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2014年10月29日水曜日

ジュンク堂書店岡島甲府店にて。

  一昨々日、桜座のAnalogfishとmooolsのライブに出かけた。その前に、すぐ近くの岡島百貨店という老舗の6階にあるジュンク堂書店岡島甲府店に立ち寄った。甲府では最大の書店で品揃えがとても充実している。

 音楽書の売場を目指したのだが、そのコーナーの目立つ場所に「ロックの詩人 志村正彦展」のフライヤーが飾られていた。7月の志村展の際この書店に依頼したところ、こころよく、フライヤーを置いていただいた。その中の一枚が今でもこうして展示されているのだろう。
 思いがけない出会いだった。心の中で、書店の担当者に感謝を申し上げた。


 コーナーを回って書棚を見ると、一番左のよく見える高さの棚に、「待望の重版!志村正彦全日記集」というポップと共に『東京、音楽、ロックンロール 完全版』、「志村正彦登場!」というポップと共に『音楽とことば あの人はどうやって歌詞を書いているのか』の二つが、面陳列というのだろうか、表紙をこちら側に向けて2,3冊ずつ重ねられて陳列されていた。驚きと感激で一杯になった。

 この書店を訪れた誰かが志村正彦の書物を手にすることがある。彼の言葉と出会う可能性がある。嬉しいような、切ないような、有り難いような、感情に染め上げられた。

 実は、この岡島百貨店の6階にはかつて新星堂ロックイン甲府店があった。この楽器店で、高校入学の春、志村正彦はギブソン・レスポールスペシャルを購入した。初めて買ったエレクトリックギターで、アルバイトを重ねて払い終わったようだ。高校生にしてはかなり高価なもので、プロの音楽家になるという不退転の決意のようなものが感じられる。7月の志村展で展示されたので、ご覧になった方もいらっしゃるだろう。友人によると、その後も何度かここにはエフェクターなどを買いに来たらしい。

 もう何年も前にこの楽器店は撤退し、その跡を含むスペースにジュンク堂が開店した。今、その音楽書のコーナーで志村正彦の著作が並べられている。

 それだけのことだった。それだけのことにすぎない。
 それでも、その場に、彼が還ってきたような気がした。

2014年10月26日日曜日

「時」と「影」-『赤黄色の金木犀』2 [志村正彦LN93]

 『赤黄色の金木犀』は、ロック音楽では標準的な四分ほどの時間を持つ作品だ。
 以前ある若者が、この数分の短い時間の中で金木犀が香り始め、曲が終わると共にその香りが消えていくように聞こえてくる、と筆者に語ってくれたことがある。四分という時の中で、金木犀が香り続ける。若者らしい感受性にあふれた捉え方だ。

 短い時の流れの中で生まれそして消えていくもの。ロック音楽そのものが数分間の生成と消失をその宿命としている。そしてまた、時の中の生成と消失は、志村正彦が繰り返し描いたモチーフでもある。『赤黄色の金木犀』は次のように歌い出される。

  もしも 過ぎ去りしあなたに
  全て 伝えられるのならば
  それは 叶えられないとしても
  心の中 準備をしていた


 「過ぎ去りし」という文語的な表現の助動詞「し」は、過去の出来事を主体的に直接的に経験したことを表す。「あなた」と歌の主体との間には、後戻りすることのない時間が流れている。
 「もしも」「のならば」という仮定は、途中に「叶えられないとしても」という留保を挟みながら、「準備をしていた」という帰結に掛かっていく。歌の冒頭にある、この複雑な仮定と帰結のあり方は、歌の主体「僕」の「時」への関わり方がかなり独特であることを告げている。

  冷夏が続いたせいか今年は
  なんだか時が進むのが早い
  僕は残りの月にする事を
  決めて歩くスピードを上げた


 「冷夏」が続くと「時が進むのが早い」。秋がすでに訪れてしまった気分になるのだろうか、季節と時の歩みに敏感な「僕」は、「歩くスピード」を上げる。季節は時の循環の感覚を支えるが、「冷夏」のように循環のリズムが崩されると、時の歩みが一気に早まる。

  いつの間にか地面に映った
  影が伸びて解らなくなった
  赤黄色の金木犀の香りがして
  たまらなくなって
  何故か無駄に胸が
  騒いでしまう帰り道


 「影」を「僕」の「影」だと仮定してみる。そうなると、「影」は「僕」の「分身」ともなる。
 「僕」は僕の「影」を追いかける。あるいは僕の「影」が「僕」を追いかける。
 一日も終わる頃、夕陽をあびて、「影」は遠く果てまで伸びていく。陽も落ちると、周囲に溶けこみ、「僕」は「影」が解らなくなる。一日の時の流れの中で、「僕」は「影」を通じて、自分自身の「時」を追いかけているのかもしれない。

 それでも、金木犀は香り続けている。あたりの風景を香りで染め上げている。
 「僕」は平静でいられなくなり、「何故か」「無駄に」「胸が」「騒いでしまう」。一つひとつの言葉は分かりやすいものであっても、この配列で表現されると、なかなか解読しがたい。言葉の連鎖のあり方が単純な了解を阻んでいる。なぜ、「無駄に」胸が騒ぐのか。その理由は明かされることがなく、行間に沈められている。「僕」の「胸」にある想いを描くことは不可能だが、「無駄に」という形容は痛切に響く。

 
 歌の主体「僕」は「帰り道」にいる。「僕」は僕の「影」と共に、日々の生活の中での短い「時」の旅を終えて、帰路についている。楽曲のリズムも、次第にテンポが速まり、歌の言葉を追いかけるようにして、四分間の音楽の旅を終える。

    (この項続く)

2014年10月21日火曜日

季節の中の『赤黄色の金木犀』 [志村正彦LN92]

 先週の木曜日。富士の初冠雪。その日の夕暮れ、西側から陽が当たり、富士が赤く照り返されていた。
 甲府盆地からは夕暮れ時の「紅富士」が、やや遠景ではあるのだが、時に現れる。青黒い御坂山系に遮られて、富士は半分ほども見えないのだが、その白い肌が薄赤く染まる。台風も過ぎ去り、空の青も透き通っていた。彩りが美しい。甲府盆地からやや南西側にある富士山の位置がこの幸いをもたらしている。
 富士が雪化粧をすると、秋を通り越し、冬が近づいている実感を持つ。

 一月近く前になる。9月の下旬、甲府でも金木犀が香りだした。
 昼間、勤め先の近くで、香りをのせた風に包まれた。見渡しても、金木犀の樹は見えない。少し歩くと、香りが強まったり弱まったりする。強まるあたりで金木犀を探しても、見えない。香りをたよりに歩行を続ける。しかし、相変わらず樹の姿は見えない。探すことをあきらめて立ちつくす。樹の姿が現れないからこそ、風景が金木犀に染め上げられる。
 一週間ほど経つと、金木犀の香りは消えてしまった。香りの命は短く、目に見えない金木犀の風景も過ぎ去ってしまう。

 十年前の2004年9月29日、『赤黄色の金木犀』シングルCDがリリースされた。その日の前後、このことに触れたツイートが多かったようだ。十年という時を経てもますます、この作品は秋の季節の歌として聴き継がれている。
 ミュージックビデオの監督スミス氏も「懐かしい」と呟いていた。このMVは出色の出来映えだ。長野県上田市でロケされ、同一のポジションで撮影したシーンをつなげていくという作業を経て完成した。撮影と編集の作業そのものが、秋の日の時の流れを感じさせる。この季節に久しぶりに見ることにした。

 二十四歳の志村正彦はやや暗い眼差しでこちら側を見つめている。珍しく、視線はまっすぐなのだが、それでもやはり少しだけ傾けているのが彼らしい。クリーム色のテレキャスターを弾き、歌いかける。独自の言葉の世界が広がっていく。
 イントロとアウトロのギターの旋律は、金木犀の香り、どこからとも流れてくる風に乗った香り、その目には見えない動きを奏でている。ギターリストとしての彼の才能を感じさせる。

 今、巡回中のフジファブリックの LIVE TOUR 2014 "LIFE"の仙台公演で、『赤黄色の金木犀』が演奏されたそうだ。2010年7月、「フジフジ富士Q」でクボケンジが歌った以来のことになるのだろう。山内総一郎がどのように歌いこなしたのか、興味深い。志村正彦を離れて、この歌はどのように聴き手に伝わっていくのか。そのことに関心がある。『赤黄色の金木犀』は、志村の作品の中でも最も彼らしい言葉の世界を構築しているからだ。

 季節の感覚が薄まりゆくこの時代、金木犀という花の香りや『赤黄色の金木犀』という歌の響きによって、私たちファンは、秋という季節を感じ、秋という季節を想っているのかもしれない。

 (この項続く)

2014年10月13日月曜日

山梨という島・沖縄という島

 前回、「PEACETIME BOOM」という「平和景気」を意味する言葉の持つ批評性について書いた。それと共にもう一つの意味が思い浮かんできた。

  ステージの背景にある「25 PEACETIME BOOM」という言葉には、「THE BOOM」が「25」年の間、「PEACETIME」、「平時」のままに、「大事なく幸せに」バンド活動を続けられた、ということへの感謝が込められているのかもしれないと思った。解散発表時のコメント「たくさんの、本当にたくさんの愛とぬくもりに包まれ、僕たちは日本一幸せなロックバンドでした」という言葉通り、その25年間は本当に幸せな時間だったのだろう。(そのとき、5年間、アマチュア・インディーズ時代を含めても10年しか活動できなかった志村正彦のことを考えてしまった。彼の音楽活動は、ザ・ブームのように幸せに完結することはなかった)

 ライブは、『君はTVっ子』から始まった。1989年5月発表のデビュー・シングル。スカを基調としたリズムと歌詞の言葉が見事にはまった愉快な曲。最初から、会場は熱気に包まれる。次は『星のラブレター』。甲府の「朝日通り」(私は子供の頃すぐ近くで暮らしていた。思い出の詰まっている場所だ)が舞台となっている。ハーモニカの歯切れがよい。歌い終わった宮沢和史の表情にも深い想いが去来しているように見えた。

 数曲を経て、『からたち野道』。ザ・ブームの中でも、最も心に染みる歌。「心」というよりも、聴き手の「記憶」に染みいる、と書くべきだろうか。この歌を聴くと、甲府盆地の何処とも言えないのだが、かすかに記憶のある「野道」が浮かんでくる。私たちがここに今在ることにつながる記憶、哀しいような懐かしいような記憶。そのような記憶をこの歌は伝えている。

 『おりこうさん』という曲の間奏部では、途中で奥田民生の『風は西から』などをメドレーで演奏した。なぜ、奥田民生なのか?1990年前後のいわゆる「バンドブーム」の時代、ザ・ブームはレピッシュやユニコーンと共に、日本語ロックの歌詞を深化させた。宮沢から同時代人奥田へのオマージュなののだろうか、あるいは解散するザ・ブームから再結成したユニコーンへのバトンタッチの意味なのか。よく分からないが、いきなりの奥田民生は面白かった。

 終わり近くになり、この曲を作るためにこれまでの二十数年間があったというMCと共に、『世界でいちばん美しい島』が演奏された。2013年リリースの同名の14枚目のアルバムが結局最後の作品となった。彼らの旅の終着点となったのがこの歌だ。

  春を知らせる紅の花 真綿が開いた夏の雲
  空を切り取る秋の月 冬を集めた母の鍋


  世界でいちばん美しい島 それは僕らの生まれ島
  ここで生まれた 誉れを胸に 命の歌を歌い続けよう


 この曲の演奏中、舞台のスクリーンに、甲府盆地の風景、『釣りに行こう』の舞台となっている荒川上流、盆地から御坂山系越しに見える富士山、馴染みの景色が次々と静止画で投影された。
 歌は歌であり、歌を補完するような映像が流れるのは過剰な演出になり、疑問だ。だが、この時の映像は違った。幼少期から親しんでいるこの土地の風景が、この『世界でいちばん美しい島』の歌詞の言葉とシンクロするように映し出されると、何かこの上なく、突き動かされるものがあった。

 映像は次第に、沖縄の風景へと変わっていく。山梨から沖縄そしてブラジルを始めとする海外へと広がっていった彼らの音楽の軌跡を表しているようだった。
 山に囲まれた山梨、海に囲まれた山梨、どちらも「島」。山梨も沖縄も、そこで生まれ育ち、暮らし、やがて亡くなる人々にとっての「世界でいちばん美しい島」だ。
 映像の最後は、甲府の北部を流れる荒川上流だと思われる景色で終わる。川は、流れ流れ行く宮沢和史の存在の原点なのだろう。

 宮沢は、『世界でいちばん美しい島』という題名に込めた思いについて次のように述べている。( http://news.walkerplus.com/article/39120/

聞いた人が自分の故郷を思い出してくれると嬉しい。自分の故郷を愛おしく思うこと、そこに誇りを持つこと、それを高らかに人に語れること、今僕らに必要なのはそういった事じゃないでしょうか。東日本も含め、沖縄基地問題や日本の経済の悪さなど、いろんなことがこの国にはあります。「世の中って駄目だな」って言ってても何も変わらなくて、誰かに任せてたって何も変わるわけじゃない。でも何かを変えるためには、自分の生まれた場所が好きでいることが大事だと思うんです。そうすると自分に誇りが持て、仲間に誇りが持てるし、団結もする。何かを変えていく原点はそこなのではないでしょうか。聞いた人が自分の生まれた場所や故郷を思い出すような、愛おしく思えるような、そんな作品になってほしい。

 「世界でいちばん美しい」のは「国」という単位ではなく、あくまで「島」という単位だ。この場合の「島」は「自分の生まれた場所や故郷」を指し示す。宮沢は注意深く「島」という言葉を選んでいる。そして、その「島」は「何かを変えるため」に存在する場であると告げている。

  山梨という「島」、沖縄という「島」。ザ・ブームの四人、宮沢和史、小林孝至、山川浩正、栃木孝夫の25年間の旅は、「世界でいちばん美しい島」を見つける旅であり、「何かを変えていく原点」を見つめ直す旅であった。
 歌の作り手だけでなく、聴き手にとっても、長い年月を経た後に、歌の意味が見いだされるものかもしれない。作り手と受け手が同じように意味を見いだし、その意味を共有するのなら、その旅はとても幸せなものだったと言えるだろう。

 アンコールが2回、ラストは『中央線』。3時間に及ぶライブは終わった。
 「走り出せ 中央線 / 夜を越え 僕を乗せて」と歌われる『中央線』は、やはり、山梨に住む者にとって特別な歌だ。ほんとうに最後なのだなと、心と耳を澄ませて聴いた。
 2014年10月5日の甲府でのザ・ブーム解散ライブは、永遠に記憶に残り続けるものとなるだろう。
 

2014年10月7日火曜日

ザ・ブーム、山梨での解散ライブ「25 PEACETIME BOOM」

 一昨日、10月5日、甲府市の山梨県民文化ホールで、ザ・ブーム「THE BOOM MOOBMENT CLUB TOUR 2014 ~25 PEACETIME BOOM~」の山梨公演が行われた。

 3月末に今年12月をもって解散し、デビューから25年、結成から28年の活動に終止符を打つという発表があった。その際のコメントには「この4人でやれる事、やるべき事は全てやり尽くしたのではないかという思い」が心を支配するようになったとある。「全てやり尽くした」という完全燃焼の末の決意だった。今回は「解散ツアー」であり、メンバー中3人の出身地である甲府でのライブは、ザ・ブームとして故郷に別れを告げるものとなる。

 地方では県庁所在地にある公立のホールがコンサート会場になることが多い。ロックからクラシック音楽まで、山梨開催のかなりのものがこのホールで開催される。(志村正彦も、山梨でのライブを第一に富士吉田市民会館のホール、第二に富士急ハイランドのコニファーフォレスト、第三に甲府の山梨県民文化ホールの三カ所で行いたいと語っていたそうだ。このホールに来ると、どうしてもそのことを考えてしまう)

 ホールに着席する。前後、左右共に真中あたりの位置。ステージも見やすく、距離感もちょうど良い。ステージ上のスクリーンに、ヒストリー映像が流れている。デビューの頃20歳代の映像は、あたりまえだが若々しい。25年が経ち、彼らも50歳前後となった。当然、聴き手も年をとる。観客も40歳代から50歳代が多い。メンバーのご親戚や関係者かと思わせるような方々もいる。地元ならではの雰囲気だ。

 ヒストリー映像を見ているうちに、こちら側も回想モードになる。いくつかの場面が浮かんできた。

 1989年、風土記の丘公園の野外ステージで開催された山梨での初ライブ。90年代中頃まではここ県民文化ホールで毎年のように開かれたツアー・ライブ。少し間が空いて、2001年、風土記の丘での2度目のライブ。最近では、2011年、甲府駅近くの舞鶴城公園で無料ライブが行われた。そして、今回、2014年の山梨での最後のライブ。記憶に残る数々の歌と演奏があった。

 結果として、山梨での初ライブも最後のライブも見る幸運に恵まれた。この25年の間、時期により濃淡の差はあるが、私はザ・ブームのファンであったと書いてもいいだろう。

 ステージの背には、「25 PEACETIME BOOM」という文字が大きく印されている。 1stアルバム『A PEACETIME BOOM』との関連で名づけられたものだろう。「A PEACETIME BOOM」から「25 PEACETIME BOOM」へと、「A」から「25」へと、「PEACETIME BOOM」は持続していった。

 そもそも、「PEACETIME BOOM」とはどのような意味か。どのような意図を持つ表現なのか。写真家ハービー山口氏の音楽番組"The Roots"で、曲で何を表現したいかというコンセプトはあるのかという山口氏の問いに対して、宮沢はこう答えている。(https://www.youtube.com/watch?v=O4g3Xt26oN0 "The Roots"の映像の最初には2001年の風土記の丘ライブや宮沢和史の実家近くの街並みの映像も入っていて貴重だ)

   僕らがデビューした頃って、世の中けっこう浮かれたムードだったんですよ。ですから本当にこれでいいんだろうかという思いがあって、それで『A PEACETIME BOOM』というタイトルにしたんですよ。「平和景気」ていう、ひねくれたタイトルです。「戦争景気」の逆ですけど。

 「戦争景気(WARTIME BOOM)」とは戦争による特需がもたらす好景気だ。それを反転させて、「平和景気」という逆説的な造語を作ったのは、社会的な批評性のある行為だ。確かに「ひねくれた」ものだが、この言葉には「ひねくれ」と共に「まっすぐ」な姿勢がある。
 日本の戦後はずっと、ある意味で「平和景気」が続いていた。ザ・ブームがデビューしたのはバブル崩壊直前の「平和景気」ピークの時代だった。「平和」であること自体は絶対的に肯定されるべきだが、「平和」による「景気」によっても取り残されてしまう現実、欠落もある。そのような時代への違和や抵抗の感覚を宮沢は持ち続けていた。

 あの『島唄』は言うまでもなく、沖縄戦の犠牲を歌ったものだ。そのことに関連してMCで宮沢は甲府空襲のことを語った。1945年7月、甲府空襲があり、父親と母親は疎開したそうだ。このことは初めて聞いた。宮沢の父母の世代は、「空襲」という「戦争」を体験している世代だ。(私事になるが、私の父もこの年、東京空襲と甲府空襲の二つを経験した。命の危機の中で何とか逃げのびた話を子供の頃から何度も聞いた)

 戦争はそんなに過去のものではない。まだ70年ほどしか経っていない。『島唄』が作られたのは、そのような文脈と背景があってのことだということを忘れてはならない。山梨も沖縄も、日本という「島」の中の「戦争」の経験を共有する「場」として、つながっている。

 今回のライブの前に、ザ・ブームのアルバムを何枚も聴き返した。初期から通して聴くと、宮沢の歌詞には、社会への様々な批評が含まれていることがあらためて確認できる。一貫したラディカルな意志のスタイルがある。
 声高な攻撃的な主張ではなく、むしろ内省が込められた控えめなものだが、高い次元の批評性を持つ。「25 PEACETIME BOOM」という言葉が何よりもそのことを伝えている。

  (この項続く)