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2015年2月28日土曜日

シーナ&ロケッツ、2014年8月24日甲府の桜座で。

 もう半年ほど前になる。

 去年の8月24日、甲府の桜座でシーナ&ロケッツの《NEW ALBUM 「ROKKET RIDE」発売記念レコ発ライブ!》が行われた。おそらく山梨で初のライブということもあり、桜座に出かけた。感じることや思うことが色々とあり、このblogで取り上げようと用意はしたのだが、時機を逃してしまっていた。シーナさんの突然の訃報を聞いた後で書くのは遅きに失し、また、追悼の流れに乗るようで葛藤もあるのだが、それでもやはり、この機会に書きとめておきたい。

 私はシーナ&ロケッツのファンというわけではない。あくまで「好きな」バンドという位置づけであり、彼らの少し後の世代として同時代を歩んできたというにすぎない。その間、彼らは「気になる」バンドでありつづけた。

 出会いは、ほとんどの人がそうであるように、1979年リリースのシングル『ユー・メイ・ドリーム』そしてアルバム『真空パック』だった。『ユー・メイ・ドリーム』について、例えばwikipediaには、《JALの「マイ・ハート・キャンペーン」のCMに起用され、ブレイクを果たす》とさらりと書かれているが、当時を知るものとして付言すれば、「大ブレイク」だった。テレビで繰り返し繰り返し、あの印象深いサビのフレーズが流れていた。
 日本のロックそのものが、まだまだその存在を知られていない時代だった。

 シーナさんの甘えるようでそれでいてどこか芯のある《声》、鮎川誠の切れの深いギターの《音》、細野晴臣のプロデュースとYMOの協力によるサウンドデザイン。当時は、ロックンロールバンドというよりも、イギリス風の「NEW WAVE」バンドとして受け取られていた。
 女性をメインボーカルとする編成はまだ珍しかった。柴山俊之(サンハウス)による歌詞も当時のロックの歌詞の水準を超えていた。「ユー・メイ」、「YOU MAY」と「夢」の掛詞。日本語と英語のハイブリッドのような歌詞は、洒落ていて、どこか屈折していて、複雑で微妙な感情と感覚に染め上げられていた。

 『ユー・メイ・ドリーム』のサビのクールな盛り上がり、離陸して大空を滑空していくようなメロディやリズムは、80年代のロックの幕開けを告げるようだった。
 80年前後という時は、RCサクセション、YMOがブレイクし、「東京ロッカーズ」、「めんたいロック」などのムーブメントが起こり、日本のロックがより大きなシーンに浮上し始めた時代だった。(私が二十歳の頃のことだ。あの時代の感触をよく覚えている)

 開演十五分ほど前、桜座到着。入りは六十か七十人くらいか。少しさみしい気もしたが、甲府という場ではこの位の人数が精一杯かもしれない。
 予定より遅れてスタート。鮎川さんは、シーナ&ロケッツの長い歴史の中で初めて山梨に「着陸」したと話してくれた。やはり初めてだった。山梨初ライブの会場が桜座。時が折り重なっているような雰囲気のあるこの小屋は、結成37年というキャリアのこのバンドによく似合っていた。

 始まりから数曲は、シーナさんを除いたロケッツ三人、ギター・ボーカルの鮎川誠、ドラムの川嶋一秀、ベースの奈良敏博による歌と演奏。スリーピースによるブルースロックは、重厚なグルーブ感にあふれていた。(あの頃、新宿ロフトで聴いたルースターズのドライブ感を思い出す。「めんたいロック」のビート感には独特のうねりがある。)

 6曲ほど演奏後、「シーナ!」の呼び声と共に、シーナさんの登場。ミニスカートに網タイツというスタイル。「年齢を感じさせない」というよりも、「年齢など考える必要がない」という表現がふさわしい存在感だ。

 新しいアルバム『ROKKET RIDE』の同名の冒頭曲『ROKKET RIDE』が始まる。その後は新収録曲を中心に展開。現在進行形のロックに圧倒された。一度シーナさんがバックステージに戻り、再び登場。あの『レモンティー』そして『ユー・メイ・ドリーム』と続き、アンコールのストーンズ『サティスファクション』で終了した。20曲に及ぶ2時間の熱演だった。

 その時も、そしてこの文を書いている今も、強く印象に残る場面がある。

 終わり近くになって、シーナさんが前の方の客一人ひとりと握手していった。桜座はステージと客席の区別がない。一番前の「畳」の座布団の席から1メートル程の「土間」を隔てた向こう側のエリアが舞台なのだ。言うならば「境界線」がない空間だ。
 素晴らしいパフォーマンスの瞬間、歌い手と聴き手とがある種の「境界」を超えられるような場である。そのことに触発されたこともあるのだろうか。シーナさんは「夢」を持ち続けることの大切さも語ってくれた。そして全身でファンへの感謝を表しているように見えた。

 後ろの方に座っていた私はシーナさんの姿を眺めていただけだったが、その光景に強く心を動かされていた。一人ひとりに握手しながら歌い、言葉を投げかける姿はとても輝いていた。やわらかく優しい表情としなやかで強い意志。あの時、よく分からなかったが、単なるファンサービスではない、特別な何かを感じた。シーナさんは何かを伝えようとしているかのようだった。説明できないのだが、そのことを受けとめていた。

 シーナさんが逝去された今、そのことから遡行して、あのライブに特別な意義を見いだしているのではない。あの日の姿と言葉に過剰な意味づけをするのでもない。
 しかし、あの光景の《像》とシーナさんの《声》は、いつまでも響き続けるだろう。

 桜座のシーナ&ロケッツは、「ロック」を生きていた。

2015年2月23日月曜日

《声》と《再会》-フジファブリック武道館LIVE 6 [志村正彦LN101]

  今日2月23日は富士山の日。そのことに合わせたのかは分からないが、昨夜、日付が変わるとすぐに、「フジファブリック最新情報」メールが届いた。
 「GYAO!にて「フジファブリック 10th anniversary Live at 日本武道館 2014」特別編集版公開開始!」とあったので、早速クリック。深夜の故、オープニング、『桜の季節』『陽炎』と『卒業』だけを見て、今夜、残りを見終わった。

 ところどころに観客の映像が入る。その姿、姿に引き寄せられる。自分のいた位置とは異なるアングルで再体験することで、3ヶ月前の記憶が別の形でよみがえってくる。このエッセイで記憶を頼りにして記した『卒業』の背景映像もほぼその通りだったが、雲の流れと動きがよりダイナミックだったことに気づいた。
  3月15日までの配信(http://gyao.yahoo.co.jp/music-live/player/monthly02/fujifabric)ではあるが、誰もが無料でこの映像を見ることができるのは有り難い。

 ただし、あのライブで最も記憶に刻まれたシーンは欠けている。志村正彦の《声》が歌う『茜色の夕日』だ。もちろん、無料配信ですべてを流す必要はない。このシーンとの《再会》は、4月8日発売の『Live at 日本武道館』まで待つべきなのだろう。

 前回論じた《再会》のモチーフについて、この3週間の間考え続けてきたのだが、なかなか思考が展開できない。考えあぐねているところに、昨夜の映像配信で、あの日の武道館の《声》の感覚が再び強く迫ってきた。この感覚に導かれて、次のような断片が現れてきた。まとまりがないが、それを記してみたい。

 この世界には、すでにその主体が不在であるが、主体の不在を超えて有り続けるもの、残り続けるものが存在する。そのようにして有り続けるものとは、例えば、その不在となった主体がかつて表した言葉である。記憶された言葉。記載された言葉。印刷され、刊行された言葉。言葉は有り続ける。

 歌の場合、言葉だけでなく、《声》そのものが有り続ける。百年以上前から、録音や音盤制作という現代の技術によって、《声》が、その主体の不在を超えて、有り続けている。この《声》の現前は、それ以前とそれ以後で、歌の享受に決定的な変化をもたらした。あたりまえとなっているが、これは不可思議なことでもある。不在の主体の《声》は天使的な響きを持つ。

 さらに今日、映像技術の飛躍によって、不在の主体そのものの《像》が記録され、《像が有り続ける。記録された《言葉》、《声》、《像》。その主体が不在であるにもかかわらず、《言》や《声》や《像》は、主体の不在を超えて存在し続ける。少なくとも、《言》や《声》や《像》の受け手がいる限り。

 モニタやスクリーンの画面上にある《言葉》や《像》は、視覚的なもの、想像的なものとして、私たちに届いている。その経験にはどうしても視覚像という媒体、ある意味で回り道のような余計なものが差し挟まる。

 しかし、《声》は異なる。再現された《声》ではあるが、聴覚像という媒体には還元されることなく、限りなく直接的に、聴覚に入り込む。耳に、身体に届く。《声》は、不在の主体を、あたかもそこで歌っているかのように現前させる。ありのままにありありと。

 あの日の武道館で、演出や演奏やアレンジの次元を超えて、数分という短い時間ではあったが、志村正彦の《声》はその独自の存在のあり方で聴き手に届いた。

  私たちは、《声》の直接性によって、《声》の現前によって、不在の主体と再会することができたのかもしれない。

     (この項続く)

2015年2月2日月曜日

再会-フジファブリック武道館LIVE 5[志村正彦LN100]

 昨年11月28日開催のフジファブリック武道館LIVEから二月ほど経つ。このLIVEについてすでに4回ほど掲載したが、あと数回は書きたいことがあるので、今回から再開したい。

 武道館ライブの『茜色の夕日』『若者のすべて』『卒業』という三曲の流れ、『卒業』の背景の「空」の映像。あの時あの場において、『卒業』の一節「それぞれ道を歩けばいつかまた会えるだろう」の《再会》の相手は、志村正彦その人を指し示していると、前回のLN99で考察した。

 歌詞で歌われる《再会》の相手を特定の人物に限定する必要はない。それは当然の前提だ。
 歌の言葉の中には余白の箇所がある。誰かを何かを指し示す機能しかない人称代名詞はその余白の最たるものだろう。歌い手にとって指し示す対象が明確であったとしても、聴き手にとってはそうではない。逆にそうだからこそ、聴き手はその対象を自由に想像できる余地がある。
 さらに、歌には、歌わないこと、歌えないこと、歌うのが難しいこと、歌うのを避けたいことなどが満ちている。これに関しても人称代名詞と同様のことが当てはまる。

 ある時ある所において、歌い手と聴き手との共同の場において、その現実の文脈の中で、歌の空白が埋められることもある。フジファブリックのデビュー10周年を記念する武道館LIVEは、そのような特別な時、特別な場だった。繰り返しになるが、あの時あの場において、《再会》の相手が志村正彦だということは暗黙の前提だった。たとえそれが無意識的なものであったとしても。
 武道館LIVEは、志村正彦の「成し遂げられなかった10年」を追悼するものでもあった。あのステージの「主役」は現メンバーだが、ステージの「不在の主役」は志村正彦だった。フジファブリックの歴史からすると必然的にそうなる。
 山内総一郎作詞の『卒業』の第2連をあらためて引く。

  ゆらゆらゆらり滲んで見えてる空は薄化粧
  それぞれ道を歩けばいつかまた会えるだろう

 「ぼくら」は「薄化粧」の「空」の下で、歩き出す。「それぞれ道を歩けば」という《歩行》を重ねれば、「いつかまた会えるだろう」というと《再会》の時が訪れる。
 その一方で、この《歩行》は、『卒業』という題名と歌詞の全体が示しているように、《卒業》への歩み、「今ここ」という時と場から巣立ち、離れていくことでもある。
 第3連を引く。

  春の中ぽつり降る ぼくらの足跡消して行く
  悲しみは 悲しみはこのまま雨と流れて行けよ

 「ぼくら」は、この場から「ぼくらの足跡」を消して行かねばならない。「悲しみ」は雨に流れて行かねばならない。痕跡の消去、感情の消失は、「それぞれ道を歩」くための象徴的行為だ。「いつかまた会えるだろう」という《再会》のための《卒業》は、「ぼくら」がいつか向き合わねばならなかった儀式だ。
 この文章を書いている今、あの武道館LIVEを振り返ると、デビュー10周年を数える2014年という時、武道館というロック音楽における象徴的な場で、フジファブリックの《卒業》の儀式が執りおこなわれたのだという印象が強い。
 現在のフジファブリックにとって、志村正彦との《再会》のための《卒業》は、志村正彦からの《卒業》であり、志村正彦への《卒業》でもある。志村正彦から/への《卒業》という二重性を持つだろう。

 《卒業》は、愛着のある場、慣れ親しんだ場、想い出の時、忘れられない時から離れていくことだ。大切な場、大切な時との別離、ある種の分離だ。その外的な分離が時を経て、心の内面にまで作用していくと、忘れること、《忘却》が訪れる。
 志村正彦には『記念写真』という作品(志村作詞・山内作曲、3rdアルバム『TEENAGER』収録、2008年1月リリース)がある。この歌の背景にあるのは《卒業》という出来事だろう。リフレインされる歌詞を引く。

  記念の写真 撮って 僕らは さよなら
  忘れられたなら その時はまた会える  

 「忘れる」こと、《忘却》の時が訪れること。それができたなら、「その時はまた会える」、《再会》が可能となる。志村正彦は、《忘却》と《再会》という、矛盾めいた予言のような言葉をこの歌詞に込めている。
 さらに時を遡りたい。この『記念写真』には、奥田民生作詞のユニコーン『すばらしい日々』(1993年4月、シングルリリース)が遠く彼方からこだましているように聞こえる。志村正彦が奥田から最も影響を受けたことはよく知られている。この歌もユニコーンの解散という《卒業》が背景となっているようだが、《忘却》と《再会》についての深くて逆説的でもある言葉を、奥田民生は日本語ロックの歌詞の世界に導入した。鍵となる一節を引用する。

  朝も夜も歌いながら 時々はぼんやり考える
  君は僕を忘れるから そうすればもうすぐに君に会いに行ける 

 「君は僕を忘れる」、そのような《忘却》の時を経ることで、「君に会いに行ける」、《再会》が果たせる。複雑な感情が込められた《忘却》と《再会》のモチーフは、奥田から志村へと引き継がれた。『記念写真』そのものが志村の奥田に対するオマージュかもしれない。
 武道館LIVEのアンコールで初披露された山内総一郎作詞の『はじまりのうた』には次の一節がある。

  僕ら待つ未来へ歩き出せるなら
  同じ場所をまた見つけられるから
  その時はまた会いにいけるから

 《分離》や《忘却》というモチーフは消えかけているが、「その時はまた会いにいける」という《再会》というモチーフは貫かれている。『はじまりのうた』という題名が示すように、この《再会》は《出発》あるいは《再出発》を背景としている。曲調の明るさからしても、《未来》が志向されている。

 《卒業》という外的な出来事、《忘却》という内的な出来事は、主体とその客体、相手や対象との《分離》を意味している。その《分離》を経た上で《再会》が果たされる。あたかも《分離》が《再会》の条件であるかのように。そのモチーフが、奥田民生・ユニコーン、志村正彦・フジファブリック、そして山内総一郎・現在のフジファブリックとリレーされているかのようだ。意識的なものではなく、多分に無意識的なものかもしれないが。

 私たち志村正彦の聴き手にとって、《分離》と《再会》のモチーフの対象は、当然、志村正彦その人である。彼は『記念写真』の最後の節で「きっとこの写真を 撮って 僕らは さよなら/忘れられたなら その時はまた会える」と歌っている。私たち聴き手は自由で、ある意味では身勝手でもあるから、この「僕ら」という人称代名詞を、たとえば、聴き手と歌い手との間に結ばれる「僕ら」という共同性を示すものとして拡大解釈してしまうこともあるだろう。聴き手の欲望は際限がないが、歌は自由であり、それを許している。

 それにしても、「僕ら」は何故、「忘れられたなら」、「その時はまた会える」のだろうか。この問いに少しでも近づかなくてはならない。

        (この項続く)