ページ

2014年3月30日日曜日

「愛をこめて」、「遠くの町に」。 [志村正彦LN 76]

 今朝、ぴあのHPで『Live at 富士五湖文化センター 上映會』のチケットを確認したところ、「予定枚数終了」の表示が出ていた。開催2週間前にソールドアウトできたようで、ほんとうに良かった。
 甲府の桜も一昨日、平年より一日遅く開花した。ほぼ例年通りだ。13日には「いつもの丘」の桜も美しく咲いているだろう。当日の天気が良いことを祈ります。

 残念ながら、山梨の新聞・テレビ・ネットの様々な「チケット情報」サービスでは全く告知されていなかったので、富士吉田在住の方や一部の県内ファンを除いて、地元の観客は少ないと思われる。県外の方が多数になるだろう。少し寂しいが、もともと地元対象のイベントではないので、いちおう納得はできる。
 生演奏ではない、特別な催しがあるわけでもない、あえて言うなら、単なるDVDの上映会(「単なるDVD」でないことは繰り返し書いたが)に、800人の観客が交通費や宿泊費を使って富士吉田に来る。「桜の季節」に、「愛をこめて」、「遠くの町に」来る。志村正彦の故郷への旅。やはり希有なことで、志村正彦在籍時のフジファブリックに対する持続的な深い関心と強い支持があってのことだ。

 前回、ザ・ブーム、レミオロメン、フジファブリックの山梨発ライブについて書いた。特にザ・ブームの宮沢和史については世代的に近いこともあり、それなりの思い入れがある。
 実は、宮沢和史の生まれ育った場所と私の場所とはほぼ重なる。初期の名曲『星のラブレター』の歌詞を引用する。

  朝日通りは 夕飯時 いつもの野良犬たちが
  僕の知らない 君の話 時々聞かせてくれた

 
  年をとって生命がつきて 星のかけらになっても
  昨日聞かせた僕の歌 町中に流れてる


 私は小学生の頃まで「朝日通り」とその商店街の近くに住んでいたので、とても懐かしい所だ。甲府の中心からは少し離れてはいたが、「朝日シネマ」という映画館もあり、子供の頃通ったりしていた。宮沢和史が最初にギターを買ったという楽器店もあった。住宅街の中の商店街なので、華やかさはなく地味だったが、それなりの賑わいと身近な親しみがあった。今はさびれてしまったが、最近、若者たちが新たに店を構えるようになったのはたのもしい。「昨日聞かせた僕の歌 町中に流れてる」という歌詞の一節のような街の風景を取り戻してほしい。

 宮沢和史にとっての「朝日通り」に象徴される場、甲府駅のすぐ北西側に位置する商店街の街並みは、志村正彦にとっての「下吉田」やかつてそこにあった商店街に相当するのではないだろうか。昭和30年代、40年代頃まではまだ、「朝日通り」界隈には「路地裏」があった。郊外へと発展していった都市化の影響で、中心街とその中の住宅街の空洞化や弱体化が進み、結果として、「路地」や「路地裏」が消えていった。その現象は甲府だけでなく吉田でも起きたが、甲府よりやや遅れていたのだろう。1980年、昭和55年に富士吉田で生まれた志村正彦は、昭和の名残のある「路地」や「路地裏」を経験できた最後の世代だという気がする。

 宮沢和史の歌の原風景は、『星のラブレター』の「朝日通り」や『釣りに行こう』の甲府の荒川の源流など、山梨、甲府盆地の中にある。路地裏のような場と自然豊かな場の二つがある。彼は、その場所から、東京へ、そして沖縄やブラジル、世界へと旅に出て、音楽を創ってきた。
 志村正彦の場合、下吉田、「いつもの丘」、そして富士山の景観というように、やはり、路地裏のような場と自然豊かな場の双方がある。

 山梨に住む者にとって、街中の路地裏のような狭い場所から視点を少しずらして遠くを眺めると、向こう側に高峰の山々や雄大な自然が見えるという経験が日常的にある。もちろん、どこにでもこのようなことはあるのだが、山梨の場合、そのギャップが甚だしい。風景がワープするような感じ、とでも言えばいいのだろうか。私たちはもちろん「愛をこめて」その風景を眺めているのだが。
 この独特の風景の構成が、宮沢和史や志村正彦の歌詞の世界を根底から支えている。


2014年3月27日木曜日

三つのバンドの山梨初ライブ [志村正彦LN 75]

 フジファブリック『Live at 富士五湖文化センター 上映會』のチケットは、26日夜の時点ではまだ、チケットぴあのHPで購入できる。前回予想したとおり、先行予約分のキャンセルが出たようだ。御存じでない方、チケットを入手できなかった人のために、まずその情報を伝えさせていただきます。

 LN74で「春の名曲」ランキングに関連して、山梨が誇る「三大ロックバンド」ザ・ブーム、レミオロメン、フジファブリックのことに少し触れた。
 今回は、この三つのバンドがいつ山梨で初ライブをしているのか、メジャーデビュー後どのくらいを経っていたのかという点について書いてみたい。

 ザ・ブームは、1989年(11月下旬だった気がするが、もう25年前のことになるのではっきりとは思い出せない。間違えていたらすみません)、甲府盆地の南にある「風土記の丘」曽根丘陵公園の野外ステージで山梨初ライブを行った。この年の5月にメジャーデビューしているので、およそ半年後のことで、プロモーションとしてのライブだったと思われる。

 その頃の私の職場の同僚がザ・ブームのメンバーと高校の同級生で友達だった縁があり、私もその場に駆けつけることとなった。宮沢和史の言葉と楽曲も、バンドとしての演奏も素晴らしかったが、客は数十人ほどだった。山梨でもまだほとんど知られていない頃で、おそらくメンバーの知人や関係者だけが集まったのだろう。
 その後、ザ・ブームは順調に優れたアルバムを出し、『島唄』で大ブレイクしたのだが、私にとってのザ・ブームは、数十人を前に、熱く歌い奏でた1989年のライブの印象が強い。

 レミオロメンは、彼らのバイオグラフィーによると、2004年2月6日、山日YBSホール、「SPECIAL LIVE“朝顔”in 山梨」。ネットの情報によれば、このライブは応募制で350人ほどが来場したようだ。2003年8月にメジャーデビューしていて、およそ半年後なので、これもプロモーションのための限定ライブだろう。

 フジファブリックの初ライブは、言うまでもなく、2008年5月31日、富士五湖文化センター、「TEENAGER FANCLUB TOUR」。メジャーデビュー後、4年が経っている。志村正彦が語っていたように、「内輪」向けのライブやデビュー・プロモーションのためのライブではなく、「普通」のライブ、フジファブリックのファンが集う「通常」のライブを富士吉田で実現するために、これだけの年月を必要としたのだろう。志村正彦のストイックな姿勢がうかがわれる。
 故郷をあれだけ愛していながらも、故郷に甘えることなく、信念を貫いて音楽を続けていた。

  ザ・ブーム、レミオロメン、フジファブリックの音楽。宮沢和史、藤巻亮太、志村正彦の言葉の世界については、彼らの故郷の風景への関わり方の違いという視点をまじえて、稿を改めて論じたいと考えている。

 志村正彦が富士五湖文化センターライブにかけた想いの深さは、すでに映像となっているいくつかの歌と演奏、MCによってその一端を知ることができるが、私のようなあの日会場にいなかった者たちにとっては、今度のDVDや上映會によって、初めてその全貌が明らかとなる。   (この項続く)

2014年3月23日日曜日

「春の名曲」のオルタナティヴ [志村正彦LN 74]

 4月13日『Live at 富士五湖文化センター 上映會』のチケットを購入することができた。このためにSMAのモバイル会員となって先行予約をしたのが功を奏したようだ。と言うのも、どうやら、PIAの先行予約や一般発売ではほとんど入手できなかったようなのだ。これは複数の知人からの話だ。おそらくSMA会員の先行予約で予定枚数に達してしまったのだろう。あのホールの客席は800ほどで、絶対数が少ないことが原因だが、PIAの先行予約や一般発売で購入しようとした人にとっては残念な結果となってしまった。この上映會の意味合いからして、希望の方は全員入場できることが理想なのだが、準備の問題もあり、色々な制約があったのかもしれない。それでも、先行予約分のキャンセルが出る可能性もあるので、主催者にはそのあたりの情報を迅速に出していただきたい。

 4月13日の上映會まで、あと3週間。満員になることは間違いないようだ。志村正彦に対する根強い人気が確かめられて、率直にうれしい。集う人は、様々な想いを抱えて、上映會までの日々を過ごし、当日を迎える。年度末の忙しい時期だが、その日々がなんだか愛おしく、そして切ない。吉田の桜の開花がいつになるのか、そのこともしきりに気になる。

 一昨日、テレビ朝日『ミュージックステーション』の「春の3時間SP」番組で、「卒業,桜…1万人が選んだ春の名曲ランキング」が特集されていた。たまたま番組欄を見て、ユニコーンとあったのであわてて録画しておいた。あの『すばらしい日々』が50位に位置していた。この歌が「春」の曲なのか、という疑問は残るが、「別離」の歌ではあるので、「春」を想起させるものとしてランキングに入ったのだろう。「名曲」だということには誰も異論があるまい。多くの人と同様に私にとっても、『すばらしい日々』は奥田民生・ユニコーンの最高傑作だ。思いがけないことに、なんと、生演奏もあり、大収穫だった。

 この特番は、10代から60代の男女1万人対象のアンケートで選ばれた昭和・平成の春の名曲ランキング60曲を順に紹介していったが、特に上位の曲は予想通りというか、有名な定番ソングばかりが並んだ。意外だったのは、14位『3月9日』、39位『Sakura』と、ランキングの全60曲中、2曲もレミオロメンが選ばれていたことだ。

 山梨が誇る「三大ロックバンド」(古くさい言い回しだが、現実にそうなのでこの言葉にする)は、ザ・ブーム、レミオロメン、フジファブリックだ。フジファブリック・志村正彦は言うまでもないが、ザ・ブームとレミオロメンも、「山梨」という限定抜きで、広く「日本語のロック」の歴史の中で重要な位置を占める音楽家であることは間違いない。仮に、この三つのバンドが山梨出身でなかった(ドラマーを除くザ・ブームのメンバー、レミオロメンのメンバー、フジファブリックのオリジナルメンバーは「ALL山梨」だ。中学や高校の友人や仲間が結成したことも共通している)、私はその歌詞とサウンドから、この三つのバンドをかなり好きになったと断言できる。現実は山梨出身なのだから、故郷を同じくする者の音楽として、強く支持するようになった。だから、レミオロメンの作品が春の名曲60曲中2曲も入ったことは快挙で、素直に喜びたい。

 それでも、このリストを見るとどうしても、フジファブリックの『桜の季節』は絶対に入るはずはない、という想いにとらわれてしまう。レミオロメンが少しだけ羨ましくなる。最近のロックを愛する若者の間では「名曲」という評価もあるのだろうが、いわゆるヒット曲ではないので、リストに入る可能性はほとんどないが、志村正彦の構築した歌詞の世界が「春の名曲」「卒業・桜の名曲」とは相容れないことが本質としてある。

  フジファブリックは「オルタナティヴ・ロック」に分類されているようだが、『桜の季節』は、その語の本来的な意味の上で、「オルタナティヴ」な価値、「もう一つの、代わりの」というような「相対的な差異」ではなく、ある種の「絶対的な差異」を持つ、「春」の歌、「桜」の歌であり「別離」の歌でもある。これからも、そうあり続けるだろう。

 この歌はひそかに、しかし確実に、これからも聴き続けられるだろう。この歌に魅せられた人にとっては、春の到来、桜の訪れとともに、この歌を想いだし、この歌を反復するだろう。
 「桜が枯れた頃」の風景からのまなざし、志村正彦のまなざしを心の中に刻み込むだろう。   (この項続く)

2014年3月16日日曜日

「桜が枯れた頃」 -CD『フジファブリック』6 [志村正彦LN73]

 甲府盆地はここ数日でようやく春めいてきた。今後の気温上昇が予測され、桜の開花は例年並みとなるようだ。例年、甲府は3月末か4月初め、富士吉田は4月中旬頃なので、4月13日、『Live at 富士五湖文化センター 上映會』の頃には桜が咲き始めているだろう。

 本題に入る前に少しだけ余話を。昨日は、ヴァンフォーレ甲府の応援に小瀬のスタジアムまで出かけた。甲府サポの私にとっては、毎年、Jリーグの開幕が春の訪れを告げるものとなる。今回の開幕は、あの記録的大雪の影響で、1日の鹿島戦の会場が小瀬から東京の国立に移された。Jリーグ史上初の出来事だった。だから昨日がほんとうのホーム開幕戦となる。対戦相手は新潟。甲府サポーターが、あの大雪の際に「最強の除雪隊」を派遣してくれた新潟県への感謝を表す。山梨と新潟のエールの交換だ。
 クラブチームのサッカーは、様々な国籍、民族、人種の選手が共に力を合わせる場だ。「拝外主義」の対極にあるもので、それが魅力となっている。山梨の地でブラジルやインドネシアの選手がピッチに立つ。このような閉塞した時代では、そのこと自体にとても意味があるのだ。試合の結果は1対1の引き分け。勝機も充分にあったので残念だが、勝ち点1を得たことを喜ぼう。勝ち点1には「分かち合い」という美学と思想がある。

 『桜の季節』が、『桜並木、二つの傘』というもう一つの桜の歌と共に発表されたのは、2004年4月14日のことだ。十年経つが、この歌の独創性は色あせることがない。最近、ユニバーサル ミュージックから『SAKURA SONG ALBUM』がリリースされた。このアルバムは2000年以降の桜の名ラヴ・ソングが主に集められ、『桜の季節』も収録された。この盤はまだ未聴だが、おそらく、『桜の季節』は他の「桜ソング」とは際立つ差異を持っているだろう。志村正彦も定型的な歌にしないためにかなり力を入れて創作したに違いない。「桜ソング」という美しい歌の並木の中で、『桜の季節』は慎ましく、気高く、その姿を現している。屹立した一本桜。志村正彦にふさわしい絵図だ。

 この孤高の桜ソング『桜の季節』を1曲目にしたため、メジャーデビューCD『フジファブリック』はリリースされた。歌詞は次の四つのブロックから成り、第1と第2のブロックが繰りかえされる。

  桜の季節過ぎたら
 遠くの町に行くのかい?
 桜のように舞い散って
 しまうのならばやるせない

 oh ならば愛をこめて
 so 手紙をしたためよう
 作り話に花を咲かせ
 僕は読み返しては 感動している!

 oh その町に くりだしてみるのもいい
 桜が枯れた頃 桜が枯れた頃

 坂の下 手を振り 別れを告げる
 車は消えて行く
 そして追いかけていく
 諦め立ち尽くす
 心に決めたよ

 第1ブロックの言葉を、歌の主体「僕」の発話だと捉えてみると、歌の主体は、「桜の季節」が「過ぎたら」という時間を設定している。桜が花を咲かせる時ではない。桜の花が散る時でもない。桜の季節自体が過ぎてしまうという時の設定は、普通の桜の歌にはありえない。時間の捉え方が独創的だ。「桜の季節」「過ぎたら」、その未来に設定された時間の中で、主体は誰とも分からない他者に対して、「遠くの町」に「行くのかい?」と問いかける。そして、歌の主体「僕」は「やるせない」とも感じる。この感情は、「桜のように舞い散って」「しまうのならば」という未来の時間においてのある仮定を先取りする形で、歌の主体に訪れる。

 第3ブロックに入ると、歌の主体「僕」の相手である他者が「行く」「遠くの町」に「くりだしてみるのもいい」という、やはり未来の時間が仮定されているが、それは「桜が枯れた頃」という季節だ。この楽曲で最終的に歌われているのは、「桜が枯れた頃」、その季節の風景だ。その解釈は難しい。桜の「冬枯れ」の季節なのか、桜の樹そのものの「枯死」を迎える季節なのか。どちらにしろ、「桜が枯れた頃」の情景には、桜の「死」が濃厚に漂う。おそらく、「桜が枯れた頃」に「その町」に「くりだしてみる」のは不可能なのだ。すべては遅すぎる。歌の主体は「その町」にたどりつくことはできない。歌の主体は「その町」に住む他者と再び会うことはない。

 志村正彦の凄いところ、おそろしいほど深いところは、常にすでに、この「桜が枯れた頃」と指し示されるような時間からの視点、未来の無あるいは不在、究極的には死という視点から、歌が創造されていることにある。だからこそ、彼の歌には深い哀しみと儚さ、美しさと余白のように語られる愛の感触がある。

 商業音楽という制約が大きい場でそれを成し遂げたの希有なことだが、そのことの意味と価値はまだまだ理解されていない。彼の友人の音楽家、熱心な聴き手には共有されていても、いわゆる「音楽業界」の人、メディアやライターたちの中でほんとうに理解している人は少ない。紋切り型の業界用語やライター用語で語っているだけだ。ここ2年の間、集中的に様々な書籍、雑誌、webを見てきたが、一部の例外を除いて、志村正彦在籍時のフジファブリックの試みが正当に評価されているとは言い難い。70年代以降のロック音楽批評の衰退というか退廃については、別の機会でじっくりと論じたい。

 さらに書くならば、日本語のロックという枠組を超えて、近代詩・現代詩を含めた、日本語の歌、詩的表現の歴史の中で、志村正彦の作品は評価されるべきだと考えている。
 昨年の春、3月に始まった「志村正彦LN」も一年が経過し、今回が73回目となる。およそ5日に1回のペースで、初志は貫徹できていると思う。50,000ビューを超えることもでき、拙文を読んでいただいている方々には深く感謝を申し上げます。
 志村正彦の正当で正確な評価を求めて、書かねばならないことは沢山あり、様々なテーマを同時進行で準備中だが、一つひとつ丁寧に時間をかけてまとめ、掲載していきたい。

   (この項続く)

2014年3月9日日曜日

「僕ひとりから、誰かひとりに」 クボケンジ

 クボケンジは『言葉と魔法 クボケンジ詩集』(2011年4月30日、テンカラット刊 企画・編集江森丈晃)所収の 「クボケンジ インタビュー」で、自分の歌が誰から誰に向けられたものであるのかということについて、次のように述べている。

 どうしても僕ひとりから、誰かひとりに向けられたものになってしまうんです。

 確かに、「詞論5」の最後でも触れたように、初期から現在まで、歌の主体「俺」「僕」という「ひとり」が、「君」「あなた」という「ひとり」に向けて語りかけるのが、クボケンジの歌詞の物語の枠組みとなっていることが多い。このような歌の枠組みは普遍的にあるが、クボの場合、その必然の度合いが他とは異なる。『ソト』の該当箇所をもう一度引用してみよう。

 どこに隠れているんだい 出て来い俺の前に
 悲しみのトンネルは あとどれくらい
 くぐればあえる?


 歌の主体「俺」という「ひとり」が、どこかに隠れている対象である、「彼」か「君」か自分自身か、誰であろうとも、「もうひとり」に向けて、「出て来い俺の前に」と話しかけている。
 この『ソト』は、2002年リリースの『ギンガ』収録曲だから、クボの最も初期の歌だ。初期だからというわけでもないが、ここに登場する「俺」自身も「彼」も「君」も、具体的な人物像を欠いたきわめて抽象的な人物という気がする。全体が影絵のような世界のように感じとれると言っていいだろうか。この点について、クボは興味深いことを『言葉と魔法 クボケンジ詩集』のインタビューで、星新一のSF小説からの影響についてこう述べている。

 彼の作品は、状況は浮かぶんだけど、主人公の顔は浮かびそうで浮かばなくて、そこがすごく好みなんですよ。自分の歌詞でも、それほど人の顔は浮かんでこないし。すごく影響を受けていると思いますね。

 人物の具体性を省いた造形は意識的な選択であるらしい。だからクボの歌詞の場合、聴き手が人物像を想像して補填することになる。物語の展開についても、欠落や飛躍があり、様々な解釈が生まれる余白をあえて設けている。
 クボは、解釈は聴き手の自由であり、「音楽としては"どう聴かれても伝わるものになっているかどうか"というのが重要なんです」と確信をこめて語っている。自己表現としての歌ではなく、聴き手に「伝える」ことを重視した歌、聴き手中心の歌という点で、志村正彦の考え方とかなり重なる。クボと志村が親友であったのは、人間としての交流の次元だけでなく、歌詞の創作についての姿勢に根本的な共通項があったからではないだろうか。

 2月14日の渋公ライブでも歌われた『ビスケット』は、2012年発売の『ミュージックシーン』収録曲だから、『ソト』からは10年以上の時が経っている。
 『ソト』は「出かけようぜ」、『ビスケット』は「もっと 遠くまで」とあり、何かの旅立ちが歌の枠組みにモチーフになっていることは共通している。しかし、歌詞のモチーフそのものは異なる。この二つの歌は強引に接ぎ木する必要はないが、対象に対する歌の主体の関わり方にはある種の共通性がある。
  『ソト』には、「どこに隠れているんだい 出て来い俺の前に」とあるように、どこかに隠れている、今は見失われた対象が歌詞の背景にあり、『ビスケット』には、「あふれそうな I miss you」とあるように、失われた「you」の存在が歌の中心にある。歌詞の一節を引きたい。

 もういいや もういいや 君の夢でも みよう
 楽しい事 楽しい事
 肝心な時はやはり 出てきてもくれないか


 歌の主体は、「君の夢」を見ようと考える。しかし、「肝心な時」は「君」は「出てきてもくれない」。夢にも現れてこない。この「君」が誰であるのかは、歌詞の言葉からたどることはできない。先ほどの引用で「状況は浮かぶんだけど、主人公の顔は浮かびそうで浮かばなくて」と同様の世界が広がっている。歌詞の内部の次元では、「君」の像を限定することはできない。しかし、歌詞の外部、現実の次元、現実にクボケンジ自身が経験した出来事の次元にまで広げていけば、この「君」の像の中心に志村正彦が位置していることは間違いない。(すでに「LN30」で、「無意識の次元まで考えていけば、クボケンジの『ビスケット』の一連の言葉の流れから、志村正彦との関係の痕跡が浮かび上がってくるような気がしてならない」と書いたが、今回、クボの全作品をたどり直してみると、その感がさらに強まる)

 「僕ひとりから、誰かひとりに」というクボの自己注釈の「誰かひとり」は、失われている対象であることが多い。このモチーフは、クボの歌詞の変わらない部分を代表している。しかし、『ソト』に比べて、『ビスケット』では、「ひとり」の誰かが失われ、そのことによって、歌の主体が損なわれてしまった感覚がより強い。これは作者クボケンジの現実の変化に起因している。
 『言葉と魔法 クボケンジ詩集』のインタビューで、質問者(江森丈晃氏だと思われるが、明記されてはいない)の問いかけに対して、次のように応えている。

-これはとても訊きづらいことなのですが、ここまでの変化というのは、志村(正彦/フジファブリック)さんが亡くなられたことと関係していますか?

 ……関係しているというか、それがすべてなような気がします。……あれ以来、何もかもが変わってしまったようなところがあるんですよ。(略)……あの日を境に、空気が変わってしまったんです……。それに伴って、人生観も変わったというか、達観したような感覚があるんですね。……でもその感情を"悲しい"とか"寂しい"という言葉を使って歌うのはナシだと思ったから、歌詞だけ追ったのでは、誰もわからないようなものにはなっていると思います。前面に出しては歌いたくないんで。

 志村正彦の死という現実の出来事によって、「何もかもが変わってしまったようなところがある」が、志村正彦はクボにとっての「誰かひとり」という場に存在し続けることになった。志村の死は、彼の御家族や「大親友」クボにとっては、受け入れがたい現実であり、受け入れる必要はないとも考えられる(私たちのような単なる聴き手が言及できる事柄ではない)。
 受け入れがたい現実であるが、避けることのできない現実、不可避の現実でもある。
 この不可避の現実に向きあい、それでも、歌を紡ぎ出していくことは、形容しようもないほどに、辛くて難しい歩みとなる。しかし、『アポリア』以降、クボケンジ、メレンゲは、その困難な道を歩んでいる。
 もちろん、クボケンジ、メレンゲの聴き手は、志村正彦の死という現実を意識しても、意識していなくても、クボの言葉が伝えようとする「誰かひとり」を自由に解釈できる。そのような自由を保つためにも、クボケンジは、時間をかけて、あるいは時間と闘いながら、作品を創造し続けている。

 2月14日のクボケンジは、洒落た柄のリボンが付いた茶色のハットを被っていた。彼には茶色の帽子が似合う。その姿を見て、数日前に視聴した、フジファブリックの渋公ライブ映像(4月発売の「Live at 渋谷公会堂」DVD」[2006年12月25日収録]のMUSIC ON! TV 放送版)の志村正彦の帽子姿を想い出した。
 志村正彦が帽子(スタッフから借りたものらしい)を被ってステージに立ったのはこの時が初めてだったそうだ。茶色がかったグレー色に見える帽子だった。彼が持っていた十数の帽子の中では、中原中也の被った山高帽に似た黒い帽子が印象深いが、茶色の洒落たハットも、やわらかいあたたかい感覚があって、よく似合っている。

 クボケンジと志村正彦、2014年2月14日と2006年12月25日、渋谷公会堂で歌う二人の帽子姿。その像を頭に浮かべながら、3回続いたこの「詞論」、メレンゲ渋公ライブについてのエッセイを閉じることにしたい。

2014年3月2日日曜日

『Live at 富士五湖文化センター 上映會』 [志村正彦 LN72]

 4月13日(日)、富士吉田の「ふじさんホール」で、デビュー10周年記念『Live at 富士五湖文化センター 上映會』が特別開催されることが一昨日伝えられた。フジファブリックの公式WEBSITEによると、『FAB BOX Ⅱ』(4月16日発売、EMI Records Japan[ユニバーサルミュージック])リリース前の先行上映となる。

 翌日の14日(メジャデビュー10周年の記念日)には、『FAB MOVIE -劇場版-』という名の上映イベントが渋谷・横浜・浦和・名古屋・大阪の5会場の映画館で行われる。こちらの方は、『FAB BOX Ⅱ』の志村正彦在籍時のフジファブリックの映像と、『FAB LIVE Ⅱ』(5月21日発売、4月1日にSMEのレーベル8社は再編され、「ソニー・ミュージックレーベルズ」に統合される予定なので、このレーベルからのリリースになるのだろうが、現時点では不明だ)の現フジファブリックの映像をまとめた特別版らしい。

 4月13日富士吉田、14日渋谷・横浜・浦和・名古屋・大阪と、会場形式のビデオコンサートで「デビュー10周年」を祝福して、16日の『FAB BOXⅡ』発売を迎えることになる。ビデオコンサートの方は、4日から、"SMA☆アーティスト"会員限定でチケット先行予約の受付が始まるので、一連のイベントの企画・運営はSMAソニー・ミュージックアーティスツになるのだろう。

 今回のBOX版のリリースは、

 志村正彦在籍フジファブリック   『FAB BOX (Ⅰ)/Ⅱ』  EMI[ユニバーサル]

 現フジファブリック                        『FAB LIVE (Ⅰ)/Ⅱ』   ソニー・ミュージック

 というように、以前のものも含め、きれいに棲み分けされたことはファンとしては有り難いのではないか。志村正彦在籍時のフジファブリックのファン、現フジファブリックのファン、その二つを通してのファン、という三つの立場というか好みのようなものが現実にある。これは議論の余地がない「現実」だ。だからこそ、それぞれのファンのあり方が尊重されるべきだというのが私の考えだ。好みは自由であり、時と共に変化することもあるからだ。
 そして、レコード会社や音楽事務所は、志村在籍フジファブリックの音源や映像も、現フジファブリックの音源や映像も、需要のある限りは、誠実に制作し発売すべきだ。「私」企業ではあるが、音楽文化と芸術を支える「公」的立場もあるからだ。
 (私自身は、この「志村正彦LN」の内容からも自明なように、志村正彦の作詞作曲した歌と楽曲の世界に深い愛着と関心があり、それゆえに、志村正彦在籍時のフジファブリックを中心に聴いている)

 今回発売の『Live at 富士五湖文化センター』はDVDなのでいわゆる標準画質だ。2008年の収録なので、録画そのものはHD画質(ハイビジョン)で行われていると推測されるので、HD画質で編集完成させたヴァージョンがあり、それをダウンコンバートしてDVD版が製作されるのであればいいのだが。「ふじさんホール」は800席ほどのキャパシティで、「中ホール」位の規模があり、スクリーンもそれなりの大きさが必要となる。プロジェクターで投影する場合、上映素材の画質がとても重要になる。音響についても、当日の音量や音質を再現できるレベルの機材が必要となる。(私は博物館に勤めていた頃に、展示映像や記録映画の制作やホールでの上映会を担当していたので、このような問題が気になる)
 フジファブリックの公式WEBSITEには、「6年前に行われた実際のステージと同じ空間を共有しながら、ライブの空気感までも実感出来る、またとない貴重な時間をお楽しみください」と記されているので、映像や音響の機材や設備には大いに期待していいのだろう。

 『Live at 富士五湖文化センター 上映會』という文字を改めて見ると、「会」ではなく「會」の字が使われていることに気づく。現在の用字法では「上映會」の「會」は普通使われない。あえてこの字をあてはめたのは、2010年1月21日、中野サンプラザで営まれた志村正彦とのお別れ会『志村會』の「會」の字を受け継いでいるからだろうか。14日の全国5会場上映は「上映イベント」と名付けられているので、意識的に「會」を使用しているのは間違いない。もっとも、デビュー7周年記念日にあたる2001年4月14日に渋谷と大阪で開催された『フジフジ富士Q 完全版上映會』でも「會」が使われているので、今回が初めてではないが。「会」ではなく「會」なのは、追悼という意味を込めての用字法なのだろうか。
 

 しかし、一連のイベントを頭の中で整理できても、心の中の整理ができない方も多いのではないだろうか。
 特に、リアルタイムで彼に出会い、彼の音楽と人生を聴き手として共有していた方々にとっては、4月13日の富士吉田での上映會をどのように受けとめていいのか、複雑な心境の方が少なくないのかもしれない。
 このような機会が訪れたことへの喜びや感謝の反面、志村正彦の永遠の不在という現実を再び確認せざるをえないという哀しみと喪失感が交錯するような心情が察せられる。

 富士吉田の上映會に行くことを決めた人も、仕事や色々な都合で行けない人も、あえて行かないことを選択した人も、それぞれの想いで、この『Live at 富士五湖文化センター 上映會』という出来事を受けとめればよいと考える。
 私自身はチケットを入手できればぜひ出かけたいと考えている(チケットが手に入るかどうかが不安だが)。彼の音楽が再び「報われる時」を、あの場で同じ想いの人々と一緒に経験したいからだ。そして、その日の出来事について「志村正彦LN」にしっかりと書きとめておきたい。

 昨年は4月中旬、一昨年は4月下旬に富士吉田を訪れた。昨年は桜の開花が早く、4月中頃には市内の桜はほぼ散ってしまっていた。一昨年は逆にかなり遅く、下旬でもまだかなり咲いていた。数日前に発表された山梨の「さくら開花予想」によると、大雪等の影響もあり、昨年よりは開花が遅くなるようだ。そうであれば、4月13日頃には、富士吉田の桜は美しく咲いているのではないだろうか。
 桜の季節が過ぎてしまってもいいのかもしれないが、やはり、桜の花と春を迎えた富士山を背景に、志村正彦「一世一代」のライブの上映會が開催されることを願いたい。