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2014年7月26日土曜日

百年後の志村正彦 [志村正彦LN 85]

 「ロックの詩人 志村正彦展」と「志村正彦フォーラム」が終了して、2週間が経つ。先日から公式webで、「展示とフォーラムをふりかえって」と題して報告させていただいている。

 この「偶景web」は、展示とフォーラムの準備と作業のために、時間的な余裕がなく、一月半の間、新たな原稿を書くことができなかった。再開するにあたり、フォーラムの最後の挨拶で、主催者代表として私が話した言葉を少し補って書かせていただきたい。(次回からは、いつものライナーノーツのスタイルに戻りたい。再び、話題によっては志村正彦展やフォーラムに触れることもあるかもしれないが、「偶景web」で全体をふりかえるのは今回のみとしたい)

 志村正彦が作詞作曲した作品、それを具現化したフジファブリックの音源や映像は、私たちの音楽の歴史の流れの中で、百年後の未来に残る。そのように考えていると、あの場にいた方々に伝えた。(私のような一介の聴き手の妄言、戯言だと一笑に付されるだろうが、本気でそう思っている)今回の試みはそのような想いから動き始めた。

 もちろん、私たちの拙い試みと全く関係なく、作品自体の力によって、志村正彦、フジファブリックは残り続ける。しかし、どのように残っていくのか、という課題はある。どのように残していくのかという活動の課題と共に。

 百年後の聴き手に比べれば、私たちはまだ志村正彦の「同時代」に生きている。同時代の聞き手として、彼の作品から、何を聴きとり、何を感じ、考えたのか。それを批評的なエッセイとして書き続けることが、「志村正彦ライナーノーツ」の主題だ。
  本来なら、私などは書くことのみ継続していけばいいのだが、今回は、様々な偶然や必然に導かれて、志村正彦展とフォーラムという活動に踏み込んだ。「百年後の志村正彦」というモチーフが次第に強固なものとなっていった。

 彼の生が閉じられて5年近くが流れた今日、来場された方(そして来場されなかった方を含めて)の志村正彦に対する強い関心と愛情の持続を、現在という時間の中に、ある種の痕跡のようにして刻みつけること、志村正彦の聴き手による「仮初め」の場、共同体を二日間限定で作ること。

 そのようなことを無意識に望んでいたのかもしれないと、今という時点では思うが、ほんとうのところはよく分からない。よく分からないままに、半年の間、展示とフォーラムの準備のために歩み続けたというのが事実だ。
  様々な困難もあったが、両国ライブでの『若者のすべて』のMC、《立ち止まるのではなく歩きながら、考えていく》という彼の言葉にときおり促されながら、何とかたどりきることができたようだ。

 2014年7月12日と13日、山梨県立図書館の二つの展示室そしてフォーラムの会場で、予想をはるかに超えた、たくさんの方々の純粋な眼差しや声に遭遇したことで、志村正彦、フジファブリックの作品は百年後に残る、その想いはますます確信に近いものとなった。

 深く深く、感謝を申し上げます。