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2013年4月5日金曜日

『ペダル』1「消えないでよ」(志村正彦LN12)

  前回書いた志村正彦の変化を具体的に表している曲を探してみた。例えば、『TEENAGER』冒頭の『ペダル』はどうだろうか。この歌には、話者と主体としての「僕」が登場するが、最初に「僕」が見つめる「花」が視界に浮上する。

  だいだい色 そしてピンク 咲いている花が
  まぶしいと感じるなんて しょうがないのかい?


 「だいだい色 そしてピンク 咲いている花」は、例えば「桜」や「金木犀」のような名のある花、季節感と結びついた花、時には季語的な言葉と一体化している花ではなく、おそらくありふれた花あるいは逆に名も知らないような花であろう。このような花を描いたこと自体が、作者の変化の兆しを示している。

 彼には独特の色彩感を持つ歌があるが、この作品もその系譜の一つである。「まぶしい」と感じる色と光の小さな氾濫に、「花」も「僕」も包まれているようだ。「しょうがないのかい?」という問いかけは、おそらく自分自身に向けられたものであろうが、意味も文脈も分かりにくい。歌詞には書かれていないがこのフレーズに続く、「オオ、アーアーアー、アーアーアー」という、戸惑いのような嘆きのような声とあいまって、聴き手に、意味にはなりきれないような、それでも意味がこめられているような、不思議な意味の感覚をもたらす。

  平凡な日々にもちょっと好感を持って
  毎回の景色にだって 愛着が沸いた


 「平凡な日々」「毎回の景色」に対する「好感」や「愛着」。日常の出来事や風景に対する親しみ、和解のようなものが伝わってくる。これはあくまで歌詞の中の話者であり主体である「僕」の想いであるが、この「僕」が、現実の志村正彦の分身であることは確かなことのように、私には思われる。「平凡な日々」「毎回の景色」に対する「好感」や「愛着」が、志村が追い求めた「リアルなもの」の枠組みにも入ってきた。そのことが率直に「僕」を通して語られている。このような変化が作者に訪れたのである。

 しかし、「平凡な日々」は定型的な表現だろうが、「毎回の景色」の方はそうではない。「毎回の」という修飾語にには定型から離れようとする意図がある。志村正彦は日常に好感を持って接し始めているが、その日常の捉え方や切り取り方には彼らしい独特な感性があり、言葉もかなり吟味されている。それをよく表しているのが、続くフレーズである。

  あの角を曲がっても 消えないでよ 消えないでよ

 「消えないでよ」という謎めいた表現がいきなり登場する。いったい何が「消えないで」なのか、分からない。「あの角」も具体的な像が浮かばない。通常の流れを考えると、「まぶしいと感じる」「だいだい色 そしてピンク 咲いている花」が「消えないで」ほしい対象と考えられるが、「花」に限定しまっていいのか、心もとない。あるいは隠喩と考えるのなら、「虹」のようなものか、あるいは「平凡な日々」や「毎回の景色」という出来事や風景、そこにうつりゆくものなのか、あるいはそれらの対象をすべて包み込むような何かなのか。

 聴き手がそれを絞りきれないまま、「消えないで」ほしい対象への「僕」の強い想い、その対象に対する呼びかけとそのリフレインが、聴き手の心にこだましてくる。分からないままに、「消えないでよ」という言葉そのものが「リアルなもの」として響いてくる。「消えないで」と願う対象をあえて明示しないことが、歌詞の中の空白部をつくり、聴き手の想像を広げるような作用をしている、とひとまずは言えるだろうか。
(次回に続く)

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