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2015年6月29日月曜日

『ディランにはじまる』-浜野サトル4

 前回紹介した浜野サトル『終わりなき終わり ボブ・ディラン』(『都市音楽ノート』1973年12月10日、而立書房)の最後は、次のように閉じられている。

 だが、いずれわれわれはディランの彼方へと向かうことになるだろう。ボブ・ディランの時代は終わった。

 ディランの時代の終わりを告げるこの批評はそれ自体、あの時代、60年代から70年代前半までの時代において、表現者も受容者も共に抱えていたある共通の困難や苦悶を物語っている。「ディランの彼方」へ向かうとあるが、その彼方がどこにあるのかは、むろん分からない。一つの意志、一つの試みとして、それは述べられている。浜野のこの結語はやや性急な断言のようにも受けとめられるが、ディランに向かってというよりも、自分に向かって、自身に対して言い聞かせているようにも響く。
 
 しかし、『都市音楽ノート』から五年ほど後に刊行された著書『ディランにはじまる』(1978年3月10日、晶文社)の「あとがき」にはこうある。

 ぼくは、六十年代という時代がその後半にさしかかったころ、ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」との出会いを通して、この種の音楽の世界に入った。そして、次の時代のはじめに、ディランがアクチュアリティを失うと、ぼくは一度彼の音楽を離れ、それ以後、新たなシンボルを探し出そうとする試みを続けた。だがしかし、彼の歌や存在とぼくとの間には結局は絶つことのできないつながりがあり、ディランは今再び、ぼく自身が時代をながめ返すための、ひとつの水晶体になろうとしている。

 著書『都市音楽ノート』の刊行日付からすると五年、『終わりなき終わり ボブ・ディラン』の執筆時1970年10月から数えると七年。70年代初めから70年代後半までの年月の間に、浜野サトルのディランへの関心は再び高まってきた。彼の内部で再び「ディランの時代」が歩み始めた。何が起こったのか。これには、表現者としてのディラン自身の変化と共に受容者としての浜野サトルの変化の二つが関係している。
 

 最初にディランの歩みをふりかえりたい。

 60年代中頃がディランの第1のピークだとすると、1974年から76年にかけての時代は第2のピークだったと言える。1973年、アサイラム・レコードに移籍。ディランは重要な転機を迎える。1974年『プラネット・ウェイヴス』、1975年『血の轍』、1976年『欲望』と立て続けに素晴らしいスタジオ作品を発表。この間、ザ・バンドとの全米ツアーや「ローリング・サンダー・レヴュー」ツアーも行い、それらを収録したライブ盤、1974年『偉大なる復活』、1976年『激しい雨』もリリース。日本のディラン・ファンにとっては、1978年の初来日が大きな出来事となった。
 この第二のピークが、浜野サトルにディランを問い直す契機を与えたことは間違いない。(私自身のディラン体験をふりかえると、74年、『プラネット・ウェイヴス』で彼のアルバムに出会い、78年の武道館で彼の生の声を聴くことができた。だから今に至るまで、私にとって70年代のディランの存在が大きい。)
 あの時代のロック音楽の深化を同時人として経験している者からすれば、一年一年という時の歩み、一作一作という作品の歩みがほんとうに濃縮されたものだった。変化も激しいものだった。

 次に、この時期の浜野サトルの批評の軌跡をたどりたい。

 彼は『ディランにはじまる』の「あとがき」で「ぼくはぼくなりに、小さな実験を繰り返してきたようだ」と述べている。それは彼も触れているように、「文体」の変化にも伺える。具体的には、『都市音楽ノート』では「書き手」を示す一人称代名詞が「私」、一人称複数代名詞が「われわれ」だったのに対して、『ディランにはじまる』では各々「ぼく」「ぼくら」に変わった。

 文体に関わる方法の面でも変化が見られる。『都市音楽ノート』では、論理が論理を追究し掘り下げていくような硬質で切実な様式だったのが、『ディランにはじまる』では、「歌」に関する具体的な文脈や背景から語り始め、歌い手やその作品のテーマやモチーフを少しずつ解きほぐしていく、よりやわらかいスタイルへと発展していった。
 この文体や方法の実験は、対象である「歌」との対話や言葉の摺り合わせという地道な試みによって可能となったのだろう。

  『ディランにはじまる』冒頭には『ハイウェイ』というディラン論が収められている。(『ワンダーランド』1973年8月号で発表。初出時の題名は『ハイウェイ ディラン体験とヘンリーたち』。『ワンダーランド』(WonderLand)は植草甚一編集の音楽・サブカルチャー雑誌。3号目から誌名が「宝島」に変更された。その後、この雑誌や増刊号は日本のロックのメディアとしても活躍した。)


 この批評は、ロバート・マリガン監督『ハイウェイ』(1964年)の主人公ヘンリーの物語から始まる。駆け出しのミュージシャンであるヘンリーは、アメリカ中西部の田舎町に住み、ある事件を起こす。彼の「走り出し、挫折する」物語をひとつのアレゴリーのようにして描き出しながら、浜野は自らの都市生活者としての音楽への欲望とその享受のあり方についてふりかえる。歌のあり方への根源的な問いかけがあるこの批評の内容については別の機会に論じることにして、ここでは、浜野サトルがディランについてのスタンスを述べた箇所を引用したい。

 ディラン体験について、ぼくは語りたい。そのためには、聴衆の ひとりとしての自分をできるだけ裸にしてゆくようつとめなければならないだろう。というのも、体験はいうまでもなくつねに個人的な体験としてあるのだから。そして、それは個人的なコンテクストを通して自分をひらいてゆくことを意味しているにちがいない。

 73年という時点で「ディラン体験」があらためて、「ぼく」と人称代名詞によって語り出された。
 「個人的な体験」「個人的なコンテクスト」を通じて「自分をひらいてゆく」ことを媒介にして対象を語っていくのは、この時期の彼の姿勢であり方法である。それは、いわゆる「私語り」や個人的な挿話ではない。そこにある「個人」「自分」というのは、きわめて方法的な「場」である。この方法や文体の達成が、この『ハイウェイ』というディラン論であり、第1・2回で述べた『ポールサイモン パッケージされた少年時代』であろう。


[付記]

 四回続けた「浜野サトル」ノートもここで一休止し、次は彼の「うた」論に焦点をあてて再開したい。
 浜野サトルは現在も、「浜野智」という名で(彼が編集者という立場で記す名だと思われる)、「One Day I Walk」( http://onedaywalk.sakura.ne.jp/ )というサイトを開設している。
 その中の「青空文庫分室」には、「新都市音楽ノート」という旧作だが必読の批評が載せられている。最近は更新されていないが、音楽エッセイ中心の「蟹のあぶく」。
 そして、日々書き継がれている「毎日黄昏」からは、六十歳代後半となった彼の日常や文学作品への多様な関心と共に、「歌」の言葉やこの世界の現実への真摯な「問いかけ」が伝わってくる。

2015年6月21日日曜日

『終わりなき終わり ボブ・ディラン』-浜野サトル3

 二回続けて、浜野サトルの四十年前ほどの批評をこの《偶景web》で紹介したことは、やや唐突に感じられたかもしれない。
 これまで、「志村正彦ライナーノーツ」を中心に音楽やそれをめぐる出来事についてこのwebに書いてきた。音楽をどのように語ることも自由だ。インターネットという場では、日々、音楽についての語りが量産されている。メディアであれ、個人であれ、音楽を語る欲望は尽きることがない。しかし、「語る」というよりも「語らされる」、あるいは語りに語りを「重ねていく」、という状況ではないだろうか。

 ジャック・ラカンによれば、私たちの欲望は他者の欲望である。音楽を語る欲望も、その言葉も、根源的には他者から与えられる。今、志村正彦を語る自分自身の欲望をふりかえると、そこには浜野サトルという他者が存在している。単に影響を受けたという以上のものがあるような気がする。それが何か。年月が経ち、わかるところもあるのだが、まだわからないところも多い。わからないからこそ、今回このような文を書き、彼の批評を読み直し、自分の言葉を問い直している。彼の文を読んでいくと、当時は気づいていなかった論点が幾つか浮上してくる。過去に書かれたものであっても、現在進行形で読まれうる。鋭敏な批評の特徴にちがいない。
 また、欲望や言葉をめぐるラカンの教えに踏みこまずに一般論で言っても、すでに半世紀を超える蓄積のある日本語のロックの「歌」について語ることは、これまでそれがどのように語られてきたのかという歴史との対話が不可避である。

 浜野サトルの「歌」論の中心にある対象、根源にあるモチーフは、ボブ・ディランである。

 『終わりなき終わり ボブ・ディラン』という論が、彼の最初の著書『都市音楽ノート』(1973年12月10日、而立書房)に収録されている。執筆は70年10月、初出は『ニューミュージック・マガジン』1971年2月号。『終りなき終り-ボブ・ディラン・ノート』という題で掲載され、『都市音楽ノート』所収の本文とは若干の異同がある。もともとこの原稿は『ボブ・ディラン論集』という書籍に収録され発表される予定だったが、結局刊行されずに終わったそうである。
 (私は高校生の頃『都市音楽ノート』を読み、この論に出会った。しかしあの当時、ディランに対する理解が浅いこともあって、この論を正確に読むことはできなかった。)

 彼はこの論で、「ボブ・ディランの歌が深化してゆく過程の内在的な構造 」を少しずつ解き明かして、「単独者」としてのディランの歩みを語っていく。表現者としてのディランと受容者としての自分自身の関係を測定することを絶えず意識しながら、次の認識にたどりつく。

 フォーク・ロックと呼ばれたものは、二重の意図をもっていた。ひとつは、さまざまな楽器の導入によって、曲全体を補完し、肉づけしてゆくこと。そして、もうひとつ、これこそ重要な点だが、ロックのリズムを呼び込むことによって、歌詞とメロディの組織力を激化させることであった。いま「ライク・ア・ローリング・ストーン」のディランを聴くとき、そこではさまざまな未熟さが目につく。しかし、あたかも言葉それ自身が解き放たれようとするかのような この動きの感覚こそ、われわれの待望していたものだったのだ。

 彼は、60年代半ばフォーク・ロックに変化していったディランの音楽を、「歌詞とメロディの組織力」を強化する「ロックのリズム」という基本構造によって説明する。ディランの「歌」の可能性の中心が、言葉が自ら解き放たれる「動きの感覚」にあることを強調する。
 しかし、60年代後半のディランについては、言葉・歌詞とメロディ・リズムの間の「緊張関係」の停滞や退行があると指摘し、次のように述べている。

『ナッシュヴィル・スカイライン』の背後には、深い絶望ともいうべきものが存在している。そこに、われわれは、一個人のもつ可能性の限界と単独者の宿命的な挫折を見出すべきだろう。円環は、閉じられた。

 60年代から70年代初頭にかけてのディランの「変化」が、「円環は、閉じられた」という厳しい断言で締めくくられる。これはディランの歩みに対する批評ではあるが、それと同時にあるいはそれ以上に、受容者・聴き手としての自らの経験をふりかえる自己批評でもある。

 なお、この論は、湯浅学『ボブ・ディラン ロックの精霊』(岩波新書、2013年11月)で紹介されている(156頁)。湯浅は、浜野を「慧眼である」とし、先ほどの引用部分の一部について、「この原稿の三三年後に書かれるボブの『自伝』をすでに読んでいたのか、と思える指摘だ」とその先見性を高く評価している。浜野サトルの初期の仕事の「再評価」という気運があるのかもしれない。そうであれば、とてもうれしい。

 70年代、浜野サトルは他の誰よりも音楽批評の「単独者」であった。彼の歩みの軌跡をたどりなおすことは、音楽についての批評が衰弱しているこの時代にこそ必要とされるのではないだろうか。
 

   (この項続く)

2015年6月10日水曜日

『ポールサイモン パッケージされた少年時代』-浜野サトル2

 前回も今回も、画像は雑誌を机に載せて、そのまま小さなデジカメで撮った。すぐにデータをアップロードして本文に添付。ほんの数分間の作業だ。(昔、展示や図録の仕事のために書籍や雑誌を時々複写していた。専用の複写台と照明を使い、資料を無反射のガラスにはさんで撮影した。今はそのような器具がないので、歪んで不鮮明な画像になってしまった。お許しいただきたい。)

 『ニューミュージック・マガジン』1974年3月号に戻ろう。
 雑誌をめくると、48頁から53頁まで6頁にわたり、浜野サトルの『ポールサイモン パッケージされた少年時代』が掲載されている。
 その後、この批評は彼の二冊目の著書『ディランにはじまる』(1978年3月10日、晶文社)に収録されている。(書籍の方は古書を検索すれば見つかるかもしれない。また、大きな図書館なら所蔵されているかもしれない)

『ニューミュージック・マガジン』1974年3月号、48頁

 この魅力的で優れた批評は次のように語り出される。

 べつだんフジクロームでも他の何であってもいっこうにかまわないのだが、とりあえずはコダクロームにしておくとして、このひとまきのスライド用カラーフィルムという、あきらかに工業文明の申し子である、考えてみればとても奇妙な物体から、人はどのような実感をくみとりう るだろうか。

 浜野サトルの批評は、ある具体的な「問いかけ」から始まる。
 直接、ポール・サイモンと『僕のコダクローム』に向き合う前に、歌のモチーフとなった「カラーフィルム」という「奇妙な物体」からくみとる「実感」を自らに問いかける。
                                        
 続く箇所では、「まず、ぼくの場合なら」とことわり、「黄色の小箱があたりにただよわせている、一種独特の感触」にひかれると述べる。その上で、「中身のフィルムがひらきうるファンタスティックな虚構の世界」と「消費のための産物」である現実的な商品という二つの世界を対比させる。
 ここまでの分析であれば、虚構世界と商品世界という二重性の指摘で終わる。しかし彼はさらに論を進め、「ひとまきのコダクロームは、またそれ以上の何ごとかを、伝達してくれているようだ」と語る。カメラという近代のメカニズムによる表現を通して「人は、何か抽象的なことではなく、この世に存在する具体的なものへの関心を新たにしうるのだ」ということが漠然と伝わる、と述べている。

 第二章の冒頭で初めて『僕のコダクローム』の歌詞四行が引用され、サウンドについても言及される。

 だが、サウンドの魅力に強くひかれたからには、何がうたわれているのかぐらいは、ぜひとも知っておきたい。そこでは、歌としての高い完成度のなかで、サウンドのもつ抽象化されたメッセージと言葉のもつより具体性を帯びたメッセージとがたがいに拮抗し合っているにちがいないのだから。

 ここでは、ポール・サイモンの聴き手や『ニューミュージック・マガジン』の読者に(つまりあの当時の私たちに)に、説得力ある言葉でさりげなく、「何がうたわれているのか」を知ることを諭しているようでもある。サウンドの抽象性と歌詞の言葉の具体性の関係という問題意識は、浜野の「歌」についての批評に通底するものであった。

 序章から続く「コダクローム」をモチーフとする「問いかけ」は、次のような「応答」を生み出す。(新たな「問いかけ」でもあるのだが)

 全体的な明るさのなかに、いや明るいからこそ、いまこの時代に自分の言葉というものはどこにもなく、だからこそコダクロームのようなものがとりあえずどこにもない言葉の代用でありうるのだという、いくぶんかはペシミスティックな意思が聴きとれるのではないか。

 浜野の批評は単なる感想や解釈では終わらない。表現主体とその客体、表現者と受容者およびその場の問題というように、「歌」をめぐる関係性を分析し、立体的に描くところに特色がある。
 この『ポールサイモン パッケージされた少年時代』では、まずはじめに、表現主体と写真による表現をより一般的な観点で考察し、それから個別的な『僕のコダクローム』という歌について、具体的な「言葉」を引用し、表現主体、歌の主体であるポール・サイモンと、表現の客体、歌のモチーフでもある「コダクローム」の関係の分析へ進んでいく。そのような過程を経て、「コダクローム」という表現の媒体が、この時代に「どこにもない言葉」の「代用」でありうるという認識に至っている。さらにこの歌から、幾分か「ペシミスティックな意思」を奏でるような音調も聴きとっている。

 もちろん、ポール・サイモンの『僕のコダクローム』は、まぎれもなく「言葉」で描かれ、「歌」で歌われている。受容者・聴き手である浜野サトルもまた「言葉」で論じている。
 表現者・歌い手の歌う意志、言葉への欲望。受容者・聴き手の聴く意志、言葉への欲望。その二つが中心となり、楕円をなす場に、この時代の「歌」が成立している。

 浜野サトルの批評にはたえず、この時代の「歌」、「言葉」とはどのようなものであるのか、ありうるのか、あるべきなのか、という「問いかけ」がある。このような真摯な「問いかけ」は、しかも彼のような言葉と論理の水準で語られることは、当時のロック批評には無かった。

         (この項続く)

2015年6月6日土曜日

『ニューミュージック・マガジン』1974年3月号-浜野サトル1

 
 音楽との出会いが記されることはあっても、音楽を語る言葉との出会いが書き記されることは少ない。
 この場合の「音楽を語る言葉」とは身近な誰かの言葉でも、音楽家の言葉であってもいいのだが、私がこれから書こうとするのは、ある批評家の言葉との出会いである。

 『ニューミュージック・マガジン』1974年3月号。
 高校に入る年の春だった。甲府の老舗の本屋でこの号を手に入れて愛読した。デジカメで撮影するために書棚から久しぶりに取り出すと、それなりに日を浴びて、紙質も劣化していた。四十年を超える時が積み重なっている。


『ニューミュージック・マガジン』1974年3月号 表紙画・矢吹申彦


  表紙はポール・サイモン。濃いグレーの背景から少し浮き上がる彼の肖像画。彼の左眼の直ぐ下から鼻や口を覆うようにして、コダクロームの黄色いパッケージが佇んでいる。ポール・サイモンからコダクロームが浮き上がってくるようにも、コダクロームがポール・サイモンを促して、ある風景を描こうとしているようにも見える。

 この表紙はもちろん、ポール・サイモンの1973年のヒット曲『僕のコダクローム』(原題Kodachrome)をモチーフにしている。描いたのは矢吹申彦。『ニューミュージック・マガジン』の69年4月の創刊号から76年3月号の表紙絵・ADを担当していた。

 矢吹の描いたコダクロームは独特の存在感を漂わせている。(この雑誌には「表紙のメモ」の頁があり、コダクロームについて「リアルに!!」、ポール・サイモンについて「今回は髭アリ」などという愉快な言葉が添えられている。)
 「人」と「物」、人とフィルムという記録媒体。この二つの間の静かな「対話」の跡が漂ってくる。しかし、「人」と「物」の重なり合いの構図から、この二つの間の微妙な断層、一種の距離のようなものが描かれているようにも感じられる。

 表紙をめくると、キョードー東京の広告。ポール・サイモン《初来日》、4月9,10日の日本武道館でのコンサートの文字。(「売り切れ近し」の字もある)70年代の前半、ポール・サイモンの人気は日本でも高かった。(それでも、サイモン&ガーファンクルには及ばなかったが)来日に合わせてこの表紙が企画されたのだろう。

 この号に、浜野サトルの『ポールサイモン パッケージされた少年時代』という批評が掲載されている。矢吹申彦の素晴らしい表紙画と浜野サトルの優れた言葉が合奏し、奥行きのあるハーモニーを奏でている。
 『ニューミュージック・マガジン』この音楽誌が輝いていたのはやはり、この時代、69年から70年代半ばの頃だ。矢吹による音楽家の肖像画が表紙を飾り、浜野による批評が誌面に時々掲載された時代に重なる。

 すでに中学生の頃から洋楽のロックを中心に聴いていた。誰もがそうするように、気に入った音楽を友達に語ったり、ラジオ番組のリクエスト葉書を書いたりしていた。未熟なものだったが、音楽だけでなく音楽を語ることにも、楽しさと面白さがあるように感じていた。そのような時を経て、浜野サトルの文章に出会った。彼の批評は、その頃から少しずつ読み始めていた文学や思想の本と同じ水準にあると思われた。ロック音楽を語ることの地平が大きく開かれていくように感じた。

 私と同世代以上のロックやジャズファン、特に『ニューミュージック・マガジン』の読者であった人の中には、彼の名を記憶している方も多いだろう。『都市音楽ノート』(1973年12月10日、而立書房)、『ディランにはじまる』(1978年3月10日、晶文社)の著書2冊がある。(ミステリー小説の翻訳や音楽書の編集でも知られる)しかし、およそ80年代以降、音楽メディアの表の場に登場することが少なくなったこともあり、若い音楽ファンにはあまり知られていない存在だろう。

 彼の仕事については私のような一読者より、著名な音楽評論家である北中正和の言葉を紹介したい。(「追憶・松平維秋-4インターネットの窓から」http://www.geocities.co.jp/Bookend/3201/M_SITE/TSUITO/KITANAKA.html ここでは「浜野智」と記されているが、おそらく彼の本名なのだろう。最近はこの「浜野智」名で書いているようだ)


浜野さんはぼくと同世代で、1960年代末からジャズやロックの評論に筆をふるっていて、そのころポピュラー音楽について彼ほど切れ味鋭い評論を書いている人は誰もいなかった。


 あの時代、浜野サトルの「切れ味鋭い評論」は、彼の愛用した語を使うのなら、「単独者」の批評=危機の意識から発せられた「問いかけ」だった。
 彼の批評は、ひとつの「問いかけ」から始まり、もうひとつの「問いかけ」で終わろうとする。「問いかけ」へのとりあえずの「応答」が果たされることもあるが、その「問いかけ」は読者に働きかけ続ける。

 次回は、『ポールサイモン パッケージされた少年時代』の言葉そのものを読み返してみたい。
 

   (この項続く)