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2013年7月29日月曜日

「すりむいたまま 僕はそっと歩き出して」-『若者のすべて』5 (志村正彦 LN41)

 25日の夕方6時、富士吉田で『若者のすべて』のチャイムを聴いた。昨年12月のチャイムと同じものだが、季節や時が異なると聞こえ方が変わってくるのかに関心があった。
 LN3で書いたように、冬の『若者のすべて』のチャイムには、聴き手の側からすると、祈りにも似た想いにつながる、内省的な響きがあったのに対して、夏の『若者のすべて』のチャイムには、夏の空や雲、光、暖かい空気の感触にふさわしい、明るい開放的な響きがあったと、ここで伝えておきたい。今回は27日まで、富士登山競走、富士吉田市民夏まつりに合わせて、『若者のすべて』のチャイムに再び変更されたが、このまま、夏や冬のチャイムとして、季節の風物詩として、志村正彦の楽曲が使われることを願う。

 14日の新倉浅間神社でのイベントやNHK甲府の「がんばる甲州人 志村正彦」についてまだ述べたいこともあるのだが、ドラマ『SUMMER NUDE』の反響によって、歌詞サイトで1位に浮上するなど、今再び「ピーク」の季節を迎えつつある『若者のすべて』論に戻ることを優先したい。

 今回は、「僕」の「歩行」の系列の第2と第3のブロックを対象としたい。LN36で論じた第1ブロックを含めて、私が仮に名付けている「歩行」の系列の歌詞を、最初から最後まで引用する。

1.A)真夏のピークが去った 天気予報士がテレビで言ってた
    それでもいまだに街は 落ち着かないような 気がしている


  B)夕方5時のチャイムが 今日はなんだか胸に響いて
    「運命」なんて便利なものでぼんやりさせて


2 A)世界の約束を知って それなりになって また戻って

  B)街灯の明かりがまた 一つ点いて 帰りを急ぐよ
    途切れた夢の続きを取り戻したくなって


  C)すりむいたまま 僕はそっと歩き出して

 このようにまとめてると、「歩行」の系列のすべての輪郭が浮かび上がってくる。
 AメロBメロの第1ブロック、「真夏のピーク」、「街」、「5時のチャイム」とイメージを喚起させるモチーフの連なりに続いて、歌の主体は、「運命」という鍵となる言葉を紡ぎ出す。それを契機に、「最後の花火」の系列、サビの部分に転換するのだが、それが終わると再び、AメロBメロの第2ブロックに転換する。さらに、再度、「最後の花火」の系列、サビの部分に転換し、その後、Cメロの第3ブロックに転換する。「歩行」と「最後の花火」、この二つの系列の間の転換、言葉の往還が、やはり、この歌を独自なものにしている。

 世界の約束を知って それなりになって また戻って

 「最後の花火」の系列から、「歩行」の系列へと戻ってくるのだが、唐突に「世界の約束」という言葉が登場する。「世界の約束」とは、この世界の約束事、決まり事、抽象的に言い換えるなら、法、掟、規範のことであろう。若者がなすべき「すべて」の中の重要な一つとして、「大人」になることがあげられる。それは「世界の約束」を知ることであり、「それ」なりになることである。「それ」というのは「それ」としか言いようがないもので、大人は「それ」が何であるかを「それ」となく知っている。「それ」は、「それ」なりになることによって初めて、ほんとうに分かるような「それ」である。

 志村正彦は「それ」を抽象的な語彙ではなく、指示語の「それ」を使い、聴き手に伝えようとした。「それ」の指し示す内容はいっさい語らないことによって、聴き手が「それ」の指示内容をそれぞれ埋めるようにして、解釈が進んでいく。
 また、「それなりになって」「また戻って」という相反する動きをさりげなく語っている。「それ」なりになったかのようでも「それ」になりきれなく、時には「それ」から「それ」以前の段階へと戻ってしまう。「若者」はそのようにして、行きつ戻りつ「往還」して、歩んでいく。

 街灯の明かりがまた 一つ点いて 帰りを急ぐよ
 途切れた夢の続きを取り戻したくなって


 「街灯の明かりがまた 一つ点いて」という「街」の光景が描かれる。「夕方5時のチャイム」が鳴った時点から、どのくらいの時間が経ったのか、歌詞からは確かめようもないが、「街灯の明かりがまた 一つ点いて」とあるので、少しずつ街灯が点灯し、「帰りを急ぐよ」とあるように「帰宅」「家路」を意識するような時間の推移の感覚は、以前、LN2「冬の季節の『若者のすべて』」で書いたように、冬に最もふさわしいような気がする。その際の言葉を引用する。

日の短い、すぐに暮れてしまう冬の季節に、私たちはそれぞれの場所に帰りを急ぐ。この歌にはもともと多層的な響きがある。『若者のすべて』の「すべて」には、夏も冬も含すべての季節感が込められているのかもしれない。

 「途切れた夢の続き」は、定型的な表現とも言えるのだが、「取り戻したくなって」という述語と重なると、定型から離れていく。「途切れた夢の続き」を「見る」「見たくなって」であれば、平凡な表現になるが、「取り戻したくなって」は独特である。「取り戻したい」というのは、一度獲得したが失ってしまったものを再獲得したいという、歌の主体「僕」の強い欲望を表す。

 この一節の後に、「最後の花火」の系列、サビの部分が入ってくるので、歌詞の流れからすると、「最後の花火」の系列で歌われる「出会い」あるいは「再会」が、「途切れた夢の続き」の実質であると解釈されるのだろうが、それとは異なる解釈もあるような気がする。それが何かということは分からないままなのだが。
 また、この夢というのは、そのことを実現したいという現実の欲望の対象としての夢と睡眠中にみる無意識の欲望を示す夢という、二つの夢が複合されている、と私は考える。

 すりむいたまま 僕はそっと歩き出して

 Cメロの部分、この一節で、「歩行」の枠組みは閉じられるが、ここで初めて、語りの枠組みを支えている話者であり歌の主体である「僕」が登場することに注意したい。
 「すりむいたまま」というのは定型的な比喩表現であり、すりむいたまま、小さな傷を抱えたまま、癒える時を待つ間もなく、というのは若者の生によくある光景であるとも言えよう。しかし、「そっと歩き出して」という表現の「そっと」という副詞、「歩き出して」という接続助詞「て」で締めくくられる動詞の表現は、非常に繊細で巧みに、歌の主体「僕」の「歩行」への意志を語っている。
 志村正彦は、『音楽と人』2007年12月号所収の樋口靖幸氏による取材で、『若者のすべて』について次のように述べている。

一番言いたいことは最後の〈すりむいたまま僕はそっと歩き出して〉っていうところ。今、俺は、いろんなことを知ってしまって気持ちをすりむいてしまっているけど、前へ向かって歩き出すしかないんですよ、ホントに。

 

 この注目すべき発言から、ABCメロの歌詞、「歩行」の系列が、志村正彦にとって非常に切実なモチーフだったことが伺える。『若者のすべて』の歌詞全体の中で、「すりむいたまま 僕はそっと歩き出して」が一番言いたかったことだとすると、これまで「最後の花火」を巡るモチーフを中心に読まれてきたこの歌の解釈そのものが問われることにもつながる。実は、『音楽と人』2007年12月号に、『若者のすべて』の記事があることを知り、古書を入手し、こ の文を読んだのは二日前のことだった。「歩行」の系列を重視するという私の読みが志村正彦自身の言葉で裏付けられた気がした。

 私が「志村正彦ライナーノーツ」を書く際には、作品の言葉そのものに向き合い自分自身で考える、という姿勢を基本として貫きたいと考えている。ある程度まで書き進めるまでは、作者のコメントやライターの記事などはあえて読まないようにしている。そうすることによって、解釈が限定されてしまう恐れがあるからだ。しかし、文を公開するために原稿を完成させる段階では、参照すべき資料は参照し、自分自身の論との対話を試みる。今回もそのように作業を進めたのだが、思いがけなく、重要な資料と出会うことができた。樋口靖幸氏によるこの記事は非常に興味深い証言となっているので、最後の方で再び触れることにしたい。

 志村正彦は、『若者のすべて』の作者として、「いろんなことを知ってしまって気持ちをすりむいてしまっているけど、前へ向かって歩き出すしかないんですよ」と、正直にそして自分に言い聞かせるようにして、自分の心情と決意を述べている。「いろんなことを知って」が具体的に何を指しているのかは分からない。また、「前へ向かって」がどのような方向を示しているのかも抽象的にしか理解できない。しかし、『若者のすべて』の主体「僕」にとっては、「すりむいたまま」「途切れた夢の続き」を取り戻すための歩みであり、そのようにして前へ向かって歩き出そうとしている、と解釈することができる。作者の想いは、歌に表現されることで、より限定した意味を帯びてくるからだ。

 私たちが夜経験する「途切れた夢」は、とても儚く、時に恐ろしく、時に甘美だ。途切れてしまったからこそ、心の余白にいつまでもこびりつく。現実的な願望の対象としての「途切れた夢」は、時に執拗にその成就を私たちに求める。それは欲望の源になるが、同時に辛さの源にもなる。「途切れた夢の続き」という言葉は、『若者のすべて』の一節を超えて、志村正彦の音楽活動の歩みのすべてを凝縮しているように私には感じられる。

2013年7月24日水曜日

続、時代が追いついてきた。 (志村正彦LN 40)

 LN38に引き続き、それ以降の志村正彦関連の話題を追っていきたい。

 16日、『山梨日日新聞』第1面のコラム「風林火山」。LN38で紹介した「白球の夢 半世紀」という連載に触れて、「少年野球時代の光景を楽曲にした人気ロックバンドのボーカルも、県大会には出場できずに悔し涙を流した。29歳で他界。都内のマンションには、小学生時代に使っていた父から贈られたグラブやバット、新聞記事が大切の保管されていた」と書き、「楽しいこともつらいことも、全力を尽くせばすべてが宝物になる。野球に限らず、好きなことを見つけて真剣に取り組むことの大切さを、先輩たちの言葉や姿が教えてくれる」と結んでいた。

 16日の夜、渋谷で、GREAT3とフジファブリックの対バンライブが行われたが、ROロックのライブレポート「2013.07.16 GREAT3×フジファブリック @渋谷クラブクアトロ」( http://ro69.jp/live/detail/85367 )で、片寄明人が「そんな志村正彦くんに捧げる曲を作りました』と述べてから『彼岸』が演奏された、ということを知った。
 5月23日の新宿ロフトのライブでは、「志村正彦」という名は出さなかったが、今回はフジファブリック・ファンも多かった故、「志村正彦」という名をはっきりと打ち出したのだろう。セットリストも記され、「彼岸」の次に「綱渡り」が歌われたそうだ。「彼岸」「綱渡り」は、5月23日にもこの順で演奏されていたので、一つの組曲のように扱われているようだ。

 22日、フジテレビ月9のドラマ『SUMMER NUDE』第3回の冒頭で、前回のシーンをまとめた映像に合わせて、フジファブリック『若者のすべて』(志村正彦作詞・作曲)が再び放送された。今回はタイトルバックということもあって、Aメロ、Bメロ、途中省略して最後のサビ「最後の最後の花火が終わったら  僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ」と、1分30秒ほどの短いヴァージョンに編集されていた。最後のサビの部分がこの物語の展開の鍵となるようなので、このような短縮版も頷ける。
 また、プロデューサーの村瀬健氏がtwitterで、「路地裏の僕たち」の一人「kazz3776」さんからのメッセージに、「月9『SUMMER NUDE』でフジファブリック「若者のすべて」を主人公の思い出の曲として使わせて頂いております。志村さんの歌声が世界中に響き渡れば…と思います。」と応えてくれたことも、とても嬉しい。

 23日の夕方、NHK甲府放送局の「まるごと山梨」というニュース(午後6:10~7:00)の「がんばる甲州人」というシリーズで、「ロックミュージシャン志村正彦さん」「多くの人に生き続ける」という題と内容の番組が放送された。本編は8分程、司会者による前後のコメントを併せると10分程の長さであったが、担当ディレクターによる丁寧な取材に基づいて、内容、構成もよく考えられたものであった。
 NHKローカル局を含めて地元の放送局で志村正彦がまとまって紹介されたのは、初めてのことである。彼については、地元紙『山梨日日新聞』がシリーズものとして連載したり、系列のYBSテレビが志村展をニュースで報道したりするなど、継続的に扱ってくれて、とても有り難かったのだが、それ以外のメディアや地元放送局が彼を取り上げることはほとんどなかった。(富士吉田のCATV局はニュースにしてくれているが)彼自身が地元メディアに対してあまり宣伝をしないストイックな姿勢を貫いていたこともあるが、それ以上に、山梨という風土が文化や芸術についてあまり感度が高くないことが要因としてあげられる。

 だからこそ今回、NHKの甲府放送局が、今でも「多くの人に生き続ける」という視点で、志村正彦の軌跡と現在の地元でのムーブメントを取材してくれたことは、新しい動きとして特筆すべきである。実は、ディレクターからの依頼で私自身も少し出演しているので、ある意味で当事者の一人であり、第三者的に言及するのはフェアでない気がするが、これまであるようでなかった、というか、あるべきなのになかった、地元局による志村正彦の番組が制作され放送されたということ自体は、大いに評価されるべきだと考えている。(この番組の内容については、稿を改めて、書くことにしたい)

 地元山梨もようやく、 志村正彦に追いついてきたようだ。

2013年7月21日日曜日

涙 (志村正彦LN 39)

 14日、「いつもの丘」にある新倉浅間神社の神楽殿で開催された、志村正彦に関するイベントから1週間が経つ。その日のことを書き記しておきたい。
 当日は、例年より蒸し暑い富士吉田となっていたが、その数日前までの山梨全体の猛暑に比べれば幾分か過ごしやすかった。心配していた雨も途中で少し降っただけで、何とか終了まで持ちこたえることができた。

 夕方5時過ぎ、「志村正彦を歌う会」に引き続き、「路地裏の僕たち」の企画によって、当日の参加者、ファンに宛てた志村正彦の御家族からの手紙が代読された。遠くから訪れていただいた方々への御家族からの丁寧な感謝の言葉と、志村正彦の御友人からの手紙の文面が紹介された。御友人の手紙では、2006年7月頃に、「地元にいつか帰りたいけど、しっかり音楽で恩返しできるまで帰れない。いつかは地元でスタジオを開いて、若いミュージシャンを迎えてあげたい」という夢を語っていたという事実が告げられた。

 昔から、東京に近いこともあって、富士吉田に近い河口湖や山中湖にはスタジオが多い。彼が元気でいれば、手紙で書かれていた通り、いつか「志村スタジオ」を作り、そこで音楽作りに専念できたかもしれない。
 欧米では、年齢が三十代半ばを過ぎる頃になると、バンド活動に終止符を打ったり休止したりして、ソロとなり、いつもと異なるミュージシャンを集め、アルバム作成に時間をかけて、作品中心に発表するロックアーティストがいる。また、自分自身のスタジオをつくったりレーベルをつくったりすることも多い。敬愛するピーター・ガブリエルがその良い例である。

 志村正彦も、そのような形で、熟成した音楽を作り、志のある若手を支援する夢を持っていたのだろう。成就しなかった夢を後になって知るのは、たとえようなく哀しい。そんな想いに沈んでいる内に、2005年、FM東京で放送された志村正彦のトークとスタジオで演奏された『茜色の夕日』アコースティックヴァージョンが披露された。

 誰もいない神楽殿の舞台。そこには愛用のギターやアンプがあったのだが、舞台上のスピーカーから、彼の言葉が流れてきた。シングル発表直後ということもあって、明るい感じの声だったが、逆に、そのことが彼の不在を際だたせていた。アコースティックの『茜色の夕日』は、繊細で揺れるような声で「おだやかな哀しみ」とでもいうべき想いを歌い上げていた。

 私も、ある想いに捉えられていた。いつもなら、そのような想いを捉え直し、言葉にすることで、想いと距離を置こうとする自分がいた。しかし、あの時は、そのようなことはできず、涙が少しずつあふれてきた。
 今、「いつもの丘」で、『茜色の夕日』の声が響いている。声はあるのに、彼はいない。突然の身体の異変が彼の命を奪ってしまった。どうしてなんだ。どうしてなんだ。こんな現実があっていいはずはない。あってはならない。
 しかし、彼の不在、絶対に変えることのできない現実がそこにはあった。そのような現実への涙だった。

2013年7月16日火曜日

時代が追いついてきた。 (志村正彦LN 38)

  志村正彦の誕生日7月10日から1週間も経たない内に、彼に関する様々な催しや出来事があった。今回からしばらく、『若者のすべて』論から離れて、幾つかの事柄に関して書いていきたい。まず、出来事を列挙してみよう。

 10日から14日にかけて、富士吉田市の若手職員プロジェクトによって、富士吉田市の夕方6時のチャイムが、志村正彦作詞作曲の『茜色の夕日』に変更され、あの美しく切ないメロディが故郷の空に響き渡ったこと。

 13日下吉田倶楽部、14日新倉浅間神社「いつもの丘」で開催された「志村正彦を歌う会」で、沢山のアマチュア・ミュージシャンが志村正彦の作品を歌い奏でたこと。
 この会の最後に、志村正彦のご家族からのメッセージが代読され、続いて、ほとんど知られていない『茜色の夕日』のアコースティック音源と歌についてのコメント(FM東京で録音、放送されたもの)が再生されたこと。

 15日、『山梨日日新聞』の『白球の夢半世紀 山日YBS杯県少年野球』という連載の最後となる第10回で、沢登雄太記者が(彼は志村正彦・フジファブリックについて書き続けている「志」の高い記者だ)ご両親への取材に基づいて、『宝物の思い出を歌に』と題して、志村正彦と少年野球を巡るエピソードや『記念写真』などの野球をモチーフとする楽曲について書いた記事が掲載されたこと。

 15日の夜、フジテレビ月9のドラマ『SUMMER NUDE  サマーヌード』で、フジファブリックの『若者のすべて』(志村正彦作詞・作曲)が放送されたこと。それも単なるBGMではなく、プロデューサーの村瀬健氏がtwitterで、「『若者のすべて』この曲がすべてを変えてしまいます…最後まで見逃さないでください! 」と述べているように、このドラマの展開の鍵となる曲であるらしいこと。(志村は映画好きだったから、どんなに喜んだことだろう。そして、自分の歌についての「自信」を持ったことだろう)

 私自身も、縁あって、2011年12年と志村正彦展を主催している、彼の同級生や先輩後輩たちが集う地元のグループ「路地裏の僕たち」の支援係として、今回富士吉田で行われたイベントの準備や裏方を務めた。昨日は、そのことを通じて感じ考えたことの下書きをしている内に、山日の記事が届けられ、月9ドラマに『若者のすべて』が使われたという話題が飛び込んできた。さて、どのことから書けばいいのか、まさしく「嬉しい悲鳴」をあげてしまったが、一つ一つ、少しずつ、追っていきたいと考えた。

 富士吉田で行われたイベントに来た人の多くは、すでに志村正彦に出会った人々であったが、中には地元の人を中心に、今回のイベントを機に、彼に興味を持ち、彼の歌を知るために訪れてくれた人々もいた。また、山日の記事、少年野球という切り口から、志村正彦の存在を知った人々もいるだろう。ドラマ『SUMMER NUDE』から、『若者のすべて』を通じて、新たに彼の歌と出会う人々も増えてくるだろう。

 志村正彦は、14日の新倉浅間神社で再生された音源でも、『茜色の夕日』について、言葉は同じなのに、歌の解釈は時の経過と共に異なってくるという意味のことを述べていた。『若者のすべて』のライブMCでも同様のことを語っている。歌詞の意味が限定されていなくて、聴き手と共に、時の経過や聴き手の経験の深まりと共に、その解釈が変化していく、多様性と豊かさのある歌、聴き手中心の歌を、志村正彦は創造してきた。おそらく今、時代はこのような歌を求めている。

 彼が亡くなって3年半が経つが、むしろこれから、志村正彦の作品は、より多くの人々に聴かれるようになるのではないか。そのような想いの中にいる。(端から見ると、「願望」のように「妄想」のように思われるかもしれないが)
 時代が志村正彦の作品に追いついてきた。今日は、そんな言葉をここに書き記したい。

2013年7月7日日曜日

「ないかな ないよな きっとね いないよな」-『若者のすべて』4 (志村正彦LN 37)

今回は、第2ブロック、サビの部分を考察したい。

 最後の花火に今年もなったな
 何年経っても思い出してしまうな


 第1ブロック、A・Bメロの部分を受けて、「最後の花火に今年もなったな」と歌い出される。歌詞の文脈からいえば、《僕》が繰り返し想いだすある出来事、「夕方5時のチャイム」に直接あるいは間接的に関わり、「運命」を感じさせるような出来事は、「最後の花火」に関わる出来事だったことになる。

 LN34で述べたように、第1ブロック、A・Bメロの部分、歌の主体《僕》の歩行をモチーフとする部分と、第2ブロック、サビの部分、「最後の花火」のモチーフの部分とは、本来、異なる曲だったようだ。その二つの曲、特に歌詞がどの程度できあがっていたのかを知る術はない。これはあくまで私の推測だが、この二つのモチーフがつながったのは、曲作りの過程でのことだったのではないだろうか。完成された『若者のすべて』において、《僕》の歩行のモチーフと「最後の花火」のモチーフとは、上手く接合されているようで、充分に接合されきってはいないからだ。私にはそう感じられる。

 そしてそのことが、『若者のすべて』の解釈の難しさ、あるいは、LN6で触れたように、志村正彦が両国国技館ライブで『若者のすべて』を歌う前のMCで述べた「解釈が違うんですよ 同じ歌詞なのに」という言葉につながっているのだと思われる。この論ではひとまず、接合されていると仮定して分析していくが、最後の方で、接合されていないと考えた場合の解釈を付加したい。

 ここで一端、歌の構成の問題から離れて、歌詞についてかなり具体的な指摘をしたい。この「最後の花火」は、富士五湖の一つ河口湖で毎年開かれる「湖上祭」の「花火」をモチーフとしていると言われている。本人が明言したことはないようだが、富士吉田で生まれ育った志村にとって、夏の「最後の花火」というモチーフに直接的間接的に河口湖の花火が関わっていると受けとめてもよいだろう。そういう前提のもとに、山梨の在住者として少し説明したいことがある。

 富士五湖の花火大会は、毎年8月1日の山中湖から始まり、2日西湖、3日本栖湖、4日精進湖と続き、5日の河口湖で終わりとなる。富士五湖の夏の風物詩で、実施日と湖はいつも1日から5日まで固定されている。だから毎年、河口湖の花火は、富士五湖の花火の中の「最後の花火」であるという事実だ。通常、「最後の花火に今年もなったな」というのは、2時間ほど続く花火大会の最後を飾るフィナーレの花火を指しているのだろうが、「最後の花火」が河口湖の花火大会そのものを暗に示している解釈の余地もあることになる。通常の解釈を取ったとしても、「最後」という言葉には、残像のようなものとして、河口湖の花火の記憶が刻印されていると考えてもよいだろう。

 河口湖は、志村正彦の生まれ育った場所からは自転車に乗って二十分ほどで着く距離にある。湖上の花火は、湖の水面に光が反射し、特有の美しさを持つ。志村正彦も小さい頃から何度も出かけたことがあるのだろう。家族や「路地裏」や学校の友達と共に。思春期に入れば「それなりに」異性の友達と一緒に行ったことがあるのかもしれない。そしてその経験の中で「何年経っても思い出してしまう」ような出来事があったのかもしれない。特に河口湖の「湖上祭」花火大会の最後、つまり「最後の最後の花火」は、毎年、「ナイアガラ」という数百メートルの幅を持つ「光の滝」が湖面に降り注ぎ、白い光の帯が輝く。華やかな光が尽きると、花火大会も終わりとなる。

 第2ブロック、サビの部分は、歌われる物語の流れから言えば、ここで回想が始まり、現在という時から過去の時へと、時の主軸が移る。また、都市から故郷へ、街路から自然の豊かな場へと、場も転換する。そのように解釈する場合、第1ブロックと第2ブロックとは、ある種の「転換」によって接合されていると考えられる。
 続いて、『若者のすべて』中でも最も印象深い一節が歌われる。

 ないかな ないよな きっとね いないよな
 会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ


 「ないかな」「ないよな」と「ない」が二つ重ねられる。しかし、いったい何が「ない」のか。それがわからないまま「きっとね」を挿んで、「いないよな」に続く。「いない」のならその主語は人、誰かということになる。続く行で、「会ったら言えるかな」とあるので、その「いない」と思う誰かは、歌の主体《僕》にとって出会ったら何かを言えるか困惑するような相手、普通考えるなら、恋人のような大切であった存在のことであろう。そして、その場面全体を「まぶた閉じて浮かべている」と歌っている。

 そうであるのなら、この一節をもとに戻ると、「ない」の主語は、誰か大切な人との再会するという出来事になるかもしれない。「再会する」ことが「ないかな」となり、「再会する」という意味の言葉が省かれていることになる。あるいは、「いること」が「ないかな」つまり「いないかな」の「い」が省かれた形とも考えられる。

 例えば、この歌詞を「また会えないかな」「彼女いないよな」などと綴ったとしたら、その凡庸さによって、耐え難いつまらない歌になってしまっただろう。再会することが「ない」あるいは誰かが「いない」、出来事の否定、人の不在、そのどちらにしても、「ない」という否定形の反復とその対象の省略という話法によって、この歌は独創的なものとなっている。その否定に、「…かな」「…よな」「…ね」「…よな」という、否定しきれない、《僕》の戸惑いや未練を示す助詞をつけることで、曖昧さとある種の迂回が付加される。

 歌われている物語は、「まぶた閉じて浮かべているよ」とあるように、閉じられたまぶたの裏側にあるスクリーンに投影されている出来事のようだ。そしてすべてが、歌の主体《僕》の夢想であるようにも感じられる。

 純粋な響きの問題にも触れたい。「ないかな ないよな きっとね いないよな」の一節には、「な…」「な…」「…な…」の不在を強調する「な」の頭韻と、「…かな」「…よな」「…よな」の「な」の脚韻がある。「な」の頭韻には強く高い響き、「な」の脚韻には柔らかく低い響きがある。「な」の音の強さと柔らかさが、縦糸と横糸になって織り込まれているような、見事な音の織物になっている。
 この第2ブロックには、その話法にしろ、音の響きにしろ、志村正彦にしか為しえないような、極めて高度で複雑な表現が使われている。