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2013年4月28日日曜日

聴き手中心の歌(志村正彦LN 22)

 前回、『茜色の夕日』に関連して言及したことについて、もう少し書いていきたい。
 志村正彦の場合、自分自身を、自分の歌の第一の聴き手として歌を作り上げていくというスタンスが、他の歌い手に比べて際立っている。なかなか適切な言葉が思い浮かばないのだが、仮に、彼の歌のあり方を「聴き手中心の歌」と名づけよう。
 日本の音楽シーンの中で、歌い手中心の歌、歌い手が歌いたいものを作るというスタンスではなく、聴き手中心の歌、聴き手が聴きたいものを創造するというスタンスを、志村正彦は徹底させたのではないだろうか。その聴き手中心の歌というのは、まず第一に自分自身を聴き手とするものであるが、自分に閉じられていくのではなく、むしろ、より普遍的な聴き手を対象とするものである。

 彼は、『bounce』259号(2004/10/25)の久保田泰平氏とのインタビューで、メジャーデビュー作『フジファブリック』について次のように語っている。(http://tower.jp/article/interview/2004/11/11/100039281

「いろんな人に聴いてもらいたいと思ってますからね。無理矢理聴いてもらう、っていうのじゃなくて。音楽性は豊かだけど音楽に詳しいような人しか聴かないバンドって、すごいと思うけどなりたいと思わない。それこそ高校生の人にも聴いてもらえて、音楽としてもちゃんとしてるっていうのが理想だと思ってます」

 この発言から分かるように、彼が求めたものは、聴き手を限定するものではなく、彼の歌をまったく知らない人にも聴いてもらえるような音楽であった。彼はおそらく普段ロックを聴かないような人に自分の歌を届けたかったはずだ。聴き手中心の歌というのはこのような意味の歌である。それは、聴き手に迎合するのでもなく、聴き手の好みにあわせるのでもなく、端的に言えば、流行りのもの、ヒットしそうなものを追求するのでもない。

 最近の日本のロックやJポップは(「最近の」という漠然とした言葉であるが、具体的な作品を示す意図はないのでこのように書く)、聴き手に届いていかない歌が多いような気がする。あるいはもともと届ける気などない、ただ単にビジネスとして、生産され消費される歌が多すぎる。そのような傾向が、ビジネスとしての音楽の衰退を招いていることは間違いない。

 そのような状況下で、優れた作品を作り続けている音楽家もいるが、ビジネスとして成立するかどうかというという境界線で、苦しい立場に追い込まれているようだ。しかし、インターネットという環境の中では、ビジネスが縮小しても、コストを削減することで、音楽の伝達が成立する可能性があることは、一つの希望であり、今後ネットを利用する方法はさらに発展していくだろう。
 また、聴き手の立場からすると、「現在のシーン」を追いかけるという呪縛から離れて、過去の音源、日本語のロックの半世紀近い歴史とその蓄積からなる作品群を主体的に聴いていく方向がある。この方向はこれからますます強くなっていくだろう。

 現在の「メジャー」なアーティストは、ネットを使う「マイナー」なアーティストと過去の「メジャー」さらには「マイナー」なアーティストという二つの方向から追い上げられていると言ってよい。
 先の引用と同じインタビューの中で、彼はこう語っている。

「時代とか関係なく、グッとくるものはなんでも聴いてるんですけど、いちばんかっこいいと思うのは、ロックのクラシックと、そういうものを基盤にした日本の歌。自分が持ってるCDのなかで相変わらず聴いているものっていったら、ビートルズとか70年代のロックとか、〈オリジナル〉の人たちなんですよね。」

 今、私たちの前にはまさしく、日本語のロックの最も新しい世代の〈オリジナル〉であり、〈クラシック〉でもある作品として、志村正彦が作り歌った八十数曲の作品群がある。
 彼は、聴き手を限定するのではなく、彼の歌をまったく知らない人にも届くようにと、二十九歳という短い生涯の中で、ロックやポップという枠組みを超えて、「日本の歌」を創造してきた。志村正彦の歌は、これからもますます、新しい聴き手に届いていくだろう。

2013年4月27日土曜日

「自分が作るしかない」(志村正彦LN 21)

 前回引用した、漫画『モテキ』の最終話、「夏樹」と別れた後の場面で、「幸世」は「いつも俺は大事な言葉を伝えられない」と思い、ケータイで曲を探しながら次のように呟く。

    今の気持ちに合う曲も見つからない
    「違うな…」
    「これも気分じゃない」
 
  こんな時に歌でも作れたらいいんだろうけど
      「作った事ないし……」
        「ありきたりな詞しか書けなさそう」

  「幸世」と同じような状況に置かれたら、音楽好きの人であれば、歌を作れたらと思う人も少なくないかもしれない。だが、実際に作りあげることは難しい。仮にできたとしても凡庸なものになってしまうだろう。
  志村正彦ならどうだろうか。
 彼は『茜色の夕日』に言及して、自分で聴きたい歌を自分自身で作るというが創作のモチーフだと述べている。

  色々なアーティストの感動する曲があって
 そういう曲ってすばらしいなあと思いつつも
 あの、ちょっと自分じゃないような感じがするんすよね。


 100パーセント自分が聴きたい曲ってないかなと
   ずっと探っていたんですよ。てっ時にもうなくて。
   
 自分が作るしかないってことに、行きついたんですね。
   
  『茜色の夕日』って曲を作ってかけてみたんですよ、ステレオに。
   そうしたらすごい、あっこれこれ、この感じって感動して、自分で。
   で、そういうのを毎回求めて作ってしまうんです、曲を。
     (2004年 タワーレコード渋谷店でのインタビュー )

 この二つの言葉を比べてみると、『モテキ』の「俺(幸世)」は、まるで逆さまになった志村正彦の歌の「僕」のようだ。
 志村正彦の歌の「僕」、というよりも志村正彦その人であれば、大事な言葉を本音を相手に伝えられないという想いを、時間をかけて丁寧に、何度も何度も曲や歌詞を練り上げて、歌として作りあげていくだろう。現実にそのようにして『茜色の夕日』は生まれた。

 彼は自分の歌の第一の聴き手となり、自分が作った歌に素直に感動する。作者志村正彦と、歌の中の主体としての「僕」との対話が生まれたのだ。そこには自己満足的な閉じられた感触はない。『茜色の夕日』の純度と質の高さがそのようなものを払拭している。この歌は普遍性を持ち、たくさんの聴き手を獲得した。
 そして、そのような経験を通して、彼は自分の聴きたい歌を自分で作るという方向に大きく歩み出す。孤高でありながら同時に聴き手に開かれた、希有なロック・アーティスト志村正彦の誕生である。

2013年4月24日水曜日

言葉を届けられないという想い (志村正彦LN 20)

 前回やや抽象的に書いた「他者に対して言葉を届けられないという想い」という点での「幸世」と「僕」の共通項について、漫画『モテキ』から具体的に引用して考えてみたい。
 
 漫画『モテキ』4巻収録の最終話「男子畢生危機一髪」で、「幸世」は「人生で一番好きだった」「小宮山夏樹」と再会するが、「夏樹」は再び去っていく。その別れの場面で、「幸世」はありきたりな言葉しか言えない。その上、「夏樹」がずっと言おうと思って告げた言葉も、車の騒音にかき消されて聞き取ることができない。家に帰る途中で、「幸世」は次のように考える。 

  いつも俺は大事な言葉を伝えられないし
  欲しい言葉は聞き逃す

 志村正彦の場合はどうだろうか。
 例えば、この歌を作るために歌い手となったとまで述べている『茜色の夕日』には、次のような一節がある。

  僕じゃきっとできないな できないな
  本音を言うこともできないな できないな
  無責任でいいな ラララ
  そんなことを思ってしまった


 『茜色の夕日』に関して、彼は何度も創作の経緯や背景にある恋愛について語っている。この歌の「僕」は志村正彦の分身だと考えていいだろう。「本音を言うこともできない」ということを、それでも、あるいはそれゆえに、歌の言葉として語り出したところに、彼の原点がある。この歌についてはいつか論じる機会を待つことにして、ここでは『モテキ』との対比を試みたい。

 この両者、『茜色の夕日』の「僕」の経験と、『モテキ』の「俺」の経験との間には、かなり異なる状況がある。一人の男性と複数の女性との間でめまぐるしく展開する、喜劇のような悲喜劇のような『モテキ』の濃い色合いは、一人の男性と一人の女性との間で繰り広げられた純粋な劇とでもいえるような『茜色の夕日』の透明な感触とはずいぶん異なる。無理があることを承知の上で、あえて両者を同じステージの上にのせると、どのような光景が見えてくるのか。

 それは、一人称である「僕」と「俺」に共通する、二人称の相手に、「大事な言葉を伝えられない」や「本音を言うこともできない」という、自己と他者との関係をめぐる、言葉による表現や伝達に対する、「できない」不可能だという、苦い自己認識が広がる光景だ。そして、そのような自己認識は、「僕」や「俺」だけでなく、度合いの差はあるにしろ、私たちの誰もが共通して抱いているものであろう。   (4月24日改稿)

 

2013年4月22日月曜日

「僕」と「幸世」と『モテキ』で (志村正彦LN19)

 前回触れた4月17日の『1番ソングSHOW』のことだが、最後で再び映画『モテキ』のあるシーンをギャグとして再現する際に、『夜明けのBEAT』が流され、志村正彦の声がそのシーンに重なっていたことを付け加えておく。今回の特集での『モテキ』の比重は大きかったといえよう。
 
 そもそも、なぜ、志村正彦の遺作である『夜明けのBEAT』が、ドラマ『モテキ』(ドラマは2010年7~10月にテレビ東京で放送され、その続編として2011年9月に映画が公開された。原作の漫画『モテキ』は『イブニング』誌に2008年から2010年まで連載され、単行本は2009年に2巻、2010年に3[2,5]巻の計5[4,5]巻が刊行された)の主題歌に抜擢されたのか。
 
 ファンならよく知っている事実ではあるが、その経緯を示した次の記事を引用したい。アールオーロック(ロッキング・オンの音楽情報サイト)【http://ro69.jp/feat/moteki201009-3】の《対談!「マンガ『モテキ』」久保ミツロウVS「ドラマ『モテキ』」大根仁》という記事である。ドラマと映画の監督大根仁と原作の漫画家久保ミツロウは次のように語る。

大根:[略]俺も、気になるバンドではあったけど、そんなに詳しくは知らなかったし、志村さんが亡くなってしまったから、当然もう楽曲はないと思ってたんだけども。でも、「実は……」って出てきて、それを聴いたら、"夜明けのBEAT"って曲の歌詞と、曲と、『モテキ』の内容とのシンクロ具合っていうのに、もう、「うわあ……」って。鳥肌立ちましたよ、最初に聴いた時。で、「もうこれしかないな」っていうか。

久保: そこが一番、すごい奇跡って感じですよね。

大根: 志村さん、当然、『モテキ』のことも知らずに曲を作ったわけで。今、どんな気持ちで聴いてるかなあ、って。

 確かに、『夜明けのBEAT』の歌詞とドラマ『モテキ』あるいは漫画『モテキ』の世界の間に、何か奇跡のようなシンクロを感じる人は多いだろう。
 さらに言うと、彼の歌の聴き手であれば、彼の歌の話者であり主体である「僕」(それは多くの場合、作者志村正彦の分身である)と、『モテキ』の主人公「藤本幸世」(こちらの方も作者久保ミツロウの分身のようだ。作者は女性であり、分身は男性であるという珍しい例だが)と重なるところがあると感じるのではないだろうか。

 もうすぐ30歳になる「藤本幸世」は、自分に自信が無く、その割には(というか、だからこそ、と書くべきだろうか)女性や恋愛への特有のこだわりと少しばかりのプライドと盛り沢山の妄想があり、若者らしい、年相応の、他者や女性との関係の世界へ踏み込むことができない。
 「モテ期」を迎えた「幸世」は、それが可能になりそうになる瞬間に、いつも打ち砕かれてしまう。そのような展開がこの物語の型であり要でもあるが、その原因は、女性たちという外部にあるのではなく、あくまで「幸世」の内部にあるのだ。
 
 読者はそこに「どうしようもなさ」や「苦笑い」の要素を見つけるのだが、それ以上に、この愛すべき困った青年がどのようにして自分の内部を開き、他者との関係の形成へ向かっていくのかという方向で、この物語を読み解いていく。漫画の読者、ドラマの視聴者を、そのような方向へと自然に導いていくのは、原作者久保ミツロウと監督大根仁の巧みさというよりも表現者としての真摯さのなせる技なのだろう。

 志村正彦の歌の「僕」から、「藤本幸世」ほどの「どうしようもなさ」は感じられない。しかし、他者に対して言葉を届けられないという想い、自分の内部と外部とを、過去と未来とを、どのように関係づけたらよいのかという困難な問題を、抱えているという点では、「僕」と「幸世」には共通項があると考えられる。

2013年4月20日土曜日

4月17日放送の『夜明けのBEAT』 (志村正彦LN18)

 4月17日に放送された日本テレビの『1番ソングSHOW』を先ほど見終わった。名作映画の名場面と主題歌の特集で、映画『モテキ』とフジファブリックが取り上げられるという情報を得て、録画しておいたものだ。地上波はあまり見ないので、この番組を見るのは初めてだった。

 大根仁が監督した二つの作品、映画『モテキ』と主題歌『夜明けのBEAT』ミュージック・ビデオが放送されるのだろうが、このMVの2分40秒過ぎから映し出される、志村正彦の8秒程のモノクロ映像がどのように扱われるのかが、関心の中心だった。

 結果は、番組の20分過ぎから1分10秒ほどが『モテキ』の時間となり、そのうち『夜明けのBEAT』が30秒ほど使われ、志村正彦は5秒ほど登場することとなった。見た瞬間、ほんとうにうれしくなった。地上波で彼の映像が放送されることは、残念ながらきわめて珍しいというかほとんどないことであろうから。

 2009年8月の「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」ライブが素材となっているこの映像の、やや苦しげに歌い上げる彼の表情を見ると、いつもとても切なくなるのだが、この日は、このMVに志村正彦の映像が存在していることに、素直に良かったと喜ぶ気持ちになっていた。
 歌詞のサビ部分もテロップとして表示され、2回繰り返された。

  バクバク鳴ってる鼓動 旅の始まりの合図さ
  これから待ってる世界  僕の胸は躍らされる


 番組全体の内容が盛り沢山だった割には、予想以上に丁寧に『夜明けのBEAT』を扱ってくれたという感じがして、この番組の制作担当者に感謝したい気持ちになった。この歌の作詞作曲者でありボーカルを担う志村正彦に対するリスペクトが感じられたからである。

 この曲は、志村正彦の作詞・作曲・ボーカルによる「遺作」であり、ミュージック・ビデオとしても生前の彼の姿が映った「遺作」である。遺作という言葉を使うのはとても辛いのだが、遺作であるという現実に向き合わねばならないのも、志村正彦の歌を愛する私たちにとってのひとつの現実である。

2013年4月15日月曜日

生活者としての彼(志村正彦LN17)

   週末の夜、金鳥居にほど近い店で、一昨年の「志村正彦展 路地裏の僕たち」と昨年の「夕方5時のチャイム」のイベントと展示の実行委員をつとめた彼の友人や関係者の方々にお会いすることができた。前庭にはしだれ桜がまだ美しく咲いていて、過ぎゆく桜の季節を感じながら、和やかで心温まるひとときを過ごした。思いがけないうれしい機会であり、深く感謝している。

 志村正彦についてたくさんの貴重な話を伺ったのだが、その具体的な事柄をこの場で記すことは差し控えるべきだと考える。この《偶景web》は基本としてはあくまで「私的な場」であるので、彼の友人や関係者の方々がいつか何らかのより「公的な場」で、各々の想いや色々な出来事を語っていただくのが最もよいことだと思う。ただし、やはり、どうしても伝えたいことがあるので、具体的な事柄ではなく、私が感じたことを少しだけ書かせていただく。

 それは、表現者、音楽家としてではなく、生活者、家族や仲間のひとりとしての志村正彦のことである。

 彼はほんとうに家族思いであり、そして友人や故郷も大切にしていた。人の心の痛みがよく分かる人であった。自分に厳しく、身のまわりのこともきちんとできる若者であった。楽器だけは贅沢をしていたようだが、それ以外はつつましい暮らしをしていた。我が道を行く男であったから、時には少し他者と齟齬をきたすこともあったが、それでも、可愛がられ、信頼される存在であった。

 吉田の春の夜、ひとりの人間としての彼の生の軌跡を知ることができた。この会のかけがえのないひととき、そして志村正彦展を始めとする彼らの実践への感謝を何か形にするのであれば、私たちにできるのは、この《偶景web》の文を、志村正彦についての試論を、より質の高い、より内容の深いものにしていくしかない、そんなことを考えて、甲府へと帰っていった。

2013年4月14日日曜日

春の富士(志村正彦LN16)

 この週末、二人で富士吉田に出かけた。一昨年、昨年の志村正彦展の実行委員や関係者の方々とお会いできるという、思いがけない、貴重な機会を得て、春の吉田を訪れることとなった。
 今、「吉田」と書いたが、「富士吉田」という名は1951年にこの地に「市」が誕生する際につけられた新しい名称であり、伝統的には「吉田」と呼ばれていた。その方が簡潔なこともあって、山梨の人は「吉田」と言うことが多い。

 甲府から吉田まで、車窓の風景を眺める。御坂の山に沿って標高が高くなると、まだところどころに桃の花がきれいに咲いていた。春の桃花、その濃い彩りを楽しんだ。
 御坂を超え、下り坂へ。以前は、カーブを幾度か回り、時折顔を出す富士を見ながら、河口湖へと少しずつ下っていったが、数年前に開通した新しいトンネルを利用すると、一直線に河口湖まで進んでいく。御坂峠からワープしていくかのような奇妙な感覚にとらわれる。

  産屋が崎を通り抜けると、湖畔の桜はまだ咲いていた。外国からの観光客が富士山と桜という日本を象徴する光景を撮影している。
 湖畔を抜け、しばらくすると、おひめ坂通り、そして「いつもの丘」、新倉山浅間公園に着いた。新しい道ができてから、甲府から吉田までの距離がずいぶん近くなったような気がする。

 ここは桜の名所。今年の桜はどこでもかなりの早咲きだった。標高の高い吉田ならまだ少しは咲いているかもしれないという淡い期待をしていたが、もう葉桜だった。二三日前の風で散ってしまったらしい。葉桜という言葉も不思議だ。葉桜にも桜を感じる、それが私たちの感性かもしれない。階段を少しだけ上がり、「桜の季節」が過ぎようとしている吉田の街をしばらくの間眺めていた。

 志村正彦は、この場所で、「桜の季節」が過ぎる頃の風景をどのように見つめていたのか。彼の歌を愛する聴き手なら誰しもが思うだろうが、そのような問いを心の中でささやいた。

 雪どけが始まり、白色と地色の配合をゆるやかに変化させていく春の富士。秀麗な美がおだやかで優しい美へと次第に移ろい、日の光も風の流れも変わっていくこの季節は、富士吉田で暮らす人々にとって、一年の内でも最も季節の変化を感じる時期ではないだろうか。そのようなことを考えながら、とても大切な人々と再会するために、「いつもの丘」を下りていった。

付記
 今回の原稿を書き上げた後で、今日という日、9年前の2004年4月14日に、『桜の季節』『桜並木,二つの傘』のCDシングルで、フジファブリックがメジャーデビューしたことに気づいた。
 志村正彦は、1999年の上京後、2000年に吉田の友人、渡辺隆之・渡辺平蔵・小俣梓司と「富士ファブリック」を結成、メンバー交代を経て、地道なインディーズ活動と並はずれた努力の末に、自らの歌を広く持続的に伝えることのできるメジャーという場にたどりつくことができた。上京から5年の年月が流れていた。
 今日はその記念日である。調べると、9年前も日曜日で天気は晴れだったようだが、富士吉田の桜や春の富士はどのような姿を現していたのか、そんなことを想わずにいられない。

2013年4月11日木曜日

「…」という企み(志村正彦LN15)

 「『Surfer King』の企み」を読んで、『Surfer King』を聴き直した。

 歌詞の最後の言葉が「サーファー気取り アメリカの…」というように、あえて歌われていないことが大いに気になるようになった。歌詞カードで確認すると、それまで「アメリカの彼」「アメリカの波」と歌われていた箇所が「…」と空白になっている。にぎやかなサウンドにかき消されて、うっかり聞き過ごしてしまうか、あるいは気がついてもあまり気にとめないかのどちらかかもしれないが、確かに「…」なのだ。

 歌われていない「…」、書かれていない「…」には、どういう言葉が入るのか。あるいは言葉は全く入らないのか。普通は「彼」なのだろうが、「君」が入るのかもしれない。あるいはすごく飛躍して「僕」はどうだろうか、あるいは人ではなく、「波」かそれ以外の何かか、などと想像してしまう。あるいはそんな想像など無用で、「…」は「…」のまま受け止めればよいのかもしれない。
 
 どちらにしろ、空白の言葉「…」がそこに漂っているのだ。聴き手は漂いながら、「…」が何か知りたいと思うのだが、結局、自分の想像するものを描いて進んでいくしかない。

 聡明な志村正彦は『Surfer King』で「…」という企みも仕掛けたのだろうか。彼は何度でも楽しめるように歌を作っているという意味のことを言っていたはずだ。
 確かに何度でも楽しめる。「…」の波に揺られて、ボード代わりのCDにノリながら。

2013年4月9日火曜日

『Surfer King』の企み(ここはどこ?-物語を読む 1)

 家人が花粉症なので、この季節洗濯物は部屋干しだ。早く夏が来ればいいと室内干しを拡げていると、家人は大音量で『Teenager』を聴いている。『Surfer King』だ。ノリノリで仕事がはかどりそう。調子よくタオルをパンパンしていたとき、「あれ?」と思った。

 『Surfer King』はホーンセクションが印象的なアップテンポの曲で、ビデオクリップの演出も相まってコミカルな印象を与える。ある意味ナンセンスソングに分類されるかもしれない。歌詞に深みはないけれど、こういう音楽も楽しくていい。私はうかうかとそんなことを感じていたのだ。その日、志村正彦の周到な企みに気づくまでは。

 『Surfer King』には金髪碧眼でがっしりとした体躯のアメリカ人(「彼」)がサーフボード片手に登場する。この男、別に悪いことをしたようもないのに、さんざんな言われようなのだ。曰く「サーファー気取り」「サーファーもどき」、曰く「王様気取り」「相当愚か」「相当野蛮」。似非サーファーに世間が抱く、格好だけで中身が薄っぺらな男のイメージがコミカルながらしっかり悪意を持って語られる。まあ、こういうタイプが気にくわないのもわからないではないから、特に違和感なく聴いていたのだが、次のワンフレーズに注目すると曲の様相は一変する。

  「サーファー気取りについていく君」

 この突然出現する「君」の存在によって、「彼」と「君」そして歌詞には現れない「僕」の関係と物語が見えてくる。この関係は「君」をめぐる三角関係か、あるいは「彼」を追う「君」とその「君」を追う「僕」という一方通行の直線関係か。「僕」の思いがどの程度のものかはわからないが、この関係が「彼」に対する「僕」の悪意の源であるとすれば、すとんと腑に落ちる。そして、残念ながら「僕」の思いがかないそうにないことを考え合わせると、明るい曲調の中に、哀れな道化師の姿さえ浮かんでくるではないか。

 それが『Surfer King』の仕掛けだとして、私がそれを志村正彦の周到な企みだと感じるのは、このフレーズが出てくる位置にある。この曲では「サーファー気取りアメリカの彼」というフレーズが同じメロディで三回繰り返される。次には同様に「サーファーもどきアメリカの波」がやはり三回繰り返され、三度目に再び「サーファー気取りアメリカの彼」が二回繰り返された後やっと「サーファー気取りについていく君」というフレーズが登場する。CDやビデオクリップではこの部分はあまりにさらりと歌われていて、インパクトの強い前のフレーズの繰り返しだと思っていると聞き逃してしまう。

 もしこのフレーズが私の考えるようにこの曲の物語を立ち上げるキーなのだとしたら、もっと早い時点で提示され、もっと聞き手の印象に残るような歌い方をしてもいいはずだ。しかし、実際にはまるで忍び込ませるように曲の終盤に配置されている。だから、私がそうであったように、多くの聴き手はある時ふいにそのフレーズに気づき、聞き慣れたはずのこの曲の意味を知ることになるだろう。驚きとともに。おかげでこの曲は聴き手にとって一粒で二度おいしいお得な曲になっているのである。

 洗濯物を干し終えた頃にはとっくに次の曲に変わっていたが、頭の中ではまだ『Surfer King』がぐるぐる回っていた。志村正彦の企みにまんまと乗せられた私はなんだかとてもいい気分で、下手な歌を大声で歌いたくなった。

 付記
こんな感じで時々書かせていただくことになりました。
シリーズ名は『Strawbarry Shortcakes』の歌詞の一節からいただきました。
私はもともと物語に興味があって、志村さんの曲から伝わってくる物語がとてもおもしろいと思っています。
今後ともよろしくお願いします。

2013年4月8日月曜日

チームブログの始まり-《偶景web》について 3 [諸記]

 志村正彦・フジファブリックの歌について語ること、できることなら語り合うことが、この偶景webの目的の中心となっています。志村正彦にすでに遭遇した聴き手として彼の歌を聴くという経験を深め、彼の歌をまだ知らない聴き手に(そんなことが可能かどうかは分かりませんができることなら)彼の歌を聴くという契機を作るいう、一種の「活動」(ハンナ・アーレントが言う意味での)の「場」だと考えています。このblogを読んでいただいている皆様からも、拙論についてのご意見ご感想や、私はこう聴いているというコメントなどをお寄せいただければ幸いです。

 最近、私と一緒に聴いてきた妻も何か書きたいと言いだしました。どうやら本格的に志村正彦に出会ってしまったようなので、bloggerのチームブログの機能(複数名が書き手となれる)を使って、この場に参加することとなりました。独立したシリーズとして展開するので、「ここはどこ?-物語を読む-」とします。なお、妻はもともと「藤谷怜子」というペンネームでものを書いていたので、このblogでもこの名を使っていきます。
 ご愛読をお願い申し上げます。

2013年4月7日日曜日

『ペダル』3 尽きない魅力 (志村正彦LN14)

   『ペダル』の第2ブロックが終わると、曲がフェードアウトしそうな雰囲気になるが、それを裏切り、50秒ほどの長い間奏の後で、これまでの流れとはまったく異なる出来事が唐突に語られる。第3ブロックの追加だ。ひそやかなつぶやきのような声で歌われるこのフレーズは、手紙で言えば「追伸」のような部分にあたるのだろう。

  そういえばいつか語ってくれた話の
  続きはこの間 人から聞いてしまったよ


 ここには、一人称の話者である「僕」、「僕」に対して「いつか語ってくれた話」をした直接の相手である二人称の存在、「僕」がその話の「続き」を「この間」「聞いてしまった」相手である三人称の「人」、という三人の人間が登場する。しかし、この三者の関係は分からない。

 聴き手にとって特に、「僕」と二人称の相手との関係と交わされた話がとても気になる。この二人は男と女なのか、あるいは男と男なのか。どのような関係なのか。「話」とその「続き」とはどのような内容なのか。聴き手にはそれを知りたいという欲望があるにもかかわらず、作者は当然のように、それを謎のままにしておく。聴き手はその謎、空白の中に置き去りにされたような気持ちになるが、想像を広げていくことで、自分自身で物語、ショートストーリーを作るようにして、歌の物語を補填していけばよいのかもしれない。

 それにしても、移動する「僕」と「花」や「飛行機雲」を始めとする風景との遭遇だけで歌が完結した方がきれいにまとまるにも関わらず、最後になって人間的な世界が介入してくるのはなぜだろうか。三人の人間が関わるこの部分も「消えないでよ」のモチーフとつながっているのだろうか。「僕」は「いつか語ってくれた話」をした相手から、その「続き」を聞きたかったのだろうか。

 そうであれば、もうその話は「人」から聞いてしまったので、その相手から聞くという経験そのものは消えてしまったことになる。二人の間で交わされるはずだった出来事が消えないでほしかったことなのか。もう少し踏み込むなら、この二人が語り合う時や場、この二人の関係そのものが、「消えないでよ」と願う対象だと考えられるのだろうか。歌詞の言葉からはなかなか手がかりが見つけられない。やはり、追伸のような形で述べられるこの第3ブロックの意味と「消えないでよ」のモチーフとの関連はよく分からない。分からないことは分からないままに、空白は空白のままに、歌を愉しむのが、志村正彦の歌を享受するあり方かもしれない。

 志村正彦の歩行のリズムを身体に感じながら、問いが答えとして完結しない、不思議な感覚にあふれた言葉を読み、静かにそして次第に激しく旋回していくような浮遊感を持つ、美しく構築された楽曲を味わう。それが『ペダル』の尽きない魅力である。
 この歌は、2008年1月発売の『TEENAGER』の冒頭に収められた。このメジャー3作目のアルバムはいろいろな意味で、志村正彦とフジファブリックにとって転機となった作品である。

2013年4月6日土曜日

『ペダル』2「僕が向かう方向」(志村正彦LN13)

  『ペダル』の歌詞は三つのブロックに分かれている。今回は二番目のブロックに移ろう。

  上空に線を描いた飛行機雲が
  僕が向かう方向と垂直になった
  だんだんと線がかすんで曲線になった


 「僕」が移動している途中、「飛行機雲」が現れる。「上空」に描かれた「飛行機雲」の線の方向、それと垂直に交わる「僕が向かう方向」。「飛行機雲」の「線」が「曲線」になる変化。「あの角」の「角」も、見えるものと見えないものとの間にある「垂直」の「線」であろう。この三行は見たままの風景の描写だろうが、「僕」が「線」や「方向」そして「垂直」や「曲線」に鋭敏なのはなぜだろうか。それは、「僕」が生きていく「方向」に何か不安があるからではないのか。不安なまま「僕」は、風景の中に自分の位置や方向を確認しつづける。言葉にもとづく根拠はないのだが、そう感じられてならない。

  何軒か隣の犬が僕を見つけて
  すり寄ってくるのはちょっと面倒だったり


  あの角を曲がっても 消えないでよ 消えないでよ
  駆け出した自転車は いつまでも 追いつけないよ


 この歌の題名は『ペダル』であり、「駆け出した自転車」という表現もあるので、歌の主体の「僕」は「自転車」に乗って「ペダル」を漕いで「駆け出して」いる、という情景が思い浮かぶかもしれない。しかし、最初の2行にある、「何軒か隣の犬」が「僕を見つけて」「すり寄ってくる」という出来事で描かれる、「犬」と「僕」の距離感からは、「僕」は歩いて移動していると考える方が自然だという気もする。『FAB BOOK』には、「この曲のBPM、というかバスドラムのテンポですけど、それを僕が普段歩いてるときの速さと同じにしてくれって」という言葉があり、この歌のテンポが志村正彦の「歩行」のリズムであるという興味深い事実もある。

 「僕」が歩いているとすると、「駆け出した自転車」に「追いつけない」のは「僕」だという解釈も成り立つ。誰かが漕いで「駆け出した自転車」を僕は歩いて追うが、「いつまでも追いつけない」という状況だ。そうなると、「僕」が「消えないでよ」と願う対象はこの「自転車」だとも考えられる。
 しかしあくまでも、「僕」が「自転車」に乗っていると考える場合は、「僕」が「いつまでも追いつけない」対象は、「消えないでよ」と願う対象と文脈上同一のものになるだろう。

 この第二ブロックの場合、最初に現れた「飛行機雲」が「消えないで」の対象とすることもできる。現実的にも、「飛行機雲」はごく短い時間の移動では消えないが、やがて消えてしまう自然の現象である。第一ブロックの「花」も、より長い時間の間隔ではあるが、その色の輝きがやがて失せてしまうものである。そう考えると、歌詞の展開通り、「花」や「飛行機雲」が「消えないでよ」と願う対象にあげられてよいのだろうが、それだけに限定するのはこの歌の世界の広がりや漂う感覚にそぐわない気がする。やはり「消えないでよ」の対象はより抽象的に把握したほうがよいのではないだろうか。

 視界から、見えるものと見えないものの境界から、消えそうになってしまうもの。記憶の中で消失しないでほしいもの。私たちの心にあり続ける、「消えないでよ」と祈るしかないもの。そのような対象は、志村正彦の歌には潜在的にも顕在的にも繰り返し登場している。例えば、『花』の「花のように儚くて色褪せてゆく」ものも、『陽炎』の「きっと今では無くなったもの」も、『赤黄色の金木犀』の「目を閉じるたびにあの日の言葉が消えてゆく」ことも、そのような変奏の一つであろう。

(4月7日一部改稿、次回に続く)

2013年4月5日金曜日

『ペダル』1「消えないでよ」(志村正彦LN12)

  前回書いた志村正彦の変化を具体的に表している曲を探してみた。例えば、『TEENAGER』冒頭の『ペダル』はどうだろうか。この歌には、話者と主体としての「僕」が登場するが、最初に「僕」が見つめる「花」が視界に浮上する。

  だいだい色 そしてピンク 咲いている花が
  まぶしいと感じるなんて しょうがないのかい?


 「だいだい色 そしてピンク 咲いている花」は、例えば「桜」や「金木犀」のような名のある花、季節感と結びついた花、時には季語的な言葉と一体化している花ではなく、おそらくありふれた花あるいは逆に名も知らないような花であろう。このような花を描いたこと自体が、作者の変化の兆しを示している。

 彼には独特の色彩感を持つ歌があるが、この作品もその系譜の一つである。「まぶしい」と感じる色と光の小さな氾濫に、「花」も「僕」も包まれているようだ。「しょうがないのかい?」という問いかけは、おそらく自分自身に向けられたものであろうが、意味も文脈も分かりにくい。歌詞には書かれていないがこのフレーズに続く、「オオ、アーアーアー、アーアーアー」という、戸惑いのような嘆きのような声とあいまって、聴き手に、意味にはなりきれないような、それでも意味がこめられているような、不思議な意味の感覚をもたらす。

  平凡な日々にもちょっと好感を持って
  毎回の景色にだって 愛着が沸いた


 「平凡な日々」「毎回の景色」に対する「好感」や「愛着」。日常の出来事や風景に対する親しみ、和解のようなものが伝わってくる。これはあくまで歌詞の中の話者であり主体である「僕」の想いであるが、この「僕」が、現実の志村正彦の分身であることは確かなことのように、私には思われる。「平凡な日々」「毎回の景色」に対する「好感」や「愛着」が、志村が追い求めた「リアルなもの」の枠組みにも入ってきた。そのことが率直に「僕」を通して語られている。このような変化が作者に訪れたのである。

 しかし、「平凡な日々」は定型的な表現だろうが、「毎回の景色」の方はそうではない。「毎回の」という修飾語にには定型から離れようとする意図がある。志村正彦は日常に好感を持って接し始めているが、その日常の捉え方や切り取り方には彼らしい独特な感性があり、言葉もかなり吟味されている。それをよく表しているのが、続くフレーズである。

  あの角を曲がっても 消えないでよ 消えないでよ

 「消えないでよ」という謎めいた表現がいきなり登場する。いったい何が「消えないで」なのか、分からない。「あの角」も具体的な像が浮かばない。通常の流れを考えると、「まぶしいと感じる」「だいだい色 そしてピンク 咲いている花」が「消えないで」ほしい対象と考えられるが、「花」に限定しまっていいのか、心もとない。あるいは隠喩と考えるのなら、「虹」のようなものか、あるいは「平凡な日々」や「毎回の景色」という出来事や風景、そこにうつりゆくものなのか、あるいはそれらの対象をすべて包み込むような何かなのか。

 聴き手がそれを絞りきれないまま、「消えないで」ほしい対象への「僕」の強い想い、その対象に対する呼びかけとそのリフレインが、聴き手の心にこだましてくる。分からないままに、「消えないでよ」という言葉そのものが「リアルなもの」として響いてくる。「消えないで」と願う対象をあえて明示しないことが、歌詞の中の空白部をつくり、聴き手の想像を広げるような作用をしている、とひとまずは言えるだろうか。
(次回に続く)

2013年4月3日水曜日

「ようやく自由になってきた」(志村正彦LN11)

 LN10の最後に引いた「歌詞に込めたメッセージに伴う自分になるために、自分を変えていったというか……。」という志村正彦の言葉に対して、取材者の青木優氏は「ややこしいですね……」と、志村の心情に配慮して返答し、さらに言葉を引き出している。

 確かにややこしいんですけど、僕が寂しいままなのは、それが理由でもあるんです。そういう楽しみを、歌詞のために排除してしまったんです。

 日常生活の、というよりも、生きることそのものの楽しみを、歌詞のために「排除」したという発言からは、表現者としての確固たる意志が伝わってくる。自分に対する厳しい姿勢というか、あえて時代がかった言葉を使うならば、他のことを犠牲にしてもある道を極めようとする「求道者」のような姿が重なってくる。ロック・アーティストというよりも、「芸術」のために「実生活」を犠牲にしてまで表現を続けた、大正や昭和前期の時代の「文士」や「詩人」の気風に近いものを感じる。
 志村は凄みのある発言を続ける。

 日常の自分を、自分の歌詞にシンクロさせるという酷なことをしてますね。歌詞の世界と殉死してるわけです。

 現実の自分と歌詞の中の自分をシンクロさせるというのは、彼が述べている以上に過酷なことであろう。彼の場合、単なる修辞ではなく、ほんとうに有限実行していたと考えられるからだ。
 「歌詞の世界と殉死してるわけです」という発言は、彼の歌を愛する人々にとって、ある痛ましさの感触なしには、受け止めることができない。しかし、この場面の「殉死」という言葉は、彼が自らの創作の過程を見つめ直したときに、ふっと浮かび上がった吐息のようなものかもしれない。「してるわけです」という言い回しにも、自分を客観的に見ている様子もうかがえる。
 この言葉は、自分が自分に対して発した自己批評のようなものだと考えられる。むしろ、歌を創ることに対する強固な意志と自恃を読みとるべきであろう。志村正彦にとって、歌を創ることは生きることそのものだった。 

 青木氏がこの発言について「日常だったり生活を、アーティストとしてのリアリティのほうに引き寄せているのですね」と問いかけると、志村はそれまでの流れを変える発言をする。

 でも、もちろんその逆もあります。日々思っていることが、そのままナチュラルに曲になる場合というか。

 これまでと逆の過程による創作方法を得たことは、歌の豊穣さにつながっていった。さらに彼は、自分自身と自分の歌の変化について重要な証言をする。

 誰しもロマンチックなことを想う夜もあれば、なんにも考えてない日もあれば、しょうもない日もあるというのが本当のところだと思うので、最近は、それをそのまま歌詞にすればいいんだってことに気づいて、ようやく自由になってきたというか。そこからようやく男としてのだらしのないところも歌詞に書けるようになった。

 この「本当のところ」は、彼が強調した「リアルなもの」とも重なる。つまり、それまで自分自身の孤独なありようやその純粋な想いに限定されていた、彼にとっての「リアルなもの」の対象が、次第に「ロマンチック」「なんにも考えてない」「しょうもない」などと形容される様々な日々の出来事や、「男としてのだらしのないところ」を含む多様な側面にも広がっていった。
 そして、「ようやく自由になってきた」という言葉の、「ようやく」という副詞と「自由」という名詞が、彼の生と彼の歌の歩みの軌跡と時の経過を的確に表している。

 『音楽とことば ~あの人はどうやって歌詞を書いているのか~』には、残念ながら、取材日が記されてないが、2009年3月の刊行なので、2008年に行われたと推測される。『TEENAGER』がすでにリリースされ、『CHRONICLE』の曲作りをしていた頃なのだろう。確かに、彼の歌は自在さを獲得していった。
 
 志村正彦がようやくたどりついた「自由」、その歩みを振り返りながら、彼の歌を聴くことにも、深い意味合いがあるだろう。