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2014年1月13日月曜日

佐々木健太郎、甲府のハーパーズミルで。

 一昨日の11日夜、甲府のハーパーズミル(http://www.harmonicheart.com/ind.html)で、佐々木健太郎の弾き語り「真夜中の発明品 山梨編」を聴いた。アナログフィッシュのツインボーカル・コーラスの一人という立場の他に、一人の歌い手という立場を得て新たにデビューした彼は、ソロとしては初めて山梨で歌うことになった。

 昨年の桜座でのアナログフィッシュ&モールスの素晴らしいライブについては、下岡晃の『PHASE』を中心に、LN58, 59(http://guukei.blogspot.jp/2013/11/ln-58.htmlhttp://guukei.blogspot.jp/2013/12/ln-59_9442.html  )で記した。その時に触れることのできなかった佐々木健太郎の歌について、今回は書いてみたい。

 今後も、志村正彦の存在が座標軸の中心になることに変わりがないが、様々な音楽家の作品、歌詞の世界を取り上げていく場合、特にラベルをつけずに記事にしていきたい。(ただし、志村正彦との関係性が強い内容については、引き続き「志村正彦LN」内で記していく)

 会場のハーパーズミルは甲府の北西の郊外、愛宕山という小さな山というか丘の入り口にある。フォーク系のライブを聴ける場として、甲府でほとんど唯一の店だ。
 マスターの坂田ひさしさんは、東京でシンガーソングライターとして活動後、故郷の甲府に帰ってきて、1985年、カレーと珈琲の店「ハーパーズミル」を開店した。その店を会場に、友部正人や地元の音楽家のライブも始めた。彼自身も歌への想いが尽きることはなく、インディーズから3枚のCDを発表。店の前にレコーディングスタジオ兼ギャラリーも建て、若者たちの「自己表現の場」を提供した。
 ギターに親しんできた彼は、次第に製作も手がけるようになり、ここ十年近くは、フォークギターをの工房「SAKATA GUITARS」(http://www.sakataguitars.com/ja/)の仕事に打ち込んでいる。音楽の分かる製作家として、演奏家からの評価が高い。

 私もかれこれ二十年、特に友部正人が来る時にはほぼ毎回、ハーパーズミルに行き、坂田さんとも知り合いになった。他にも遠藤ミチロウや若き友の雨宮弘哲君(http://amemiyahiroaki.com/)など、記憶に残る数多くのライブがあった。
 普通の会場は「アウェイ」だが、ここは私にとっては「ホーム」とも言える会場。佐々木健太郎がやってくると知って、この日をすごく楽しみにしていた。(2014年は地元で行われるコンサート、特に志村正彦とゆかりのある音楽家のものにはできるだけ足を運び、この偶景webに書いていきたい。)

 6時過ぎに、黒色の帽子に黒いシャツとパンツ、深くてやわらかい眼差しの佐々木が現れる。30人位が入ると満杯になるこの店では、数メートルの距離感で歌を聴くことができる。小さな小さな会場の良さだ。あたたかい雰囲気に包まれる中、『いずる』が歌い出される。美しい声の響きと声量、ギターの力強さ。歌い手の上部はかなり高い吹き抜けの空間になっていて、小さな場にも関わらず、演奏に広がりがある。そして何よりも、歌の言葉が直接的に、深さと切れを持ってこちら側に伝わってくる。
 2月発売の新曲も披露されたが、アナログフィッシュの楽曲の弾き語りヴァージョンを主とする構成だった。そのスタイルゆえに、佐々木の歌の本質が顕わになる。
 アナログフィッシュの佐々木健太郎の「オルタナティヴ」なあり方として、ソロの佐々木健太郎が存在すると言えるだろうか。

 この日に備えて、ここ数日、アナログフィッシュの佐々木作詞曲を集中して聴いた。下岡の歌詞は鋭い社会性と批評性を持つ。それに比べて、佐々木の歌詞は、「恋愛」を巡るものや日常生活の「憂鬱」をモチーフとするものが多い。より私性の強い世界なのだが、佐々木の歌にも、下岡とは別の視点で、「私」を越えた「世界」への関心と「世界」に対する異和のような感性が歌われていることに次第に気づいた。
 アンコールの最後に、僕にとって大切な曲ですと紹介した上で歌った『アンセム』にそのことがよく表されている。

  つたえたい事は空にあって 両手広げて キャッチするが
  迷いながらいつも 迷いながら


 佐々木の歌は、歩行と探求の歌だ。歌の主体「僕」は、東京の街、時に故郷の長野の丘を歩きながら、「空」にある「つたえたい事」を得ようとする。それは「迷いながらいつも迷いながら」の彷徨だ。

  僕の体を駆け巡った 世界を彩るメッセージを
  探してるよいつも 探してるよいつも


 歌の主体は、「僕の体を駆け巡った 世界を彩るメッセージ」を常に探している。なぜ「僕の体」を駈け巡ることが必要なのか。そのような個の身体の経験を通じてしか、「メッセージ」が「世界」を彩ることはないからだ。そのような「メッセージ」を探すことが「僕」にとって生きることの意味だ。それはすぐには見つからない。たとえ見つかったとして再び見失われてしまう。「僕の体」には「駆けめぐった」痕跡が残っているのに、それはすでに通り過ぎてしまっている。
 この状況が具体的に指し示す事柄は、聴き手には分からない。作者の佐々木健太郎はそれを深い慎みをもって隠している。

  世界はまだ多分 抱き合いすらせず
  夜になっていた Oh,Yeah


 「世界はまだ多分 抱き合いすらせず 夜になっていた」というのは、とても美しく甘美で、とても残酷で絶望的なヴィジョンだ。「世界」は「抱き合い」すらせずに、そこに投げ出されている。人と人は出会い損ねる。時は無為に流れる。この歌では、「朝」「夜」「退屈な午後」「退屈な午前」「地球の午後」と、時を指し示す語が繰り返される。時の反復という日常で、「世界を彩るメッセージ」は遠ざかる。

  ハミングが溶けだす 地球の午後 Say hello
  悲しみもためらいも 追い越せる様に 歌を唄う


 「Say hello」、しかし、歌の主体は「悲しみもためらいも 追い越せる様に 歌を唄う」。これは倫理的な意志だ。「歌を唄う」こと自体が「世界」へのアンセムになる。

 ロックは、「世界」への通路を開く音楽だ。『いずる』から『アンセム』まで、2時間ほどのライブを通じて、佐々木健太郎は、フォークに近いスタイルを取りながら、あくまでロックを貫いていた。

【付記】 昨年の桜座「アナログフィッシュ&モールス」に続き、今回もすてきなライブを企画運営していただいた勝俣さん、ハーパーズミルの坂田さん、そして、心が動かされる素晴らしい歌と共に終演後に言葉を交わしていただいた佐々木健太郎さん、ほんとうにありがとうございました。甲府でこのようなライブがあることをとても幸せに思いました。次の機会が訪れることを待ち望んでおります。


【追加】 この記事の掲載時は「詞論」というシリーズで連載していく旨を記しましたが、その後、沢山の音楽家を取り上げていく展開になりましたので、このシリーズ名は設定しないことにしました。それに伴い、題名に付した通番を削除し、記事の一部を変えさせていただきました。内容の変更はありません。(2016.6.27) 
 

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