターが彩りを何重にも与え、菱谷昌弘のドラムスが底の底のリズムを支える。
 しかし元映画館のせいか、音が反響しすぎて分離が悪い。空間の規模に比べて、音量も大きすぎる。変なサラウンド効果がついたような音響にまいってしまった。

 本編最後は、『WC』最後にある『ザ・ばんど』。「すべてのバンドマンに捧げます」というMCの後に、「何回も何回も 折れた心を乗せて走る/白いハイエースが 街から街へ/俺たち運んでいく ハイウェイ/待ってて」と歌い出された。
    
  何回か本当にやめてしまおうかと思った
  だけど恰好悪い ビートは続く
  あの日からとまらないストーリー

  最強の音楽でおれたちが連れて行くぜ遠く
  青いバードはもう 探さず行こう
  ドラムスが道標 ワン!ツー!

  馴染めない この世界をぶっ壊すギター
  忘れない 永遠みたいな悲しみのこと
  情けない 自分自身をぶっ壊すシャウト
  信じてたい 魔法みたいなロッケンロール
           (『ザ・ばんど』 詞:安部コウセイ)

 安部コウセイの歌詞にしては素直で直接的だ。もちろん、幾たびかの屈折を経た後で、ぐるっと回って素直さを得たというような感触だが。この歌について安部は、「バンドのことをシリアスに書くって、やっぱり恥ずかしいんです。でも、いい加減そこから逃げずにやんなきゃなって思ったのも事実なんですよね。」とした後でこう語っている。(『ラバーガール飛永との対話でこぼれた、HINTO安部コウセイの本音』文:金子厚武)

―なぜ今回のタイミングでは恥ずかしいと思う言葉でも使おうと思ったのでしょうか?

安部:なんでだろう……まあ、ど真ん中のことを大きい声で言う気持ちよさってやっぱりあるから、言いたくなってきたんでしょうね。あと“ザ・ばんど”に関して言うと、これを歌ったときに、自分達がいい方向に引っ張られるような曲にしたいと思ったんです。しんどいときに歌って、気持ちが前向きになったりしたらいいなって。

 なるほど。「シリアス」で「恥ずかしい」ことであっても、そこから逃げずに「ど真ん中のことを大きい声で言う」。その境地は、三十歳代後半となった彼の現在の位置を示している。『ザ・ばんど』はバンドの過去、現在、そして未来の軌跡を描いてるのだろう。僕は単なる聴き手だから、バンドマンの真実は分からない。ただし、「自分達がいい方向に引っ張られる」という想いを共有することはできる。そのような曲であるのなら、聴き手もその方向に歩み出せるだろうから。

 ハロウィンの渋谷。その狂騒から逃れるようにこの場に集った者はみな、安部コウセイがMCで話していたように、心に何かの塊を抱えている者なのだろう。変わらない、あるいは変えられない心の塊。2時間の間、ある者は踊り、ある者は言葉を聴く。自らの塊が、つかの間かもしれないが、ほぐされる。解放される。

 HINTOの「最強の音楽」でこれからも、どこか遠くの場へと連れて行ってもらおうではないか。

2016年11月3日木曜日

ヴァンフォーレ甲府J1残留

 今日11月3日は、ヴァンフォーレ甲府のJ1残留をかけた試合があった。
 僕は仕事を途中で切り上げ小瀬の中銀スタジアムへ。YBSラジオの中継を聴きながら向かったのだが、駐車場に到着した直後に失点、0:1となってしまった。キーパー河田のミスのようだ。こんな大切な試合でミスから失点とは「降格」の黄信号がともる。早足でスタジアムに急いだが、満員、立ち見の応援となった。もう後半25分を過ぎていた。

 強風にあおられてボールがコントロールできない。チャンスらしいチャンスもない。得点の匂いがしない。今季を象徴しているかのような内容の乏しい試合だった。結局負けてしまったのだが、ライバルのアルビレックス新潟、名古屋グランパスも負けたので、勝点1の僅差でJ1に残留することができた。そのことを告げるアナウンスがあると喜びの声が上がったのだが、敗戦は敗戦、内容も内容だけに盛り上がりには欠けた。

 試合後のセレモニーで佐久間悟監督は「苦しい状況が続きました。恨み悩み、絶望感を感じるようなシーズンでした。このような形ですがJ1に残留できたのは、前を向いて努力し続けた私たちへのサッカーの神様からのごほうびだったのかなと感謝しております」と挨拶した。「指揮官」の言葉としては疑問符が付くが、一人の「人間」の言葉として受け止めれば理解はできる。佐久間さんは正直な人だ。資質としても、監督よりもゼネラルマネージャーに向いている。それでもプロサッカーは結果がすべてだ。その厳しさがある。残留を決めたのは佐久間さんの勝利だ。今季限りで監督は退任し、GMに専念するそうだ。ほんとうにご苦労様でした。

 勝点1の差での残留。2009年12月5日の試合のことを想い出した。この日、J2にいた甲府はJ1昇格を決める試合を闘っていた。最終節時点での勝点が湘南ベルマーレ95、 ヴァンフォーレ甲府94。甲府が勝ち、湘南が引き分け以下になると、甲府はJ1に昇格できる。結果は、甲府は勝利したが湘南も勝利して、湘南が昇格することになった。勝ち点1の差だった。冷たい雨の降る中、そのことが分かるとスタジアムが静まりかえった。

 以前にも記したが、「志村日記」(『東京、音楽、ロックンロール』)2009年12月5日付で、志村正彦はこう述べている。

  京都前のり。民生さんと合流し、飲みに行く。
  民生さんサッカーの話、超詳しい。俺、全然分からん。
  今、甲府はどうなってるんだ?
  甲府がJ1に上がった日は嬉しくて乾杯したな、そういやあ。

 あの日、彼が甲府のことを書いていたのは偶然なのだろうが、なんだか不思議だ。2009年のあの日は冬の雨、今日は風が強かったが快晴だった。甲府盆地を囲む山々は美しい稜線を現していた。2009年と2016年のラストゲームは、同じ勝点1の差で、明暗を分けたことになる。

アウェイ側から見たホームゴール裏。背景の山々は、左側遠くに八ヶ岳、真中に茅ヶ岳など。

 たかがサッカーされどサッカー。所詮はゲームなのだが、ゲームにしては「降格」という厳しさのあるこのゲームは、現実の縮図のようなところがある。それがJリーグの魅力だ。「昇格」があるからこそ「降格」もある。「降格」があるからこそ「昇格」もある。
 昇格や降格、残留争いを何度も経験した甲府の一サポーターから、名古屋グランバスのサポーター(そしてVF甲府の選手でもあった小倉隆史前監督)に対して、「No Rain No Rainbow」という言葉を贈りたい。

2016年10月31日月曜日

瞬間と永遠―『赤黄色の金木犀』[志村正彦LN143]

 フジファブリック『赤黄色の金木犀』、四季盤の秋の曲はどのようにできあがったのだろうか。
 志村正彦はあるインタビューで次のように語っている。(oricon style  文:井桁学)

秋は夏が終わった憂いがあって、四季の中でも一番グッとくる季節だし、前々からいい形で秋の曲を作りたいと思っていたんです。秋の風景にはいろいろありますけど、今回はある帰り道に思ったことを瞬間的に切り取って曲にしました。

 歌詞の該当部分を抜き出してみる。

           赤黄色の金木犀の香りがして
    たまらなくなって
    何故か無駄に胸が
    騒いでしまう帰り道          (『赤黄色の金木犀』志村正彦)

 ある帰り道で「金木犀の香り」がする。その香りで「たまらなくなって」、「何故か無駄に胸が騒いでしまう」。香りというのは我々の記憶の深いところに作用する。意識にも上らない何かの出来事、その香りが意識の底に張り付いているのかもしれない。「何故か」「無駄に」と形容しているように、それがで何あるかは歌の主体にとっても分からない。あるいはすぐには思い出せないものかもしれない。

 「金木犀の香り」の到来、「胸」の騒ぎ、どちらも瞬間的にしか切り取ることができないもの、それを楽曲に変換していく。言葉で語ることのできない何かを言葉で分節しないままに、身体の律動や感覚の揺れとして楽曲を形作る。前奏と後奏のアルペジオの印象に近いものかもしれない。その流れの中で、言葉が、歌詞の元となるものが浮上する。それは断片的なモチーフに過ぎないが、楽曲と複合していくことで『赤黄色の金木犀』の原型が形成される。これはあくまで推測であるが。

 フジファブリックがスタジオに入り、楽曲が完成する。前回も引用した志村の発言がそこからの過程を明らかにしている。

ただ歌詞は、いつもオケが完成してから一番最後に作るんですよ。むしろ演奏(の印象)を何倍にもするような歌詞を書きたい。

 夏が終わった憂い。秋の日の帰り道。その時その場の瞬間的な想いから、言葉として楽曲として『赤黄色の金木犀』が完成するまではかなりの時間を要したことだろう。
 言葉が楽曲を、楽曲が言葉を、互いが互いに作用し、より高い次元に引き上げていく。瞬間が作品となる。ある永遠となる。それを志村正彦の時間と名付けてみたい気がする。

2016年10月23日日曜日

「演奏(の印象)を何倍にもするような歌詞」-『赤黄色の金木犀』[志村正彦LN142]

 一週間ほど前、甲府のある通りを歩いている時、ほのかに金木犀の香りがした。もうこの花の季節は終わっているようなので意外だった。似た香りの違う花だったのかもしれない。あるいはやはり、少し遅く咲く金木犀の種があるのか。分からなかったが、記憶の中の香りと比べてすでに懐かしい気がした。

 昨年、ある古書市の目録で『ニューミュージック・マガジン』(1969年4月~1979年12月)、『ミュージック・マガジン』(1980年1月~現在)の1970年から2012年までの500冊を超えるセットが売り出されているのを見つけた。70年代半ばから80年代半ばまでの号は毎月購入していたが、その後の号はほとんど持っていなかった。この雑誌は基本として洋楽中心だが、時々邦楽についての特集もある。冊数が冊数だけに値は張ったが、リーズナブルな値段だった。初期の号を含めた一揃いが古書市場に出ることはなかなかない。思い切って抽選に応募して、運よく入手できた。大量の雑誌が宅配便で運ばれたときは置き場に困ったが、大きな書棚一つを用意してなんとか配架できた。

 1969年創刊のこの雑誌は、少なくとも70年代までは日本語ロックをめぐる考察や議論の中心となったメディアである(『ニューミュージック・マガジン』の誌名の時代と完全に重なる)。索引が充実しているので資料としての価値も高い。
 時々、余裕があるときに思いつくままに読んでみようとした。なかなかその時間が取れずにいたが、先日、背表紙を眺めていると2004年12月号の「特集 日本音楽の現在」という文字が目にとまった。取り出して目次を見ると驚いたことにフジファブリックの二頁に及ぶ記事があった。特集の一つではなく、「Tune In!」という話題のバンドやアルバムを取り上げる企画だ。これまでフジファブリックを取材した雑誌はかなり調べ集めてもきたが、『ミュージック・マガジン』は未確認だった。迂闊だったが、見つけることができたのは幸いだった。

 記事名は『フジファブリック=謙虚で苛烈な80年代生まれバンドを”追ってけ追ってけ”』、取材と文は志田歩氏。11月発売のメジャー1stアルバム『フジファブリック』に焦点を当てたもので、写真1頁、文章1ページの構成だ。当然だが写真も未見の一枚、「硬派」の老舗音楽誌という性格を反映してか、5人のメンバーはやや緊張した真面目な表情をしている。

 記事の一部を紹介したい。志田氏は「特に本作にも収められた最新シングル〈赤黄色の金木犀〉は、楽曲、歌詞、アレンジの絡み方が、ただならぬ密度の濃さを感じさせる」と述べ『赤黄色の金木犀』を高く評価していた。この楽曲についての志村正彦の発言が引用されている。

そうですね。自分でもあの曲は聴く度に発見があります。勢いだけでできる曲じゃない。根本的なメッセージがないと伝わらないですから。ただ歌詞は、いつもオケが完成してから一番最後に作るんですよ。むしろ演奏(の印象)を何倍にもするような歌詞を書きたい。そもそも自分にとって引っかかりの意識が持てない歌詞は忘れちゃいますから、歌ってる自分についてはウソがない感じですね。

 曲は聴く度に発見があること、根本的なメッセージがないと聴き手に伝わらないこと。歌ってる自分についてウソがないこと。志村が繰り返し語ったことがすでにこのインタビューに現れている。さらに、「歌詞は、いつもオケが完成してから一番最後に作るんですよ」ということを明言しているのが貴重だ。他のインタビューでも同様の発言があるので、志村は所謂「曲先」で後で歌詞を作るのが基本だったようだ。ただし、「曲先」「歌先」と言っても、創作は複雑な過程であり、意識的な作業の裏で無意識なものが様々に動いている。楽曲、歌詞、どちらが先に来てどちらが後に来るとしても、全体としてみれば、一つのものとして創造されるとも考えられる。現実の作業には順序があるのは当然だが。

 志村の作品は、言葉と楽曲のファブリック(織物)の完成度が高い。言葉が楽曲を、楽曲が言葉を、互いが互いに作用し、より高い次元に引き上げている。彼がロックの曲と歌詞の定型に寄りかかることなく、楽曲と必然的に結びついた言葉を練り上げていったことは、フジファブリックのアルバムを聴けば明らかだ。ここで述べられた「演奏(の印象)を何倍にもするような歌詞」という志向がそれを証している。

     (この項続く)

2016年10月16日日曜日

《変わらない》 HINTO『WC』

 HINTOの新アルバム『WC』から前々回まで二回に分けて、『なつかしい人』と『花をかう』を取り上げた。


 書きあげてから気づいたのだが、この二つには重なる言葉があった。「変わらずいよう」と「変わらない為の理由を探しながら」である。
 このアルバムで作者の安部コウセイは《変わらない》というモチーフを追いかけているようだ。

  時間がたったら変わるのが普通だと言うけど
  変わらずいよう
     『なつかしい人』

  俺は今日も変わらない為の理由を
  探しながら 町を歩いて いるよ
     『花をかう』

 『なつかしい人』では「僕達」の誓いの言葉、「変わらずいよう」として、『花をかう』では「俺」の「変わらない為の理由」を探す、自らへの問いかけとして、《変わらない》というモチーフが表されている。ラブソングという枠組の中で、《変わらない》ことが愛を支える、あるいは愛が《変わらない》ことを支えるようにして、歌に織り込まれている。(ここまで書いてきて、脈略なく、堕落モーションFOLK2『夢の中の夢』の最後「変わらない愛を 祈り続けてる」が浮かんできたことを記す。)

 『WC』収録曲には他にも同じような言葉があったはずだ。そう思い、歌詞カードを読み直してみた。『かるま』『風鈴』に「変わらない」、『ザ・ばんど』に「変われない」という言葉があった。『WC』の曲数は九つだが、『なつかしい人』『花をかう』を合わせて、《変わらない》(「変われない」を含めて)というモチーフの歌が五つある。
 
  他人と違うとこ すがるには
  少し大人になりすぎた
  変わらないカルマ 憐れむな
  私なりには大事

  他人と同じとこ 目指すには
  少し大人になりすぎた
  変わらないカルマ 憐れむな
  私なりに生きてく
      『かるま』


 『かるま』の歌の主体「私」は女性。若いのではあるがそう若くもないとも言える「少し大人になりすぎた」女性の視点から、「変わらないカルマ」の日常が語られている。作者のストーリーテリングは巧みだ。「カルマ」はこの言葉の原義の「行為」だと捉えていいだろうか。「お仕事」「飲み」「嘘だらけの毎日」、都市生活の行為。「漫画の新刊」「コンビニ」「満月の夜」、都市生活の風景。「まあまあタイプの顔」だが「退屈すぎる会話」の男。「ぬるい幸せ」の日々。そのような日常を生きる自分を自ら憐れむことはない。「変わらないカルマ」も「私なりには大事」なのだから、「私なりに生きてく」。一見すると表層的な物語のようだが、作者安部コウセイの視線は深いところまで届いている。ひねくれすぐれている。2016年という現在のリアルな都市の詩だ。

 『花をかう』の主体「俺」は男、『かるま』の「私」は女。前者は「変わらない為の理由を探し」、後者は「変わらないカルマ 憐れむな」と自らに言い聞かせる。『WC』という題名はその名が示す通り、男女の間の隔たりを象徴しているそうだが、この二つの歌をみても、《変わらない》ことに対する男女のありかたの差異が伝わる。『なつかしい人』では、「僕」と「貴方」の二人から成る「僕達」は、「変わらずいよう」という「同じ答えが欲しい」ようだが。


  あー 風のままに吹かれて
  そっと 鳴らすよ
  あー なすがままの世界で
  ずっと 変わらない
     『風鈴』

  もうちょっとちゃんとした大人になれる筈だったけど
  依然マイペースさ 成り行きまかせ
  あの日から変われない セブンティーン
     『ザ・ばんど』

 『風鈴』は不思議な歌。歌の中の人間関係が読み取りにくい。もしかすると、この歌の主体は「風鈴」なのかもしれないと思うほどだ。「風鈴」はその姿が忘れ去られるほど変わらない。『ザ・ばんど』は「バンドマンもの」系譜の作品だが、『WC』収録曲の配置の最後にあり、HINTOの変わらない姿を、意外なほど素直に伝えようとしている。


 そもそも、アルバム『WC』の初めの曲『なつかしい人』には、100年という時間の隔たりがあったとしても《変わらない》、そのことへの祈りが込められているのではないだろうか。

2016年10月13日木曜日

ボブ・ディラン「新しい詩的表現」

 今夜帰宅後、ノーベル文学賞が気になってテレビをつけてみた。BSフジの「プライムニュース」がストックホルムからの映像を生中継していた。
 午後8時、発表者から読み上げられた名は「Bob Dylan」だった。英語での説明がゆっくりした発音だったので「new poetic expressions」「the great American song tradition」という言葉が耳に入ってきた。数年前から候補に挙がっていたことは知っていたので意外ではなかった。それよりも「偉大なアメリカの歌の伝統」の中で「新しい詩的表現」を創造したという授賞理由に心が強く動かされた。

 志村正彦の歌詞・詩を中心に日本語ロックの歌詞について語り続けてきたこのblogの主催者としては、現在のロックやフォークの歌詞の最も大きな源流であるボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞したことは率直に嬉しい。ノーベル賞という大栄誉、大権威から承認されることは「ロック」的でないという野暮な意見もあろうが、そんなことはどうでもいい。ロックやフォークの言葉はもっと多くの人に親しまれるべきだ。その契機となるならこの受賞には大きな意義がある。
 朝日新聞の記事によると、発表したサラ・ダニウス事務局長は「彼の詩は歌われるだけでなく、読まれるべきものだ。非常に巧みに伝統を取り込みつつ、常に自分自身の殻を破ってきた」と述べたそうだ。「読まれるべき」詩という捉え方には大いに共感する。

 今年の4月、渋谷オーチャードホールでボブ・ディランを聴いたことは以前このblogに記した。1978年2月武道館以来の2度目のディラン体験だった。その時書いたように、僕は「70年代のディラン・ファン」ではあるが、ずっと聴き続けているという意味での本来のファンではない。それでも断続的ではあるが、彼の軌跡を追っていたとは言える。
 あの日のディランは、アメリカ音楽の伝統を一身にまとう「シンガー」だった。自分の書いた文をそのまま引用する。

ディランは20世紀のアメリカ音楽の厚い伝統に守られている。その言葉も英米文学やユダヤ・キリスト教の言葉の伝統に支えられている。それは事実であり、それ以上でもそれ以下でもない現実なのだろうが、正直に言うと、そのことに違和というか疎隔されるような感覚も持った。孤高の単独者というより、伝統のそれもかなり自由な(これが彼らしいが)体現者としてのボブ・ディラン。自分自身に対する固定的な捉え方、その枠組みからたえず抜け出そうとしてきた彼の軌跡の到着点なのだろうか。

 60年代から70年代にかけての「孤高の単独者」の影を追いかけてしまうのは、僕たちの世代の幻影、一種の病のようなものかもしれないが、それは自ら引き受けるものなのだろう。ディランを源流とするロックやフォークの言葉。その伝統と現在は今だ転がる石のように動き続けている。世界のあらゆるところで、この日本でも。僕たちには志村正彦という稀有な「ロックの詩人」がいる。

 志村正彦は、日本語ロックの伝統に「新しい詩的表現」を与えた革新者だ。日本語の伝統や季節の感性を受けとめた上で、それを超える言葉の綴れ織りと新しい話法を編み出した。一つ一つ、彼の言葉の軌跡をたどっていきたい。

2016年10月10日月曜日

『花をかう』HINTO

 前回書いたHINTOの新曲『なつかしい人』について、安部コウセイが、『skream』というネットメディアでこう述べている。(インタビュアー:石角友香)

歌モノでありながら演奏もちゃんとかっこいい、歌を抜いて演奏だけ聴いてもかっこいい。「なつかしい人」は、そういうことを突き詰めてやりたかったんです。そういう気持ちは突然湧いた思いなわけでもなくて、もともとそういうものの方がいいはずだよなと思ってました。ヴォーカルが入ることでそれがひとつの説明だったり、感情の方向性だったりをわかりやすくするっていう役割として、ヴォーカルを楽器だと思ってるんですけど、その音が抜けたときに"あれ? 全然かっこよくないな"ってなるのだけは僕はやだなと思って。

 確かに、『なつかしい人』は歌と演奏の突き詰め方がロック音楽という枠組の中では究極的なところまで進んでいる。歌と演奏、声と楽器の音色が複雑に絡み合い、非常に高い水準で融合している。日本語ロックの新しい次元を切り開いているといっても過言ではない。
 youtubeの公式映像は公開以来3週間という短い期間ですでに5万4千回を超えている。特筆すべきなのは海外からの賛辞が寄せられていることだ。歌詞が分からなくても、声が意味と分離していても、意味を超えた何かが作用するのだろう。安部の目指したように、ヴォーカルが楽器として響いているのかもしれない。それでも海外のコメントを読むと、歌詞を知りたいという声も多い。公式サイトには『エネミー』の英訳が掲載されているので、『なつかしい人』の翻訳が待たれる。
 HINTOの「日本語ロック」は「日本」という閉域を超えて評価されている。これは驚くべき出来事ではないだろうか。

 新作『WC』収録の『花をかう』という作品も繰り返し聴いている。歌詞を引用しても歌が聞こえてくるわけではないが、歌詞カードから詩の後半を写してみる。


  俺は今日も変わらない為の理由を
  探しながら 町を歩いて いるよ
  ガラにもなく花屋で立ち止まった
  赤 白 黄色 どれも似てんな

  花をかう トゥユー 天気のせいさ 自由
  花をかう トゥユー サプライズのよう どお?
  花をかう トゥユー 天気のせいさ 自由
  花をかう トゥユー 枯れないでよ
  ラブユー


 突然、花を買いたくなることがある。僕のようなおじさんが花屋に行くなんて気恥ずかしいし、近くに花屋もない。だから現実に花を買うことはほぼない。花を買う想像はほとんど妄想のようなものになる。そう言えば、志村正彦・フジファブリックの『花屋の娘』も妄想が膨らむ話だった。

 前半、「君」と「俺」との「甘い」「疼く」小さな出来事が語られる。やや、ややこしい物語が、「そうさ2人は子供だった」というように人物は幾分か三人称化されて語られている。後半、「俺」は「ユー」に語りかける。心の中での二人称への呼びかけのスタイルになる。安部コウセイの描く物語は、この三人称と二人称の語り口の転換が冴えている。ひねくれた突き放した悲哀と真摯さがぐるぐると駆け巡っている。
 歌の主体「俺」は「変わらない為の理由」を探しながら町を歩き、「ガラにもなく」花屋で立ち止まる。男が花屋で佇む。妄想のようにもリアルな情景のようにも受けとれる。

 歌の最後、「花をかう」「トゥユー」「枯れないでよ」「ラブ」「ユー」の言葉とメロディ・リズムの「間」の取り方、声と演奏の織り交ぜ方、グルーブ感が素晴らしい。最後の最後の「ユー」の響きは美しい。「枯れないでよ」が小さな祈りのように聞えてくる。

 この「ユー」は「君」であり「花」でもあるのだろう。そうして「ラブ」そのものでもある。
 「枯れないでよ」と呼びかけられた花の物語はこれから始まる。

2016年10月5日水曜日

『なつかしい人』HINTO

 HINTOのニューアルバム『WC』が届いた。『なつかしい人』そして『花をかう』に強く惹かれた。歌詞カードも読んだ。言葉、楽曲、歌、演奏、すべてが高度な次元でしかも複雑なテクストのように融合している。あえて批評家気取りの物言いをするが、このアルバムが正当に評価されないようでは「日本語ロック」のメディア(そんなものがあるとして、だが)の存在意義はない。

 「HINTOofficial」にある『なつかしい人』のミュージック・ビデオ(岡田文章監督)を添付させていただく。


 後半の歌詞を引用したい。

     なつかしい人 いつか聴こえたろ
     遠く咲く花火の 次の音が鳴らない
 
     なつかしい人 いつか眺めたろ
     夏の日の夕焼け 思い出はいらない
 
     なつかしい人 いつか出会う時
     初めての顔して 名前など知らない

     
     100年まえ


 「鳴らない」「いらない」「知らない」の「ない」の反復が「100年まえ」の光景を美しく描いている。あったこと、あること、あるであろうことを語り続けている。

 「100年まえ」とあるが、その時は、現在を起点に過去に遡る「100年まえ」ではなく、「100年あと」の未来の地点からこの現在へと遡る地平に現れる。時の翼がいったん未来へと飛び、そこから時が逆転して「100年まえ」にたどりつく。そんな気がする。何の根拠もなくただそう感じるだけなのだが。
 そうすると、「100年まえ」は、今ここ、を指す。この歌詞で歌われる出来事は、今ここにあることになる。

 この作品は作用する。
 聴き手に、何か意味を超えたものを贈り、届ける。

 「なつかしい人 いつか聴いたろ/遠く咲く花火の 次の音が鳴らない」と歌う安部コウセイの「声」。その声が遠ざかるとともに、「音」を鳴らし続ける伊東真一のギター、敲き刻み続ける菱谷昌弘のドラムスと安部光広のベースが、声の不在をうめようとする。映像も、絵画のフレームを境界に二つの空間に分割される。
 「遠く咲く花火」が、僕たちにとって大切な大切なあの花火の歌とこだまするかのように。しかし、「次の音」は永遠に鳴らない。

 

2016年9月30日金曜日

11月27日、Analogfish & mooolsが桜座に来る。

  秋の風物詩、Analogfish & mooolsの甲府桜座でのLIVEが今年も11月27日に開催される。

 ツアー名は『Analogfish & mooolsと捲く、芋ケンピ空中散布ツアー2016 ~空中サンプ~、ドローンに詰めるだけ詰め込んで、、秋。』、いつも通りの不思議に長い謎の名だ。さて、どんな雰囲気なのか。幸い、昨年の映像がyoutubeで見ることができる。

    

  映像を見ると昨年のことを思い出す。
 「Analogfish+moools」の合体バンドは、ツインドラムス、ツインベース、トリプルギター、キーボードの8人編成。最後はボーカル4人が「僕の腕の先のギザギザと 君の腕の先のギザギザを合わせよう」と、mooolsの『分水嶺』をリレーして歌っていった。すべての声と音がよく鳴っている。これはロック、これがロックだ。

 ロックはやはり「場」の音楽だ。桜座は小さな場ではあるが、声と音が凝縮され、エネルギーが蓄えられ、徐々に時に突然、放出される。ここでは聴き手は座敷に座る。座ると音に集中できる。そしてお腹の真ん中あたりで音を受けとめる。場と共振するかのように、音と身体が広がっていく。 

 せっかくの機会なのだが、昨年も一昨年も山梨のお客さんが少ない気がした。県内の老若男女のロックファンに集ってほしい。
 一言、もったいない、です。

 主催はいつも通り「どうしておなかがすくのかな企画」。この二つのバンドがこの地で聴けるのも主催者の勝俣さんと桜座という場のおかげで、とても有り難い。
 詳細は「どうしておなかがすくのかな企画」のHPにあります。まだ二か月後だけど、待ち遠しい。

2016年9月26日月曜日

ある問いかけ [志村正彦LN141]

 一昨日、富士の山頂に初雪が降ったそうだ。今朝、勤め先のいつもの位置から遠くの富士を眺めたが、甲府からではやはり分からない。
 今夜、駐車場に向かう途中、あの香りが微かな風に乗って鼻腔に届いた。金木犀だ。昨年も今頃だった。家に帰り、フジファブリック『赤黄色の金木犀』をかける。毎年の恒例だが、歌は不思議なもので、不意にある言葉が迫ってくる。

  いつの間にか地面に映った
  影が伸びて解らなくなった   (作詞・志村正彦)

 彼岸が過ぎて、日に日に昼が短くなっていく。陽は傾き、影が長く伸びるようになる。陽が弱くなり、影がうすく、その輪郭もぼんやりとしてくる。この歌詞の一節は、この季節に特有の「影」を描いている。影が季節の影となる。そんなことをふと思った。

 HINTOの新作『WC』がリリースされた。注文したが売れ行きがよく在庫がないようでまだ届かない。新曲『なつかしい人』のミュージックビデオを見たが、言葉、楽曲、演奏、映像、すべてが極めて高い次元で融合している。アルバム全体を聴くのが待ち遠しい。
 ネットを検索すると、HINTOのドラムス菱谷昌弘氏のtwitter(ひしたにビッツまさひろ https://twitter.com/hishitanese 9月21日) にこういう呟きがあった。

作り手がその作品を作るにあたって、どんな想いで、どれだけ頭ひねって、どれだけ苦労して作りあげたのか、ちゃんと批評する人たちには今一度その事を考えてみて欲しい モノを作る人なら尚更

 率直であるがゆえの深い問いかけだ。僕は批評家でも作家でもないこのblogの単なる書き手だが、この菱谷氏の言葉は肝に銘じたい。

 数分ほどのロックの歌。それらが集まった数十分のアルバム。
 その作品に、どれだけの「想い」と「頭」と「苦労」が込められているのか、どれだけの時間が凝縮されているのか、どれだけの闘いの痕跡があるのか。そのことを丁寧に測量するのがこの「偶景web」の仕事だと考えている。あえて「仕事」と書いたのは、自己表現や趣味ではないという実感があるからだ。「しごと」の本来の意味、「すること」というのか「すべきこと」というのか。すべきことであるから、する。続ける。

 昨日、ページビューが十五万を超えた。拙文を読んでいただき、感謝を申し上げます。

2016年9月21日水曜日

歌の伝わり方-『若者のすべて』[志村正彦LN140]

 台風が過ぎた。いつも見ている桜の樹の葉がもう半分近く散っている。夏が過ぎ去り、秋への歩みが速くなる。この狭間の季節、ある授業でフジファブリック『若者のすべて』を三十人ほどの生徒に聴かせた。

   CDをかける前に『若者のすべて』を聴いたことがあるかと尋ねた。手を挙げたのは五人ほどだった。この数は多いのか少ないのか。そんなことを思いながらCDをスタートさせた。教室という場で皆が一緒にこの曲を聴く。その雰囲気には独特のものがある。窓外の風景を眺めながら、曲が終わるまでの時間を過ごした。その後でもう一度この曲を以前聴いたことがあるかと尋ねると、二十人近くの生徒が挙手した。要するにこの曲を聴いたことはあるのだ。記憶にも残っている。つまり、志村正彦、フジファブリック、『若者のすべて』という固有名は知らなくても、この曲自体はかなり若者の間に浸透していることになる。

 『若者のすべて』についてはすでに三〇回ほど断続的に書いている。この歌そのものへの深い関心と共に、この歌がどう受容されていくかについても興味があり、時々ネットを検索してきた。最近、今年になってさらに夏の定番の歌としてテレビやラジオで流されることが多くなったという呟きを見つけた。確かなことは分からないが、肯ける気がする。
 僕は見逃してしまったが、テレビ朝日の番組『長島三奈が見た甲子園 野球が僕にくれたもの』のエンディングでも流されたそうだ。三年前、高校野球決勝中継のダイジェスト映像のBGMにもなっていた。anderlustによるカバーが使われたアニメ『バッテリー』も野球物である。志村正彦が野球少年だったことは知られているが、『若者のすべて』と野球という取り合わせは不思議なほど調和している。

 また最近、この曲を好きだったが誰の曲か知らなかった、やっとそれが分かった、というtweetを読んだ。『若者のすべて』が広まることで、志村正彦、フジファブリックの存在を知る。これはファンとしては嬉しい。逆に、誰が歌っているのか、誰が作ったのか分からないまま、この曲をずっと好きでいる。作者の名を知らない、ある意味では和歌の「詠み人知らず」のよう に、歌そのものの魅力によって人々に愛されていく。これもまた、曲の運命としては光栄なことに違いない。

 この作品が誕生してすでに九年近くになる。この間、草野正宗、櫻井和寿(Bank Band)、藤井フミヤ、柴咲コウ、槇原敬之と、名のある歌い手がカバーしている。志村正彦と交流のあった人にとっては追悼の意味合いも当然あったように思うが、近年のこの歌の広がりはその言葉と楽曲の力による。若手アーティストの場合は、志村正彦という存在へのリスペクトも込められている。プロを目指している若者たちが歌うことも多いようだ。聴き手がふと口ずさむこともあるだろう。

 2016年の夏はanderlustによる音源がリリースされた。ライブで歌われることも多い。五月のことになるが、UNISON SQUARE GARDENの斎藤宏介が「VIVA LA ROCK」というロックフェスで歌ったそうだ。その際「もしこの曲を初めて聴く人がいたら、その人にもちゃんと伝わるように歌います」と話したというレポートがあった。三月、クボケンジが歌ったことは以前このblogで書いた。
 先日、WOWOWの番組「ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2016 DAY-3後編」で、フジファブリックの『虹』『若者のすべて』が放送された。山内総一郎が力を込めて歌っていた。山梨の山中湖で開催された「SPACE SHOWER SWEET LOVE SHOWER 2016」でも演奏されたそうだ。夏のフェスのエンディングにふさわしい曲だろう。

 2000年代以降に作られたロックやポップソングでこれほどカバーされているものは他にない。志村正彦はリリース後にこの曲が「意外と伝わってないというか……正直、その現状に、悔しいものがあるというか…」と述べていたことは繰り返し記しておくべきだろう。
 時と共に、この曲は確実に伝わってきた。当時、このような歌の伝わり方を想像できた者はいないだろう。

 先週の土曜日、下岡晃(Analogfish)と堕落モーションFOLK2(安部コウセイ×伊東真一)が「m社会議Vol.2」というライブで共演し、そのアンコールで安部と下岡が『若者のすべて』を歌ったそうだ。
 聴いてみたかった。音源や映像はないかな。そう欲してしまう。だが、その時その場で歌われ、そして消えていくからこそ、歌は美しくあるのだろう。

 夏の終わりの季節にこの歌は人々に愛され、そして、その儚げな季節は閉じられていく。それでもまた来年その季節を迎える。年々、この歌は季節の循環のような時を生きていく。そのことを「運命なんで便利なもの」で語ってみたいのだが、どうだろうか。

2016年9月14日水曜日

吹田スタジアムの音と光

  先週末、大阪の万博公園にある吹田サッカースタジアムに行ってきた。ヴァンフォーレ甲府vsガンバ大阪の応援のためだ。関西に行くのは十年ぶり、前回も甲府の応援だった。

 スタジアムという場そのものに興味がある。2006年、甲府はJ1に初挑戦した。それから十年の間、二回降格したが、2013年の三回目の昇格以降四年間J1になんとかとどまり続けている。この間、関東圏を中心にJ1の主なスタジアムにはひととおり出かけた。今年2月、ガンバ大阪の新たなホームとなる吹田スタジアムがオープンした。凄い臨場感だという評判を聞いて、予定が合えば行こうと決めていた。

 甲府から身延線、新幹線と乗り継いで新大阪に着いた。茨木駅まで戻り、万博公園に向かった。しかしアクセスが分かりにくく、道に迷ってしまった。到着したのはキックオフ二十分ほど前。甲府側の席はほぼ満員。やっと空席を見つけて座ることができた。
 スクエアな形が基本だが囲まれ感がある。LED照明のせいか、芝生の緑もあざやかで眩しい。サッカー専用のためピッチが違く、スタンドの傾斜も適度で見やすい。評判通り、いやそれ以上に素晴らしい。華やかさではなく、機能的な美を追究している。

甲府アウェイ側から見たホーム側

 しばらくして前方を見ると、会場のLED照明が消されて、無数の青い光が視界に浮上する。サポーターがLEDブレスレットやサイリウムを点灯している。ガンバ大阪のナイトゲームで評判となっている演出だ。黒色の闇の中に青色の光。青と黒はガンバのテーマカラーでもある。

 声や音もクリアに響き渡る。ガンバのゴール裏のコールがかなりの音圧で会場に広がっていく。ゴール裏側のスタンドの上中下層の三層が一体となり、全体が大きな面となって、スピーカーの反響板のようなっている。設計段階から音響効果を綿密に計算しているのだろう。スポンサー企業のパナソニックの技術が入っているのかもしれない。

 コールの声に合わせて青い光が綺麗にゆれる。スタジアムが幻想的で非日常的な場となり、サッカー場というよりロック・コンサートの会場にいるような気分になる。アウェイサポを含めて一体感が醸し出され、これから始まるゲームへの期待感が高まる。この雰囲気を含めて国内最高のスタジアムであることは間違いない。
                   

 午後7時キックオフ。開始5分で甲府が先制。甲府のサポーターが歓喜に包まれる。だがすぐに失点。前半はほぼ互角の闘い。後半に入るとガンバの猛攻に遭う。80分までは持ちこたえたのだが、ミスがらみで失点。結局1:2で敗れた。J1残留のために引き分けの勝ち点1でも持ち帰りたかったのだが、叶わなかった。ガンバ大阪はやはり強い。

 サポーターの歌やコール、その存在は古代ギリシア劇の合唱隊「コロス」(コーラス)に擬えられることがある。東本貢司氏は「劇場としてのスタジアム思想」というエッセイで次のように述べている。(『イングランド―母なる国のフットボール』日本放送出版協会 2002/04 所収)

イングランドのスタジアムは《劇場》そのものと言えるかもしれない。それも、舞台(ピッチ)に上がった俳優(プレーヤー)の演技(プレー)を観客が観て感動し拍手を贈るといった彼我の関係ではなく、観客そのものもプロットの中で重要な脇役を担う、スタジアムの中のすべての人々が一体となった”フットボール劇”が演じられる劇場である。ミクロな比喩に喩えれば、古代ギリシャ悲劇のメインキャストとコーラスの関係のようなものだ。
       
 この日の吹田サッカースタジアムはまさしく「劇場」そのものであった。甲府サポーターも千人はいた。関西在住のサポーターや山梨出身者も駆けつけていたそうだ。応援のために大きな声を張り上げていた。ガンバ大阪のサポーターも甲府のサポーターも共に劇場の合唱隊「コーラス」として、「フットボール劇」の一員となっていた。

 山梨では今、ヴァンフォーレ甲府の新しいスタジアム建設の動きがある。まだ検討段階だが、実現の道を歩み始めることを願っている。吹田スタジアムの建設費は140億円。3万2千席の規模の割にはかなりのローコストであり、練りに練った設計を試みたようだ。また、費用のすべてが法人や個人の寄付で賄われたそうだ。吹田スタジアムの建築のありかたはこれからのモデルとなる。

 甲府の新スタジアムは2万席の規模で、リニア新幹線の新甲府駅近くが候補地だと言われている。財政を圧迫しないためにも、建築費・維持管理費を含めて可能な限りローコストなスタジアムを目指してもらいたい。吹田のように寄付を募ることも必要だ。質素でありながらも、山梨という場にふさわしいデザインを工夫する。一サポーターとしての長年の夢である。

付記
 今回は妻と母(現役甲府サポである)と一緒に出かけた。母は足にやや痛みがあり杖を突いていったのだが、会場のボランティアの方がわざわざこちらまで駆け寄り、エレベーターまで案内していただいた。3階まで上がると、エレベーター近くに車椅子席があった。コンコース沿いのかなり広いエリアであり、ピッチも見やすそうだ。バリアフリーが徹底されている点でもこの設計は優れている。
 係員に案内されて、私たちはビジター自由席に向かった。ホームアウェイに関係なく親切でホスピタリティが高かったことを記しておきたい。ありがとうございました。

2016年9月6日火曜日

歌詞のイメージ、声の響き[志村正彦LN139]

 前回、anderlust越野アンナの声を「わずかばかりだが夾雑物が混じっているような感触の声」「硬い金属的な感触」と形容した。そのことに関連する本人のインタビューをネットで見つけた。 【インタビュー】anderlust、「いつかの自分」にこめた2つの意味と、カバーにこめた“自らの色”(取材・文◎村上孝之)である。                     

  越野は『若者のすべて』カバーについて「自分の声をお寺とかにある鐘に見立てて歌った」と注目すべき発言をしている。「声の響き」に重点を置き、Bメロを「ビブラートを掛けずに、体内に響かせるように」したとも述べている。なぜそう歌ったのかという問いに対してこう答えている。

越野:歌詞に引っ張られて、そういう歌い方をしようと思ったんです。Bメロに出てくる“夕方5時のチャイムが”という文節もそうですけど、全体的に幻想とか、フラッシュバックを思わせるような歌詞だなと思って。そこで、なぜかお寺の鐘とか、ハンドベルといったイメージが浮かんできたんです。

 「硬い金属的な感触」と感じた「声」はどうやら意図的に作り上げたもののようだ。僕には「お寺の鐘」や「ハンドベル」のようには聞こえなかった。少し硬質で独特の共鳴が含まれる声であったが、綺麗に響く声でもあった。そのように発声した意図がそもそも『若者のすべて』の歌詞にあるというのが面白い。「全体的に幻想とか、フラッシュバックを思わせるような歌詞」という指摘は肯けるが、「夕方5時のチャイム」が「鐘」の響きであるかどうかは歌い手の解釈の自由の領域にある。志村正彦自身が想い描いた「夕方5時のチャイム」はもっとやわらかい響きの音のような気がするが、これも聴き手一人ひとりの自由に属する。
 それにしても、越野アンナの話、歌詞のイメージからカバー曲の「声」の響きを構築したという試みはとても興味深い。

 アニメ「バッテリー」ティザーPV3という映像がyoutubeの公式チャンネルにあり、30秒を過ぎたあたりから、anderlust「若者のすべて」が流される。歌詞の第1ブロック「夕方5時のチャイムが」から「まぶた閉じて浮かべているよ」までの部分だ。


 CDと同じ音源なのだろうが、どこか印象が異なる。ティザー映像ということもあり、細かい部分で調整されているのだろうか。声の響きの特徴があまり出ていないようだが、この方が映像のBGMとしては聞きやすいかもしれない。

  アニメ『バッテリー』(フジテレビ"ノイタミナ")そのものは、先日放送された第8回を見ることができた。エンディングでは、「真夏のピークが去った」から「まぶた閉じて浮かべているよ」までの第1ブロックのすべてが使われていた。1分30秒程の時間だ。途中で、「作詞 志村正彦/作曲 志村正彦/編曲 小林武史」というクレジットが映し出される。

 アニメのエンディングは次回のオープニングにつながっていく。
 anderlust『若者のすべて』は、「夏の終わり」というよりも、「夏の終わり」を遙か彼方に予感しながら「夏の始まり」を歌っているように聞こえてくる。

2016年8月31日水曜日

anderlust『若者のすべて』 [志村正彦LN138]

 8月31日は夏の終わりの日なのだろう。翌日9月1日は一日しか違わないが、秋の始まりの日という気がする。まだ暑い日々は続くが、不思議なほどに、暦は季節を区切ってしまう。

 今朝、定点観測している桜の樹を見た。緑色の葉の中にすでに黄色の葉がかなり混じっている。朝日の逆光をあびて、緑と黄の織り交ぜられた色が輝いていた。台風が去って日差しは眩しいものの風は涼しく心地よかった。午後になると、雲間から富士山が現れてきた。26日、吉田の火祭りがあり、富士も山じまいを迎えた。秋に向けてその姿も変容しつつあるのだろう。

 夏の終わりというと、やはりフジファブリック『若者のすべて』だ。このところtwitterで、ラジオやテレビ、花火大会のBGMで流されているという報告が多い。すっかり夏の定番ソングとなったようだ。この歌が愛されているのはファンとして素直にうれしい。

 少し前になるが、フジファブリックの最新情報として、「フジテレビ"ノイタミナ"アニメ『バッテリー』新エンディング・テーマとしanderlustが『若者のすべて』をカバーしています。この曲は、anderlustの2nd Single『いつかの自分』の期間限定生産盤、通常盤に収録されます。」というメールが来た。

 anderlustは全く知らないし、アニメのことも詳しくない。でも『若者のすべて』のカバーであれば聴かないわけにはいかない。ネットで調べると、通常盤、期間限定生産盤、初回生産限定盤などのいくつかの盤がある。迷ったが結局、『いつかの自分(期間生産限定アニメ盤)(DVD付)』を購入した。「バッテリーノンクレジットエンディング映像2 (若者のすべて【6話ver.】)」のDVDが付いていたからだ。 

 anderlustは、越野アンナと西塚真吾による男女2人組のユニット。名は「抑えきれない旅への衝動」を意味する“Wanderlust”という言葉から、Wを抜いた造語とのこと。「lust」というのは強い欲望や欲動を意味する。大胆な名前だ。プロデューサーは小林武史。かなり力を入れて売り出している大型新人のようだ。

 パッケージはアニメの1シーンから取ったものだろうか、表も裏も野球をモチーフとしている。微笑ましい絵だ。インナースリーブの『若者のすべて』の欄には「LYRICS:MASAHIKO SHIMURA  COMPOSE:MASAHIKO SHIMURA」とある。志村正彦のローマ字表記のクレジットは珍しい。
 続いて「ARRANGE&KEYBOARDS:TAKESHI KOBAYASHI」、GUITAR、DRUMの担当の名が記されている。VOCAL:越野とBASS:西塚と合わせて五人編成による録音のようだ。

  CD音源をまず聞いてみる。小林武史によるイントロのキーボードのアレンジが、予兆を感じさせるように美しく響く。越野アンナの声は綺麗に高い音域まで伸びていく。しかし、透明な感じではなく、わずかばかりだが夾雑物が混じっているような感触の声だ。硬い金属的な感触とでも形容できるだろうか。否定的な意味合いではなく、ある種の味わいにもなっている。西塚真吾のベースもよく動き回る。

 年齢の若いアーティストらしく、anderlustの『若者のすべて』は、彩りが鮮やかで力強い。「若者の現在」という感覚のサウンドデザインだ。この曲の数あるカバーの中でも最も現代的なポップソングになっている。

   (この項続く)

2016年8月28日日曜日

ペソアの言葉―『虹』2 [志村正彦LN137]

 前回、志村正彦はおそらく実際に見たこと、感じたことを言葉にしていると書いた。「虹が空で曲がってる」は、現実であり実感である「実」の風景であろう。

 五月から七月にかけて、ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアを巡る旅のエッセイを十回にわたり書いた。志村正彦のことも念頭にあったからだ。
 ここで詩人の在り方についてのペソアの言葉を引用したい。彼が遺したテクストの中でも最も有名なもので、ペソアに関するwebやbotでもよく引用されている。

一流の詩人は自分が実際に感じることを言い、二流の詩人は自分が感じようと思ったことを言い、三流の詩人は自分が感じねばならぬと思い込んでいることを言う。
 
(『偶然任せのノート』「南東」誌 1935年11月、訳・澤田直、『ペソア詩集』思潮社2008年8月)

  「一流」「二流」「三流」という区分はともかくとして、詩人の感性とその表現に関するこれほど的確で辛辣な表現を他に知らない。「実際に感じること」ではなく「感じようと思ったこと」「感じねばならぬと思い込んでいること」を表現したものは、詩ではなく詩のようなものであるにすぎない。感じることがそのものではなく、それに対する願望や義務などの計らいと化してはならない。続く箇所にはこうある。

多くのひとはただ習慣に従って物事を感じるのであり、それは人間的誠実さという点からすれば全くもって誠実だ。しかし、彼らはいかなる度合においても知的誠実さをもって感じてはいない。ところが詩人において重要なのはこの知的誠実さなのだ。  (同上)

 人間的な誠実さと知的な誠実さ。習慣化した見方は人間的には誠実であっても、詩人としては誠実ではない。詩人の知的誠実とは「自分が実際に感じること」を表現することにある。
 このペソアの主張と接続させてみたい志村正彦の発言がある。『音楽とことば ~あの人はどうやって歌詞を書いているのか~』(企画編集・江森丈晃、ブルース・インターアクションズ2009年3月)で彼はこう述べている。

歌詞というのは、どんなものでも、何を書いてもいいものではあるんだけど、実は、なんでもよくはない。そこにリアルなもの、本当の気持ちが込められていなければ、誰の気持ちにも響いてくれないと思うんです。

 「リアルなもの」「本当の気持ち」が歌詞に込められていなければ誰にも響かないという志村の言葉は、ペソアの「実際に感じること」に通底する。詩や歌詞を読んだり聴いたりしていて、そこで表現されている核心に「実」が感じられないことがある。作り物めいた感じ、借り物めいた感じと言えばいいだろうか。詩や歌詞を「作る」ことに性急で、志村の言う「リアルなもの」が伴っていない。詩人の「実」がない。文字通り、不実だ。そのような虚ろな歌が日本語ロックの世界にも多い。

 志村の場合、作り物めいた不自然さを感じることはない。彼の言う通り、「リアルなもの」が彼の詩の核心にある。もちろん彼の表現が実際に感じたことに基づいているのかがどうかは確かめようもないが、言葉と言葉とのつながり方がとても自然であり、時には突飛なほどの飛躍や不自然とも感じられるような転換があるが、それを含めて、深い現実感がある。言葉の現れ方がリアルであり、言葉の配列にある種の動かしがたい必然性がある。

 『虹』の冒頭「週末 雨上がって 虹が空で曲がってる」も、第二連の「週末 雨上がって 街が生まれ変わってく」も、詩人が実際に見たこと、リアルな風景を描いている。「リアルなもの」が彼の歌の源泉にある。彼の歌を「詩」に限りなく近づけている。

2016年8月16日火曜日

「虹が空で曲がってる」ー『虹』1 [志村正彦LN136]

 甲府は盆地なので熱気が籠る。時には日本一暑いという記録の出る土地だ。ただし、山に囲まれた土地なので、夜になり風が吹くと気温が下がる。いい具合に夕立があると涼むこともできる。このところ、日中はまだ猛暑だが、朝晩は過ごしやすくなってきた。8月の後半に入り、真夏のピークが過ぎつつあることを実感する。

 夏の野外の所謂「フェス」に行く年齢ではもうないので、この時期は、ROCK IN JAPAN FESTIVAL(RIJF)などwowowで放送される番組を家でぼんやりと見るのが恒例行事だったが、今年は生放送がなくなった。生放送とはいっても、何会場もあるライブをそのまま中継できるわけもなく、制作側が選んだものをただ受け身で見るだけだったが。アーティストによっては後に25分程度の総集編が放送される。フジファブリックもここ数年放送されている。夏の野外という場に特有の雰囲気、バンドとその聴衆との関係の様子が伝わってくる。

 三年ほど前になるだろうか、金澤、加藤、山内の三氏が夏のRIJFと年末のCDJの映像を振り返る『フジファブリック フェス・ヒストリー・スペシャル』という番組が放送された。2005年の初登場の時に最初に演奏されたのは『虹』だった。(加藤氏の「虹事件」、ベースのチューニングが狂っていたが誰も気づかなかったという話もあった)記録を見るとそれ以来、RIJFには2010年と2015年を除いてずっと出演し、今年で通算10回となった。13日のステージは『虹』の後『若者の全て』で締めくくられたそうだ。
 『虹』はフジファブリックの夏のフェスの代表曲となっている。歌詞の内容からしても、野外の空の下が似合う歌だ。 公式の映像を添付させていただく。



 
  週末 雨上がって 虹が空で曲がってる
  グライダー乗って 飛んでみたいと考えている
  調子に乗ってなんか 口笛を吹いたりしている

            (『虹』 作詞作曲・志村正彦)


 「週末 雨上がって」 雨上がりの風景に「虹」が登場する。週末に何かを期待する、その期待の地平のようなものに、虹が現れる。
 「虹が空で曲がってる」条件が整えば、虹が空の中で大きく綺麗に半円を描くのが見えるようだが、なかなかそうはいかない。虹はすぐに消えてしまう。雲の合間に現れることも多い。くっきりとは見えないこともある。ふつうはその一部分、区切られたゆるやかな弧を描く虹が見えることの方が多いだろう。だから 、「虹が空で曲がってる」という歌詞を初めて聴いたとき、「曲がってる」という言葉に新鮮な驚きを感じた。虹が主語となり曲がるという述語で受けるその表現にも感心した。

 志村正彦はなぜ「虹が空で曲がってる」と描いたのか。
 現実にそのような景色を見たからだというのが、当たり前ではあるが、最も根拠のある答えだろう。しかし、虹が曲がる風景を見たとしても、それをそのまま言葉にするかどうかは、まさしくその表現者による。私たちは慣習化した言い回しを使いがちだ。何かを見出したとしても、その次の瞬間には、そのありのままの風景を忘れ、慣れきった言葉の世界に安住してしまう。

 志村はおそらく実際に見たことを描いている。実際に感じたことを述べている。「虹が空で曲がってる」は「実」の風景なのだ。「実」はありのままの世界であり、ありのままの感覚を生きることだ。優れた詩人は「実」を描く。言葉に変換する。その表現がありきたりな表現を越えていく。

2016年8月7日日曜日

「黙って見ている落ちてく スーベニア」-『星降る夜になったら』2[志村正彦LN135]

 『星降る夜になったら』の冒頭、「真夏の午後」の「うたれた通り雨」から「柔らかな日がさして」「雷鳴は遠くへ 何かが変わって」という展開は、例えば、『陽炎』の「やんでた雨に気付いて 慌てて家を飛び出して」、『虹』の「週末 雨上がって 虹が空で曲がってる こんな日にはちょっと 遠くまで行きたくなる」を思い出させる。

 志村正彦は、雨が上がり、風景が変わっていく出来事を繰り返し作品にした。そして、『陽炎』の「家を飛び出して」、『虹』の「遠くまで行きたくなる」ように、『星降る夜になったら』でも、雨上がりの空が「星降る夜」に移り変わると、「街を出る」と歌う。

 星降る夜になったら
 バスに飛び乗って迎えにいくとするよ
 いくつもの空くぐって
 振り向かずに街を出るよ

  「バスに飛び乗って迎えにいくとするよ」の「とするよ」は微妙な言葉使いだ。「星降る夜になったら」とあり、「夜」の到来を仮定しているからには、歌の主体「僕」はまだ「真夏の午後」にいる。「迎えにいく」ことも「街を出る」ことも、「僕」の願望のままに止まっている。しかし、後半になると次のように歌われている。

 星降る夜を見ている
 覚めた夢の続きに期待をしてる
 輝く夜空の下で
 言葉の先を待っている

 夜が訪れた。歌の主体「僕」が「星降る夜を見ている」場面だ。この時、「星降る夜」を、一人で見ているのだろうか、それとも「迎えにいく」とされた誰かと共に見ているのだろうか。一人か二人かで、この歌の世界は変容する。
 根拠はないのだが、この場面にいるのは「僕」ただ一人のような気がする。そうであるのなら、「覚めた夢の続き」への期待は期待のままであり、「言葉の先を待っている」は、「言葉の先」が何かは分からないままただ待ち続けていることになる。「僕」は「星降る夜」と孤独に対話している。

 黙って見ている落ちてく スーベニア
 フィルムのような 景色がめくれた
 そして気づいたんだ 僕は駆け出したんだ

 続く場面で、世界が転調する。「スーベニア」、思い出の記念品が落ちていく。スローモーションのような動きを「僕」は黙って見ている。すると、記憶の「フィルム」にある「景色」が動画のようにめくれていく。そして「僕」は何かに気づき「駆け出した」。
 「スーベニア」は何かを想起させるもの。原語「souvenir」 はもとはフランス語で、意識の上に何かが到来する、という意味だ。その原義からすると、きわめて志村正彦的な物でありモチーフであろう。特別な記念品や記念写真でなくても、なにげない景色、花、雨、空、雲、月。風景がめくれるように動き始めると、「僕」も何かに気づいて、たまらなくなって、動き出す。

 今日、久しぶりに、『Live at 富士五湖文化センター』DVDを取り出した。収録された『星降る夜になったら』の演奏を見たかったのだ。インナースリーブをあらためて読むと、開催日2008年5月31日が「雨のち曇り」という記述があった。わざわざ天候を記した配慮に微笑んだ。
 志村の「最後の方に向けて駆け抜けたいと思います」というMCと共に『星降る夜になったら』が始まる。 メンバーの金澤ダイスケ、加藤慎一、山内 総一郎、サポートの城戸紘志。皆、全力で志村を支え、富士吉田という場を愛しみ、とても充実した様子で楽しそうに楽器を奏でている。

 80年代のポップなプログレッシブロックのような明るい曲調は金澤ダイスケによるものだろう。軽快なドライブ感もあり、ファンの間で人気が高いのも頷ける。
 金澤、加藤、山内の三人のコーラスによる「星降る夜になったら」という問いかけに応えるように志村が歌う。志村パートと三人のパートとの対話のように聞こえるのが素晴らしいアレンジとなっている。『星降る夜になったら』が終わるとそのまま『銀河』のイントロが始まる。夏の夜から冬の夜へのバトンタッチだっだ。

 36度に昇る猛暑の日、弱い冷房をかけて窓を閉め切った部屋で、『Live at 富士五湖文化センター』DVDを音量を上げて再生した。はじめは『星降る夜になったら』だけのつもりだったが、結局、全てを通しで見てしまった。音と映像に引きこまれた。『線香花火』『若者のすべて』『星降る夜になったら』『Sufer King』『陽炎』と、夏にゆかりある作品が多い。激しいロックの音が響く。志村正彦は、喉の調子がよくないようで時折苦しげだが、懸命に歌いきっていた。

 このDVDパッケージそのものが「スーベニア」になりつつある。

 2008年のフジファブリックは、志村の言葉の深さ、楽曲の多様性、メンバーの卓越した演奏によって、日本語ロックの歴史の中でも最高のロックバンドだったと言える。だが、そのLIVEは永遠に失われてしまった。

2016年8月1日月曜日

「雷鳴は遠くへ 何かが変わって」-『星降る夜になったら』1[志村正彦LN134]

 今日、八月一日が「水の日」だということを初めて知った。この時期、水の使用量が多く、水について関心が高まるので記念日とされたそうだ。
 昼過ぎから空の雲行きが変わり、ものすごい雨が降ってきた。雷鳴が響く。風も吹き荒れている。水の日に、大量の雨水が甲府盆地に注がれたことになる。

 雨と雷鳴。「夏」が濃厚に迫る。はげしい雨のリズム。空気を切り裂く雷の響き。しばらくの間ぼんやりとしていた。そうこうするうちに、フジファブリック『星降る夜になったら』のイントロが頭の中で再生されはじめた。金澤ダイスケと志村正彦の作る軽快なリズムとメロディに乗って、志村の声が動き出す。

 真夏の午後になって うたれた通り雨
 どうでもよくなって どうでもよくなって
 ホントか嘘かなんて ずぶぬれになってしまえば
 たいしたことじゃないと 照れ笑いをしたんだ

 「どうでもよくなって どうでもよくなって」が、どうにも、よい。
 志村正彦は具体的な出来事を、いつも通り語らない。どういうことがどうでもいいのかはわからない。「ずぶぬれ」と「照れ笑い」の情景が互いを照らしあう。どうでもよくなる瞬間が訪れる。誰にでもそんな「真夏の午後」の記憶がある。そんな気がする。そんな出来事がこれからも起きる。

 西から東へと 雲がドライブして
 柔らかな日がさして 何もかも乾かして
 昨日の夢がなんか 続いているみたいだ
 その先がみたくなって ストーリーを描くんだ

 雷鳴は遠くへ 何かが変わって

  雨上がりの空。雲と日差し。世界が洗われる。そして乾いていく。いつのまにか、雷鳴も遠くへと過ぎ去った。

  志村正彦は「夢」のモチーフを繰り返し歌に表現した。「昨日の夢」が続いているみたいと、この歌の主体は想う。この言葉は、『若者のすべて』の「途切れた夢の続きをとり戻したくなって」とも呼応する。ただしこの歌では、夢の「先」の「ストーリーを描く」と、前向きに言葉が繰り出される。「とり戻したくなって」と「その先がみたくなって」とでは、動きのベクトルの方向が異なる。『星降る夜になったら』は、先へ先へと、夢の歩みを加速させる。


  真夏の午後の偶景。 「雷鳴」はアンセムのように轟く。アンセムが遠ざかり、静寂に包まれると、確かに、何かが変わる。何が変わるのかというつまらない解釈はやめよう。解釈できない言葉、声と音の連なりがいつまでも残響する。それでも一つだけ言えるのは、歌の主体にとって、「夢」に関わる何かかもしれないということだ。

2016年7月28日木曜日

篠田善之監督

 前回、サッカーのプロフェショナルな監督の厳しさを書いたが、一昨日、FC東京の新監督に篠田善之氏が就任するとの発表があった。

 篠田氏は甲府市出身。現役時代はアビスパ福岡の守備的MFとして活躍した。小瀬のスタジアムで何度も見たが、小柄だがよく動き回るバランサーとして活躍していた。2004年の引退後、福岡のコーチとなり、のちに監督就任。2010年にJ2で3位となり、J1に昇格したが、成績不振のためで2011年のシーズン途中で解任された。

 実を言うと、篠田氏は僕が今務めている高校の出身である。(正確に言えばその前身の高校だが、もう一つの前身高と共に同窓会は一体化されているので「出身者」となる)その縁で、J1に昇格したときに高校を訪問してくれたことがあった。僕はずっと進路指導やキャリア教育の仕事に携わってきたので、卒業生や出身者との関わりがある方だ。その時も、篠田氏とお会いできて、在校生へのメッセージを色紙に書いていただいた。氏は「克己」と書かれた。その色紙は今も進路指導室に飾ってある。

 アビスパ福岡を去った後、FC東京のコーチになったことは知っていたが、今回の城福浩氏解任後に新監督に就任するとは全く予想していなかった。だから驚いたのだが、勤務校の出身者であるので、やはり祝福したい気持ちが強い。
 FC東京はビッグクラブ。福岡や甲府とは違う。サポーターからのプレッシャーも強い。就任しても、成績低迷から脱することができなければすぐに解任されてしまうだろう。プロフェショナルな監督の宿命だ。

 「克己」という言葉を記した篠田善之監督。サッカー監督という仕事はものすごく厳しい。だからこそ、監督としての「己」に打つ勝つことが何よりも大切なことなのだろう。

2016年7月24日日曜日

プロフェッショナルな監督

 昨夜は、残留争いの直接対決となったヴァンフォーレ甲府vs名古屋グランパスをスカパーで観戦。甲府が3:1で勝利、7試合ぶりに勝点3を得た。名古屋の監督小倉隆史が終了後しばらく沈み切った表情でベンチに座っていた。その姿がやるせなかった。
 彼は2003年から2005年まで在籍、苦しかった時代の甲府の中心選手だった。自分が在籍し、引退したチームと監督として残留をかけて闘う。皮肉で過酷なめぐりあわせだった。

 今日、FC東京の城福浩監督が解任された。成績低迷が理由だ。彼も甲府の元監督だった。城福は2012年から2014年まで甲府の監督としてJ2優勝、J1昇格そして2シーズン残留という見事な成果を上げた。甲府を取り巻く状況に限界を感じたのか(このことはよく理解できるが)、一昨年退任し、今年から古巣の監督に戻った。だから、この解任も皮肉な過酷な結果となった。

 「監督には二通りしかない。クビになった監督と、これからクビになる監督だ」(ハワード・ウィルキンソン)という名言がある。ユーモアにくるめらているが、現実的なあまりに現実的な、むきだしの言葉だ。
 サッカーの監督は厳しい。プロスポーツという勝負の世界だからこそ、仕方がないのかもしれない、容認されるのかもしれない、だが、それでも、厳しすぎる。「プロフェッショナル」としての厳格さがこれほど求められることは他のスポーツにはない。

 甲府の佐久間悟監督もこのところ、追い込まれている表情を見せている。昨夜の勝利で一息つけるといいのだが。状況は変わらないので、つかの間の一息にすぎないのだろうが。今回の補強は成功し、怪我人も戻ってきた。状況が本当の意味で好転してほしい。

 虹の話題が何回か続いた。自然な流れとして、フジファブリック『虹』をよく聴いている。

 週末 雨上がって 虹が空で曲がってる
 グライダー乗って 飛んでみたいと考えている  (作詞作曲・志村正彦)


 「週末 雨上がって」という繰り返しが耳にこびりつく。Jリーグのかなりの試合は「週末」に開催される。勝敗の結果によって、週末雨上がるか、それとも、雨が続くのかが決まる。サポーターにとって、週末のリズムやメロディが変わる。
 昨夜のヴァンフォーレ甲府は、雨が上がり、ほんのわずかの間だけかもしれないが、小さな虹が見えたような気もする。「グライダー乗って 飛んでみたい」気分にもなる。楽観はしない。でも、何かを期待してしまう。

 城福監督に贈る言葉としては今はこれしか浮かばない。analogfishが歌っている。

 No Rain No Rainbow

2016年7月17日日曜日

VF甲府vs鹿島

 今夜は、ヴァンフォーレ甲府vs鹿島アントラーズの応援に行った。甲府は4連敗、1引き分けと厳しい状況。現在はJ2降格圏に落ちてしまっている。
 最近は仕事が忙しく、土日もその準備に追われているが、こういう時こそ応援だと、小瀬のスタジアムに出かけた。
 

 前半3分に甲府が得点。すぐに失点。シーソーゲームになった。鹿島の個々の選手の技術は甲府よりもかなり高い。注目の柴崎岳(志村正彦に似ているという声があるそうだ)は首をよく振り周りをよく見て、攻撃の起点となっていた。

 6時を過ぎた頃だったろうか。スタジアムが茜色の夕日に染まった。夏はこういう風景を見ることができる。鹿島のサポーターが大勢来てくれたこともあって、入場者は1万4千人、満員に近い感じだった。成績が低迷している今季にしては熱気があった。ハーフタイムに花火の打ち上げもあった。まだ日が暮れきっていないので、花火の光が闇の中で輝くというわけにはいかなかったが。もう十数年にわたり、このスタジアムで見る花火が夏の風物詩となっている。
 茜色の空、打ち上げ花火、シーソーゲームと、良い雰囲気に包まれた。

 結果は3対3の引き分け。3点取っても3点失ってしまう。これが現実だ。帰宅後、スカパーで佐久間悟監督(GMとの兼任)のインタビューを見た。最終ラインを6人で守る約束だったそうだが、DF6人でも守り切れないと思う。数ではなく中盤を含めた組織の問題。「守備のための守備」という意識が強すぎる。「攻撃のための守備」でなければ守りきれない。守備と攻撃は当然連動しているが、その連動がいつまでたっても組織できていないのが今年のチームだ。

 新加入のドゥドゥ(フィゲイレンセFC・ブラジルから完全移籍)。1トップでのプレーだったが、相手選手と競り合えていて好印象。甲府の3点目は彼のゴール。柏に移籍してしまったクリスティアーノよりシュートは正確だろう。甲府の予算で獲得できる外国籍選手の中ではかなり上質のフォワードだ。

 専用スタジアムの構想が動き出しつつある今年、なんとしてでもJ1に残留したい。非常に厳しい道ではあるが、今日の勝ち点1を肯定的に捉えて、監督、選手、スタッフは前を向いてほしい。チーム解散危機の頃からのサポーターの多くは、どんな状況でも、前を向く心構えができている。

2016年7月15日金曜日

虹の祝福 [志村正彦LN133]

 夏のこの時期の恒例となった富士吉田の夕方6時のチャイム『若者のすべて』。

 今年の最終日の昨日14日、虹が出たことをkazz3776氏のtwitter「路地裏ニュース」で知った。その映像がyoutubeで公開されている。とても有り難い。

 夕方、甲府でも激しい夕立があり、そのうち晴れてきたが、同じ頃、綺麗な虹が富士吉田の空で曲がっていた。別の方のtwitterによると、チャイムが終わると共にゆっくりと消えていったそうだ。

 このblogの前々回、『フジファブリック』アナログ盤ジャケットの「虹」に「夏」を感じると記した。前回はクボケンジの言葉やAnalogfishの歌詞に触発されて、「愚痴と虹」と題して書いた。虹の話題が続く中の虹の出現。単なる偶然だが、なんだかうれしかった。
 あのジャケット画の眼差しから広がる虹が、昨日の富士吉田の虹につながっているような不思議な気持ちになった。

 時の歩みがはやくなり、志村正彦の話題も少なくなってきたのかもしれない。だが、そのような表層的な動きとは別の次元で、彼の歌は聴かれ続けている。
 『フジファブリック』アナログ盤のリリースもそうだ。虹のような「贈り物」として僕たちは受けとめている。

 激しい雨が降り、雨が上がる。
 青空が広がり、虹が現れる。

 No Rain No Rainbow。

 彼の三十六回目の誕生日の近く、故郷では、
 虹がレコード盤の誕生を祝福している。

2016年7月13日水曜日

愚痴と虹-クボケンジのtweet、Analogfish『No Rain (No Rainbow)』

 志村正彦の誕生日7月10日。twitterでは沢山の呟きがあふれていた。なかでもひときわRTされていたのがクボケンシのtweetだった。

  メレンゲ(クボケンジ) ‏@kubokenji   7月10日 

 志村、誕生日おめでとう。36才だな?
 何もかもを失ったと思って唄った
 そんな歌にも続きはあったよ
 ただね、一緒に年を取りたかったね
 生きてたら何十年も後に、
 ようやく見つけた煙草が吸える喫茶店で年よりかは若く見える白髪姿の君は向か      い側の僕にやっぱり愚痴を言ってるはずだったんだ

 何十年も後、「煙草が吸える喫茶店」で、すっかりお爺さんになった「僕」クボケンジと「君」志村正彦は向かい合って座る。「白髪姿」の「君」は「僕」に「愚痴」を言っている。
 
  「愚痴」ってなんだろう?分かっているようで分からない。辞書を引くと、「言ってもしかたのないことを言って嘆くこと」とある。なるほど。過不足のない、簡潔で明確な定義だ。「愚痴」は要するに「嘆き」の言葉。それは「僕」と「君」との間で共有される。というか、「僕」と「君」との間でしか共有されない。二人の間で「嘆き」が共有されることが暗黙の前提となり、「言ってもしかたのないこと」を言うことができる。
 「君」の「愚痴」は嘆きの言葉。そうなる「はずだった」という「僕」の呟きもまた「嘆き」の言葉となる。
 それでも、その光景は幸せなものにちがいない。

 その光景からある歌のことを思い出した。Analogfish『No Rain (No Rainbow)』(作詞:下岡晃 作曲:Analogfish)。最近公開されたミュージックビデオ(Director : 笹原清明)も比類ないほどすばらしい。


 歌の主体の「僕」はこう語る。

 寄った居酒屋は値段の割に酷いもんで
 それを愚痴る僕に君は思い出したように
 「ただ好きなだけでこれはサービスではないの
 ただ美しいだけで虹は雨の対価ではないでしょ」

  「でも…」 she says
 “No Rain No Rainbow”

 一組の男女の対話劇が繰り広げられる。
 この時代に、値段の割に酷い「居酒屋」で、「僕」と「君」は向かい合って座る。「愚痴る僕」に向かって、「君」は「ただ美しいだけで虹は雨の対価ではないでしょ」と諭す。日常の断片の嘆きと諭し。
 それでも、その光景は幸せなものにちがいない。

 “No Rain No Rainbow”。雨がなければ虹が現れることはない。でも、虹は雨の対価ではない。虹は、ただ美しいだけ、そういうあり方で出現する。この歌では「代償」「支払う」「サービス」「対価」という言い回しが反復される。何かと何かの価値が交換される世界。資本の世界と言い換えてもいいだろう。この世界の中で、虹は何物とも交換されない。虹が虹として存在するのは、虹が私たちへの純粋な贈与であるからだ。かけがえのない贈り物だからだ。そのことを伝える「君」「she」の言葉もまた美しい贈与のように響く。

 クボケンジのtweet、下岡晃(Analogfish)のlyric。
 「愚痴」を言う「僕」たち、男たち。
 それでも、虹は現れる。
 そう祈る。

 No Rain No Rainbow。

2016年7月10日日曜日

夏の初めに[志村正彦LN132]

 今日、7月10日は志村正彦の誕生日。存命であれば三十六歳を迎えた。三十代後半になると「若者」という在り方から離れていくことが加速する。

 二年前はこの時期に、甲府で『ロックの詩人 志村正彦展』を開催した。(今年は、今年もと書くべきでしょうが、僕たちによる企画はありません)
 現在はこのblogを書き続けることが活動の中心だ。最近、すこしだけレイアウトを変更した。これまで「偶景」「詞論」というラベルがあったが、細かい区分をしてもあまり意味がないのでそれを止めて、ラベルやインデックスの構成も変えてみた。それに伴い、ラベル名の通番の削除や表現の修正を施した記事がある。内容については変更していない。

 十回にわたり、フェルナンド・ペソアの足跡を訪ねる小さな旅について書いてきた。昨年の夏からあたためてきた原稿だが、春と夏の間のこの時期を見計らって掲載した。志村正彦の歌には季節感があるので、春、夏、秋、冬の季節の盛りの時には書くことが多くなる。だから、彼のこと以外の記事で複数回にわたるものを載せるには季節の狭間の時期がよい。

 誕生日ということで、連載でも引用したペソアの異名、アルベルト・カエイロの詩の一節をふたたび紹介したい。

    私が死んでから 伝記を書くひとがいても
  これほど簡単なことはない
  ふたつの日付があるだけ──生まれた日と死んだ日
  ふたつに挟まれた日々や出来事はすべて私のものだ

 この「志村正彦LN」は彼についての「伝記」を書いているわけではないが、作品を読むことを通じて、結果として「伝記のようなもの」に近づくこともある。だから、ペソア=カエイロの言う「簡単なこと」を忘れてはならないだろう。戒めにもなる。
 生と死の日付に「挟まれた日々や出来事」は確かに、すべて詩人のものだ。その二つの日付が「伝記」のすべてだという考え方もあるだろう。ただし、詩人は詩という作品を通じて、彼の「日々や出来事」を他者である読み手に与える。彼の人生を分割し分与する。

 昨日は大雨が続き、夜は久しぶりに涼しかった。一夜明けて、雲は残るものの夏全開のような7月10日だ。梅雨はまだ開けていないが、夏が全力で駆け始めている。
 夏の初めに生まれた志村正彦は、真夏、そして夏の終わりの季節を繰り返し歌った。夏の始まりから終わりにかけてが、あたかも彼の季節であるかのように。

 真夏の午後になって うたれた通り雨 どうでもよくなって どうでもよくなって   (『星降る夜になったら』)

 そのうち陽が照りつけて 遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる   (『陽炎』)

 真夏のピークが去った 天気予報士がテレビで言ってた (『若者のすべて』)

 悲しくったってさ 悲しくったってさ 夏は簡単には終わらないのさ   (『線香花火』)

 短い夏が終わったのに 今 子供のころのさびしさが無い (『茜色の夕日』)

 誕生の季節がどのような影響を詩人に与えるのかは分からない。全く関係のないこともあり、偶然もあるのだろう。志村の場合、詩人が夏を意識していたというよりも、夏が詩人をつかんで離さなかった。漠然とだがそんな気がする。
 夏という季節は、太陽の強い光とその影が、あらゆる感情を曝け出し、逆に押さえつけ、隠す。数々の夏の歌。「どうでもよくなって どうでもよくなって」「悲しくったってさ 悲しくったってさ」「子供のころのさびしさが無い」。感情が陽炎のように揺れている。

 一週間ほど前、アルバム『フジファブリック』のアナログ盤レコードが届いた。新しい媒体による音源なので、志村正彦・フジファブリックの「新譜」だ。開けるのがもったいない気がして、まだ封を切っていない。部屋に『ロックの詩人 志村正彦展』のポスターを張ってあるのだが、その近くにレコードを置いて、ジャケットを眺めている。学生時代、このようにしてレコードを飾っていたことを思い出す。昔、LPレコードは高価だった。大切な贈り物のように受けとめていた。

 30センチ四方の大きなジャケットの絵の印象はCD盤とはずいぶん異なる。オリジナルのCD盤のart direction は柴宮夏希と志村正彦。二人のアイディアがレコード盤になってようやく具現化されたのかもしれない。


 眼差しの虹。七つの色が広がる。
 フジファブリックの五人、志村正彦・金澤ダイスケ・加藤慎一・山内総一郎・足立房文の顔が陽炎のように揺れている。モノトーンの白と黒、光の質感によって、氷柱に刻まれているメンバーの顔が夏の熱で溶け始めているようにも見える。
 
   「夏」を強く感じる。

2016年7月6日水曜日

ペソアの偶景[ペソア 10]

 カフェ「A Brasileira」の角を曲がり、ゆるやかな坂を上っていく。ロシオ駅を目指して右折すると下り坂が始まる。その途中で偶々、妻がフェルナンド・ペソアのシルエットが窓に描かれた建物を見つけた。垂れ幕を見ると、彼が借りていた部屋のようだ。(調べると、1908年から数年の間住んでいたらしい)
 思いがけない場所にペソアゆかりの建物がある。


 この建物は小さな広場に面している。大きな樹の木陰が広がり、オープンカフェもあり、人々が涼を求めていた。(ここが「カルモ広場」ということは後で知った。近くにカルモ修道院と教会もある)


 『不安の書』111章にはこう書かれてある。1932年5月31日の日付けがある断章だ。この広場のことではないのだろうが、街中の小さな広場に対する話者ソアレスの眼差しが伝わってくる。

 わたしが春の訪れを感じるのは、広々とした野や大きな庭にいるときではない。都市の小さな広場の貧弱な数少ない樹々にそれを感じる。そこでは緑が贈り物のように際立ち、馴染んだ悲しみのように陽気だ。
 往来の少ない街路に挟まれ、それよりも往来の少ない、そのような寂しい広場をこよなく愛する。遠くの喧騒のなかにじっと佇む、無用の空き地なのだ。都市のなかの村という趣だ。

 「無用の空き地」への情愛、「都市のなかの村」の情趣。その世界に浸り込みながら、話者はこう考える。

 すべては無用で、わたしはその無用さに打たれる。わたしの生きたことは、まるでぼんやりと耳にしたことのように忘れてしまった。わたしがこれから変わってゆくことはすべて、すでに体験して忘れてしまったことのように何も呼び起こさないのだ。
 淡い悲しみを感じさせる日暮れがわたしのまわりをぼんやりと漂う。何もかも寒くなるが、空気が冷えたからではなく、わたしが狭い街路に入り、広場が終わったからだ。


 これまで 「わたしの生きたこと」を忘れ、「これから変わってゆくこと」も「すでに体験して忘れてしまったこと」のように忘れていく。「わたし」の生は、過去、現在、未来と続いていくが、過ぎ去ればつねに忘却していく。さらに言うのなら、すでに忘却していくことの反復にすぎない。時はつねにすでに「何も呼び起こさない」。
 ソアレス=ペソアの表現をたどりきれているか心もとないが、この特異な思考は記憶されるべきだろう。その思考が「淡い悲しみを感じさせる日暮れ」の風景とともにもたらされたことも。

 再び歩き始める。広場に面した店の一つが楽器店で、ポルトガルのギターが飾られていた。「ギターラ」と呼ばれる12弦のギターはファドの音色には欠かせない。

 

 広場を後にして、ロシオ駅の方に下っていく。急勾配の坂で歩きにくい。途中にあった小さな書店でもペソアの写真が貼られていた。街を歩き、ふっとそれ風のものを見つけると、ペソアだったということが多い。


 ロシオ駅に着くと午後7時近くになっていた。もう一度コメルシオ広場あたりまで戻り、ペソアゆかりのレストランかファドを聴ける店を訪れたかったのだが、かなり疲れてしまった。翌日は早朝出発で帰国便に乗らねばならない。結局、その計画はあきらめた。
 駅の入り口近くは見晴らしのいい場所だ。ロシオ広場の周辺の街を見渡せる。向こう側にはサン・ジョルジェ城がそびえる。
 夜が近づいているのに、空はまだ透き通るように青く、街は美しい。


 フェルナンド・ペソアゆかりの場所を巡る小さな旅の一日だった。
 最初は、ツアーバスでホテルから西の郊外ベレン地区を訪れ、アルファマを経てロシオ広場へ。二度目は、ロシオの隣のフィゲイラ広場からタクシーに乗り、市街地の西のはずれにあるオウリケ地区へ。路面電車28番線を使いフィゲイラ広場近くに戻った。最後は、フィゲイラ広場からバイシャ地区、シアード地区を歩いて回り、ロシオ駅に帰ってきた。中心街から見て、その西側の方面を三回ほど同心円状に巡ったことになる。遠い距離から近い距離へと、色々な交通機関や徒歩によって、リスボン巡りをした。私たちに与えられた時間は一日だけだったが、愉しい充実した時を過ごせた。

 ジェロニモス修道院、ペソアの家・博物館、カフェ「A Brasileira」、カルモ広場近くの部屋。使用したリスボンの交通カードにも彼のイラストが描かれていた。街のいたるところに彼の痕跡があり、異名のような分身が存在していた。フェルナンド・ペソアの「偶景」との遭遇があった。

 ペソアはリスボンを愛していた。今、リスボンはペソアを愛している。

2016年7月3日日曜日

金箔師通りの「砦」[ペソア 9]

 フィゲイラ広場からコメルシオ広場あたりまでの地区は「バイシャ」と呼ばれる。整然とした通りに商店やカフェが並ぶ。下町の綺麗な商業街といった風情だ。
 ペソアがこの界隈を歩く写真が残されている。
 
Wikipedia より

 フィゲイラ広場を後にして、プラタ通りをテージョ川方向に歩いていく。プラタ通りのひとつ東側に金箔師通り(Rua dos Douradores)がある。ポルトガルの銘品「金箔飾り」ゆかりの名だろう。『不安の書』の話者「ベルナルド・ソアレス」が務めている繊維問屋はこの金箔師通りにあるという設定だ。
 17章でソアレスは次のように語る。彼は帳簿係の補佐だった。

 今日、わたしの生活の精神的な本質の大部分を構成している、目的も威厳もない夢想に耽っていて、自分が金箔師通りから、社長のヴァスケスから、主任会計係のモレイラから、従業員全員から、使い走りの若者から、給仕から、猫から永遠に自由になったと想像した。 

 会社勤めからの自由の夢想を書いている。「猫」からも永遠に自由になる想像とはどういうものだろうか。読んでいて微笑んでしまうのだが。
 これに続く部分では、社長や同僚に信頼をよせていることも述べている。孤高の人ソアレスはこの仕事場を自分の「砦」のひとつとして考えていたようだ。

 わたしは、ほかの人たちが自分の家庭へ帰るように、金箔師通りの広い事務所、我が家ではない場所へ帰る。生きることから守ってくれる砦でもあるかのように自分の机に近づく。他人の勘定を記入しているわたしの帳簿や、わたしの使っている古いインクスタンドや、わたしよりも少々奥で送り状を書いているセルシオの曲がった背中を見ると、わたしは優しい気分、目頭が熱くなるほど優しい気分になる。こういうものに愛情を感じるのは、おそらく、わたしには愛すべきものがほかに何もないからであろうし、あるいはまた、おそらく、人が愛する価値のあるものは何もないからなのであろう。

 「帳簿」「インクスタンド」そして「セルシオ」への眼差しには、ソアレスそして作者ペソアの感情の「地」を感じる。「愛すべきものがほかに何もない」と「愛する価値のあるものは何もない」と語っているが、その理屈を額面通りには受けとれない。「優しい気分、目頭が熱くなるほど優しい気分」という「気分」の方がペソアらしい。自己憐憫が投影されたものではなく、日常の細部への繊細な「情」、つましい他者へのそこはかとない「情」が、意外なほどに、彼の散文にはあふれている。

 プラタ通りからサンタ・ジュスタのリフト に向かう角を曲がり、リフトの隣を抜け、カルモ通りを上がっていく。けっこうな坂だ。途中で右折してガレット通りへ。この界隈は「シアード」と呼ばれている高台。人通りも多く活気がある。

 少し歩くとカフェ「A Brasileira」に着く。1905年創業の老舗で、当時の知識人や芸術家が集った店だ。ペソアも常連客だった。店の前の通りにペソアの銅像がある。その近くの席に座り、冷たいものを飲みながら、しばらく時を過ごした。


 
 
 この像はガイドブックにも記載されている。隣には椅子があり、観光客が座ってツーショットの写真を撮ってもらおうと順番待ちをしていた。記念写真の名スポットと化していた。
 大人気のペソアの分身。この像は今、「人が愛する価値のあるもの」になったのだろう。

2016年6月30日木曜日

エレクトリコ28番 [ペソア 8] 

 ペソアの部屋のある2階の中央は吹き抜けになっていて、その壁面にペソアを描いた絵画があった。



 1階に降りる。書籍や記念品を並べた売店があった。ペソア人形のワイン栓などのグッズを買う。これも分身かもしれない。コエーリョ・ダ・ローシャ通りに出る。振り返ると、入口上の垂れ幕の赤、空の青のコントラストが綺麗だ。ここで1時間以上過ごしたが、充実した時間だった。ペソアが晩年を過ごした家がそのまま博物館になっていることが貴重だ。寝室は残し、その他は大胆に改築し、現代的な展示とイベントの場に造りかえた空間デザインも個性的だ。



 遅い昼食を取ることにした。ガイドブックで調べておいたのだが、この通りを西の方へ10分ほど歩くと、カンポ・デ・オウリケ市場がある。1934年に開設された古い市場だが、数年前にフードコートがつくられた。中に入ると、こじんまりとしているが食べもののコーナーが並んでいた。「Casa do Leitão」という店で、焼いた豚肉(レイタオン・アサード)をマデイラ島のパンでサンドイッチしたものを買う。見た目はハンバーガーだが、皮がパリッとしていてとても美味しい。
 店内を回ると、ポルトガル名物バカリャウ(干しダラ)の缶詰屋が目にとまる。色とりどりで可愛いパッケージ。お土産に数個買った。




 カンポ・デ・オウリケ市場を後にする。このあたりは中心街からは西側に離れている郊外の住宅地として人気があるそうだ。市電28番線も通っているので便利な場所なのだろう。

 近くの停車場から、「Elétrico 28」、路面電車のエレクトリコ28番線に乗る。1901年に電化されたそうだが、テクノロジーは当時のままのようだ。振動も多く、建物の壁面間際を走っていく。道路工事の砂がはみ出していたり、車が突っ込んできたりで、はっきり言って怖い。遊園地の乗り物のようなスリルが味わえる。
 夏のバカンス時期なので、私たちを含め観光客が多い。
 


 『不安の書』の主体は路面電車内で「細部」に集中する。101章にこうある。

 わたしは路面電車に乗り、いつもの習慣にしたがって、前にいる人たちをあらゆる細部にわたってゆっくりと気をつけて見ている。わたしにとって、細部とは物、声、言葉だ。
 
 「感受する人」ペソア。物を見て、声を聴き、その言葉を読みとる。彼はその細部からはるか遠くにあるものを想像し、それが増殖していく。

 わたしは眩暈を感じる。丈夫で細い籐で編んだ路面電車の座席はわたしをはるか遠い地方へ運び、工場、職工、職工の家、暮らし、現実、あらゆるものとなったわたしのなかで増殖する。疲れ果て、夢遊病者のようになって下車する。精いっぱい生きたのだ。

 「想像する人」ペソア。車内で「疲れ果て」、「夢遊病者」と化す。百年以上前、この28番線で、詩人は「眩暈」を感じる時間を、ひとつの日常として、過ごしていたのだろうか。

 この路線は人の乗降が多く、途中から座席に座れた。中心街へ入り、アルファマを過ぎる。さらに席が空いたので移動してみると、車窓の風景が変わる。そうこうしているうちに終点に着いた。30分ほどのエレクトリコの旅だった。

 しばらく歩いて、フィゲイラ広場に戻る。この広場の名はペソアの散文にも時々登場する。あの当時は大きな市場があったそうだ。昼前にここからタクシーに乗り、ペソアの家に行き、28番線に乗りここへ戻ってきた。この日の午後、夏の日差しは眩しかった。広場に面した店でアイスクリームを食べる。一息つけた。

2016年6月26日日曜日

ペソアの部屋、トランク[ペソア 7]

 フェルナンド・ペソアの家、博物館。二階の角にペソアの寝室があった。この部屋だけは当時のままらしい。入り口に案内のディスプレー。ポルトガル語と英語で表示されていた。

 中に入る。入り口から見ると手前の左側に、草稿や資料の複製が置かれたチェスト。奥の壁際左寄りにたくさんの草稿が詰められていたトランク。中央やや右寄りにベッド。その横にランプが置かれたサイドテーブル。その右側の壁際にワードローブ。写真には写っていないが、入ってすぐ左側にはペソアの黒のジャケット、シャツ、ネクタイそれに靴も展示されていた。奥の左側には窓があった。通りが望める。



 やはり一番目にとまったのは木製のトランク(収納箱)。キャプションを見ると複製だったが、これが「ペソアのトランク」かと、しばし見入ってしまった。内部には複製の資料がそれらしく積み重ねられていた。当時の様子が想像できる。



 しばらくして、宮澤賢治も沢山の原稿が詰まったトランクを遺していたことを思い出した。賢治は生年1896年-没年1933年。ペソアは生年1888年-没年1935年。賢治の方がやや遅く生まれたが、ほぼ同世代の詩人だと言ってよいだろう。生前はほとんど無名だったが、膨大な原稿が遺され、没後高い評価を受けたという共通点がある。

 ローチェストの上には数点の草稿やタイプ資料の複製が置かれていた。青と赤の色鉛筆、ペン立て、灰皿。ここで書き物をしていたのだろう。












 




 『不安の書』を読んでいくと、117章の冒頭にこういう文がある。

 しばらく―何日間だったのか何カ月間だったのか分からない―何ひとつ印象を記していない。我思わず、ゆえに我あらず。自分が誰なのかを忘れた。存在の仕方を知らないので、書くことができない。斜めに眠ることにより別人になった。自分を思い出さないというのを知れば、目覚める。  

 「我思わず、ゆえに我あらず。」デカルトのコギトを反転した表現はペソアらしい。「自分が誰なのかを忘れた。存在の仕方を知らないので、書くことができない。」もペソア的なあまりにペソア的な言葉だろう。逆に捉えるのなら、彼は書くことによって自分の「存在の仕方」を知ろうとした。自分が誰なのかを思い出そうとした。

 この文には1932年9月28日の日付がある。この前の116章の日付は7月25日だったので、二か月間ほど、この部屋で、「何一つ印象を記していない」日々を過ごしたのかもしれない。
 117章には、ペソアの住む界隈の描写もある。この部屋の窓から見た風景だろうか。

  澄みわたり動かない日の空は本物で、深い青ほどは明るくない青い色をしているのを知っている。かつてよりもいくらかくすんだ黄金色の太陽が湿っぽい反射光で壁や窓を黄金色に染めているのを知っている。風もなく、風を思わせたり欺いたりする微風もないが、はっきりしない町に目覚めた涼しさが眠っているのを知っている。考えず望まずに、そうしたすべてを知っていて、思い出をとおして以外には眠くなく、不安を通じて以外には懐かしく思わない。
 
 ペソアには街の「自然詩人」とでも呼びたくなるような、街路の美しい描写とそれに促された思考がある。
 そして、「不安を通じて以外には懐かしく思わない」という一節を読むと、なぜだか、志村正彦の『陽炎』が浮かんできた。


2016年6月20日月曜日

ペソア博物館、内部の空間[ペソア 6]

 エントランスから階段を上がっていく。最上階から見始め、階下へと降りていく動線のようだ。
 最上階はどうやら三階の上の屋根裏空間を利用して作ったようだ。壁面にペソアの写真がたくさんコラージュされている。ペソアとその異名が増殖している感覚だ。ディスプレー装置がペソアの生涯を映し出す。グラフィックな表示や動画に工夫があり、洗練された展示だった。


   『不安の書』156章で、「複数の人格」についてこのように書かれてある。

 自分のなかにわたしはさまざまな人格を創造した。たえず複数の人格を創造している。それぞれのわたしの夢は見られるとすぐに、たちまち別な人物に化身し、夢見るようになり、わたしではなくなる。
 創造しようとして、わたしは自分を破壊した。自分のなかで自分をこれほど外面化したので、自分のなかではわたしは外的にしか存在しない。わたしは、さまざまな俳優がさまざまな芝居を演じながら通りぬける生きた舞台なのだ。


 抽象的な表現でとらえにくい。末尾にある、「さまざまな俳優がさまざまな芝居を演じながら通りぬける生きた舞台」としての「わたし」という喩えが、それでもまだ分かりやすいだろうか。この展示空間自体がペソアの複数の人格の「舞台」のような気がした。
 展示室には、数は少ないが、眼鏡などの愛用の品もあった。


 三階に降りると会議室があり、ここで朗読会などのイベントが開かれるようだ。小さくも大きくもなく程良い規模だ。ハットにコート姿のかわいらしい人形もあった。これもペソアの分身だ。人形化やキャラクター化されているのは、彼が愛されている証拠だろうが。



 










  二階に下りると、ペソアの家族の写真展示があった。小さな写真スタンドによるさりげない演出だが、やはりセンスがいい。
 吹き抜けの空間の向こう側には図書室や資料室があるようだ。
 ペソア愛用のタイプライターもあった。高価なものゆえ自分では買えなかったので、勤め先の機器を使っていた。それを収集し保管したのだろう。
 


 最上階から降りてくる動線であり、空間の構成が複雑なので、部屋の階や配置の記憶があいまいになってしまった。記述が間違えているかもしれないことをお断りする。