ページ

2013年12月31日火曜日

2013年 [諸記]

 2013年も今日で終了となります。一昨日、この《偶景web》のページビューが40,000を超えました。このブログ自体は昨年12月末の開設ですが、実質的に始まったのは3月からなので、10ヶ月で4万ビューという数になります。数字に少しこだわりがある理由は、この数が、志村正彦の歌への関心を示す数値の一端になるかもしれないからです。

 毎日、ツイッターやブログで彼についての語らいが書き込まれています。そのたくさんの語らいの中で、私たちの《偶景web》もわずかばかりの「位置」を獲得することを目標に書き続けてきました。
 形式はチームブログですが、週に1,2回発行のネット上の「志村正彦リトルマガジン」(デジタル大辞泉によれば、「リトルマガジン」は「少数の読者を対象として、主に実験的、前衛的な作品を載せる非営利的な文芸・評論雑誌」を指します。実質がまだ伴っていませんが、目標となるコンセプトです)を目指しています。特に、「志村正彦ライナーノーツ(LN)」は、1回の分量が多く、表現力の限界ゆえに、分かりにくい文も入り込んでいるので、それにも拘わらず、読んでいただいている方には本当に感謝を申し上げます。

 この一年、私の「志村正彦LN」が66回、藤谷怜子の「ここはどこ?-物語を読む」が6回、「《偶景web》について」が今回を含め4回、計76回、5日に1回のペースでの掲載となりました。書きたいことはたくさんありますが、現状ではこのペースで精一杯です。持続することが肝心なので、それを果たすことは何とかできているでしょうか。

 ただし、取り上げた歌は、私の方が『若者のすべて』『ペダル』『夜明けのBEAT』の3曲、藤谷の方が『Surfer King』『Strawbarry Shortcakes』『打ち上げ花火』『ないものねだり』の4曲ということで、合わせても7曲にしかなりません(テーマ的にあるいは間接的に言及した曲は他にもありましたが)。「志村正彦LN」では彼に関わるイベントや番組、ゆかりの深い音楽家のライブや作品についても積極的に書いてきたので、この曲数となりましたが、それにしても遅々たる歩みではあります。彼の曲数には限りがあるという現実からすると、ゆっくりとしっかりと味わうように考えるように歩き続ける方がいいのだと自分に言い聞かせてはいますが。

 最後に、今年の現実の出来事を振り返りたいと思います。
 なんと言っても、この夏が「志村正彦の夏」だったことが一番の思い出となります。7月の『茜色の夕日』チャイムのイベント、NHK甲府の特集ニュース、山梨日日新聞の記事、『サマーヌード』を始めとする様々な番組での楽曲使用。夏の名曲が多い彼にふさわしいこの夏の盛り上がりでした。
 私たちも、志村正彦と親しい方々との出会いがあり、絆が深まったことに何よりも感謝しています。全く知らないところでも、人と人とは、その想いと想いとは、深くつながっているのだということを認識できた一年でもありました。

 来年は、フジファブリックのメジャデビュー10周年という記念すべき年になります。
 「志村正彦の夏」を越えて「志村正彦の春夏秋冬」になればいいな、などと勝手に願っていますが、私たちがなすべきことはこの《偶景web》を継続していくことだと考えております。

 本年はどうもありがとうございました。

2013年12月24日火曜日

変わらない愛-安部コウセイ『夢の中の夢』(志村正彦LN 66)

 この「志村正彦LN」では、昨年から今年にかけてリリースされた、志村正彦との深い絆を想起させる歌、片寄明人[GREAT3]の『彼岸』やクボケンジ[メレンゲ]の『ビスケット』について書いてきた。志村の時間は閉じられてしまったが、彼の友人や仲間の音楽家たちの時間、その音楽の可能性は今も開かれている。そのことも、このLNでは追っていきたい。

 今日は12月24日。すでにご存じの方も多いと思うが、安部コウセイと伊東真一によるアコースティックユニット、堕落モーションFOLK2 の『夢の中の夢』について触れたい。[http://www.youtube.com/watch?v=5OaWl1VKXjM、私の拙文を読んでいただく前に、まずこの歌を聴いていただきたい]

 『夢の中の夢』について、安部は「志村に捧げた曲」だとツイートしたことがある。しかし、そのことをあまり告げてはいない。志村追悼という枠組の中で取り上げられることを拒んでいるかのようだ。ステージでの様子とは異なり、彼は慎み深く内省的だ。(その慎みを尊重するなら、「私音楽」とも名付けられているこの歌について語らない方がいいのかもしれないが、この《偶景web》は言葉の場、少しだけ触れてみることを許していただきたい)

 歌の主体は、富士急行線であろうか、電車に乗り、「君の生まれた町」に行く。「見慣れない景色」が過ぎてゆく。そして、「最低だ なんでだ どうやったらそうなんのさ」という憤りを投げかける。友の死という現実を受け入れたくない確固たる意志と「大体は忘れて のらりくらり 生きている/僕はまだ少しも 悲しくない 悲しくない」という複合的な感情をありのままに歌う。
 東京から富士吉田へという旅の途中で、歌の主体は自分自身を見つめ直す。そして、歌の主題である「友達」志村正彦の「夢の中の夢」の姿を描き出す。

  友達は今日も夢の中の夢で
  終わらない音楽 鳴らし続けてる
  友達は今日も夢の中の夢で
  始まらない 恋を 嘆き続けてる
  変わらない 愛を 祈り続けてる

 「夢の中の夢」の世界に、その世界にだけ、「友達」は存在している。「夢の中」という枠組の中のもうひとつの「夢」という枠組の中で、「終わらない音楽」「始まらない恋」を追い続けている。そして最後の「変わらない 愛を 祈り続けてる」という一節は、志村正彦の生と歌を凝縮したような言葉だ。詩の中の詩のように的確で、切なく、美しい。

 ここ数日の間、ネットでは彼を追悼する言葉が行き交っている。彼は愛されている、とよく言われる。人を損なうような言動に満ちた、荒涼とした時代だからこそ、彼に対する尽きない想いが語られ続けている。
 志村正彦は愛され続けている。しかし、別の角度から見れば、安部コウセイの歌うように、志村正彦自身が、彼の家族や友人そして私たち聴き手に対して、「変わらない 愛を 祈り続けてる」のだ。
 彼は「愛」などという言葉を安易にあるいは率直に使うことはなかった。季節や花を描く言葉、一風変わった言葉やオノマトペに隠し、迂回した。余白のような場にそれを置いて、歌い続けてきた。

 彼が私たちに愛されているというより、彼が私たちを愛している。
 志村正彦の遺した歌から、究極的には、そのことが伝わってくる。

2013年12月21日土曜日

『茜色の夕日』のチャイム (志村正彦LN 65)

 今日は午前中に甲府を出発し、富士吉田に出かけた。
 御坂トンネルを抜けてすぐに、雪景色の雄大な富士山が広がる。山梨在住で富士を眺めることが多い私にとっても、この峻厳な美を抱く富士になれてしまうことはない。いつも、その姿に圧倒されてしまう。
 吉田の街は、ここ数日の雪や雨模様から脱し、日差しも穏やかで温かい。この週末の三連休から24日にかけて、この地を訪れる志村正彦ファンは多いだろう。この天気が迎え入れてくれるようで、感謝する。

 午後、志村正彦の菩提寺にお参りする。
 彼のお墓には、遠方から来られたのであろう、キャリーバッグを引いたファンと思われる方がお線香をあげられていた。(声をおかけすることはできなかったが、ありがたい気持ちに包まれる)
 しばらく待ち、花を手向ける。伝えたいことを一つだけ伝える。後にも待っている方、帰り道でも同じ目的だと思われる方にお会いする。沢山の方がお墓参りにいらっしゃっている。
  亡くなって4年たつが、彼は人々の心の中でずっと生き続けている。

 夕方5時、菩提寺の近くで、『茜色の夕日』のチャイムを聴く。
 冬のひきしまった空気の感触に、チャイムの音がしみこむ。夏も聴いたのだが、冬の方がこの音色には合うような気がする。
 メロディの純粋な旋律が、空に静かに響く。空気が呼応して澄んでくる。何かを想う。

 『茜色の夕日』のチャイム、単音の旋律は、歌詞の言葉さえ要らないかのように、そこに確かにあり、そこで確かに響いていた。

2013年12月19日木曜日

連想のように (志村正彦LN 64)

 メジャー1stCD『フジファブリック』は、ビートルズのスタジオとして有名なアビーロード・スタジオのスティーヴ・ルークによってマスタリングが行われた。今回は、そのことから発して、幾つかの文章を引用しながらつなげていきたい。
 アビーロードが選ばれたその経緯は、プロデューサー片寄明人氏によって詳しく記されている。(「フジファブリック 5 」https://www.facebook.com/katayose.akito/notes )志村正彦は初め、その提案に懐疑的だったようだが、「1stアルバムに志村くんが書いた楽曲が持つ、繊細でどこか湿った空気感」に合うという片寄氏の直感を信じて、その案を受け入れたようだ。ただし予算の関係で、メンバーの代表志村、プロデューサーの片寄氏そしてディレクターの今村圭介氏(彼は『FABBOX』まで、EMIのディレクターとして制作の中心にいた。「2002年9月27日」というEMIスタッフブログの記事[http://fuji-emistaff.jugem.jp/?eid=6]等を読むと、志村正彦との深い関わりがうかがえる)の3人だけがロンドンに行くことになった。志村日記を読むと、2004年9月9日から12日までの短い滞在だったようだ。片寄氏はスタジオ作業の様子を次のように描写している。

 「いいっすね! あ、今のギターの音、ビートルズみたいな音に聴こえます!」
 志村くんは自分の創った音がイギリス人の手で生き生きと躍動しはじめるのを目の当たりにしてテンションも上がってきたのか、かなり嬉しそうな顔を見せ始めた。
 スティーヴも志村くんの曲に「この曲すごくいいね。」とか「これは日本以外の国では発売しないの?」とか、1曲作業が終わるごとに一言感想をはさみながら、ご機嫌に作業を進めてくれた。


 スティーヴから「昨日はここでポール・マッカートニーが作業していたんだよ」と聞いたり、ビートルズが使用していたスタジオに潜り込んだりして、すっかりビートルズの余韻にひたったようだ。片寄氏の言葉がいきいきと伝えている。

 「これってもしかするとポールが弾いてたピアノと同じじゃないですかね」志村くんはそういって年代物のピアノに腰掛けると、蓋を開けてピアノをポロポロと弾き出した。まるで夢のような時間だった。

 アルバム『フジファブリック』が、アビーロード・スタジオのマスタリング、サウンド・デザインの系譜の一つに位置づけられるのは、志村正彦にとっても私たち聴き手にとっても、幸福なことだった。『フジファブリック』には、ブリティッシュ・ロックと日本のロックの高度な融合があるのだから。
 ポール・マッカートニーと言えば、11月に11年ぶりに来日し、"Out There"ツアーをしたことがかなり話題となった。メディアにも様々に取り上げられたが、12月11日の「朝日新聞」夕刊文化欄の「甲乙閑話」というコラムで、村山正司編集委員が書いた『宗教性帯びたポール』という記事が興味深かった。

 ポール・マッカートニーのライブを、先月18日に東京で見た。11年前の来日公演と比べて、印象深かったことがある。死者が身近になっているのだ。
 「この曲はジョンのために」「ジョージのために」「リンダのために」。先に亡くなったビートルズのメンバーや先妻に捧げられた曲が、次々に演奏されていく。そして、「イエスタデイ」は福島の被災者のために。


 村山氏はポールのクラシック作品『心の翼』の第二楽章「神の恩恵」の歌詞の一節「悲嘆しきった顔に/神の恵みを受けた/痕跡を見ることができるかもしれない」について、「この歌詞を宗教的といって誤りはないだろう。旋律も天上的に美しい」と述べ、次のように考察している。

 ライブでポールは1曲終わると、しばしばバイオリンベースの底を持って天に突き上げた。観客は少し戸惑っているようだった。彼は死者にメッセージを送っていたのではなかったか。

 ツアーのタイトル、"Out There"には多様な意味があるようだが、調べてみると、「今ここではない場」「どこか彼方」という解釈もできるようだ。そのように捉えるならば、ポールは、今ここではないどこか彼方に向けて歌っていたとも考えられる。死者は今ここではないどこか彼方にいる。私たちもいつかはその彼方に向かう。ポールの所作やツアーの題名には、そのような意味が込められているのかもしれない。
 村山氏が指摘している観客の戸惑い。私はコンサートには行っていないが、何となくその晩の雰囲気を感じることができる。
 社会学者の橋爪大三郎は、『ビートルズが現役だった頃』(『ビートルズの社会学』朝日新聞社、1996年)でこう書いている。

 JOHN、PAULら四人組と聞けば、西欧世界の人々ならきっと聖書を思い出す。
 JOHNはヨハネ、PAULは聖パウロのことだからだ。そういえば福音書も、四篇あるではないか。
  一人でも二人でもなくて四人組。するとその中心に、何となくイエスの姿が視えてくる。宗教的なアウラが立ちのぼってくる。のちにジョン・レノンが”自分たちはイエスより有名になった”と言った言わないで物議をかもしたのも、ファンの側に何となくそのような同一視が隠れていたことの露われかもしれない。


 ポール・マッカートニーの信仰や宗教がどのようなものであるのか、私には分からないが、『心の翼』の歌詞の一節を読む限り、キリスト教的な思想が根本にあることが確かだろう。
 欧米の社会と文化の根底には、キリスト教がある。欧米の文化の産物であるロック音楽、特にその歌詞の世界の理解に、キリスト教の理解が不可欠であることは自明だ。しかし、私たち日本人にはその理解が難しい。(私の敬愛するピーター・ガブリエルPeter Gabriel在籍時のジェネシスGenesisの歌詞には、聖書からの引用が非常に多い。1st「創世記From Genesis To Revelation 」から6th「眩惑のブロードウェイ The Lamb Lies Down On Broadway 」まで、多様なモチーフが使われている。もともと、Genesisは旧約聖書の「創世記」のことであり、宗教的なものとの対話が根底にある。Gabrielが三大天使の名であることも欧米の聴き手にとっては前提であろう。)
 したがって、日本のロック・ジャーナリズムではそのような文脈はあまり顧みられない。欧米のロックの受容が表面的で、そのことが批評の言葉の貧しさの原因ともなっている。

 今回は、優れた書き手の言葉を引用させていただきながら、とりとめない連想のようなものを書いてしまった。夜のローカルニュースは、富士北麓地域には雪が降っていると伝えていた。今、甲府でも少しだけ積もってきた。
 もう日が変わってしまったので、明日20日から26日まで、富士吉田の夕方5時のチャイムが『茜色の夕日』に再び変わる。白い雪景の吉田と『茜色の夕日』。志村正彦のメロディが遠い彼方から静かに降ってくる。
 最後に、『CHRONICLE』の静謐な美しさを持つ名曲『Stockholm』の歌詞を引いて、この稿を閉じたい。


  静かな街角
  辺りは真っ白


  雪が積もる 街で今日も
  君の事を想う


 

2013年12月14日土曜日

「聴いた人がいろんな風に受け取れるもの」-CD『フジファブリック』4 (志村正彦 LN63)

 志村正彦は1999年に山梨から東京へ上京した。この時点から、1stCD『フジファブリック』の「東京vs.自分」という主題が動きだす。2002年のインディーズCDリリースを経て、2004年のメジャーデビューまでに、5年の月日が流れた。
 彼自身はもっと前にデビューすることを想定していたようだが、懸命な努力によって、質のきわめて高い楽曲が揃ったことを考えると、この間の蓄積はむしろ必要なものだった。
 2009年12月に亡くなるまでの東京生活は10年という歳月だった。メジャーデビューまでが5年、メジャーでの活動が5年、ちょうど半々になる。メジャーでの音楽活動があまりにも短い。時の残酷さを感じてしまう。

 この間の生活は、著書『東京、音楽、ロックンロール』によると、「必死になってバイトして、空き時間みて曲作りしたりギターの練習したり」というものだった。上京した音楽家志望の若者のありふれた物語だろうが、彼は生活と音楽を両立させていた。
 志村正彦は、感受性という資質には恵まれていたが、「若き芸術家」の早熟な才能や天分というものを持ち合わせていたわけではないと私は考えている。彼のことが「天才」と評されることもあるが、そのような過剰な修辞は、彼の本質を見誤る。彼はごく普通の若者であった。自らの感受性を一輪の花のように育て、都市生活の時間との闘いの中で、言葉と曲を、少しずつ少しずつ、探りあてていった。時間に耐えられるものだけが、資質を開花させることができる。普通、苦しい時間あるいは逆に緩い時間に耐えられなくなって、断念してしまう。

 彼はメジャーデビューまでの年月を「正直言うと、頑張ったなあと思います。よく諦めなかったと思って、あの状況の中」と振り返っている。彼は「諦めない」という志を貫いた点において「英雄」ではあった。『陽炎』では「英雄気取った 路地裏の僕」と歌っている。少年時代の「英雄気取り」は、青年時代になると、歌への純粋な欲望を譲らないで生きぬいた、本物の「英雄」となった。(精神分析家ジャック・ラカンの教えによれば、欲望を譲らないで己の道を突き進む者は「英雄」である。ラカンは、「われわれひとりひとりの内に英雄への道は描かれている。そしてまさに普通の人間としてわれわれはそれを遂行するのだ」と述べている)。

 2004年11月10日、1st CD『フジファブリック』がリリースされた。メディアからも高い評価を受けたようで、BARKSのインタビュー記事[http://www.barks.jp/feature/?id=1000003876]のリード文には、「バンド名をそのままタイトルに据えた、1stにして最高傑作であり、まぎれもない自信作の登場だ」とある。2000年代、「ゼロ年代」の有望な新人として、フジファブリックは日本のロック界に迎えられた。
 志村正彦はこのインタビューで、「自身が納得のいく作品を作るには、制作過程でいろんな苦しみがあったと思うんですけど』という問いかけに対して、こう答えている。

 一曲一曲に想いを込めて書いているので、表向きのところでも深いところでも、あまり同じようなことを言いたくないっていうのがあったんですね。それは音楽をやる以前に自分の考えがしっかりしてないとできないと思うんです。
 あとは、フジファブリックの曲は、自分の意見を押しつけるというよりも、聴いた人がいろんな風に受け取れるものでありたいんですね。例えば、日常の中の一場面を切り取ったようなものだったり、その時その時に自分が感じた想いを描いたり。それは意識してというより自然にやっているところなんですが…。

 歌詞や曲作りの根本に、「一曲一曲に想いを込めて」書き、「あまり同じようなこと」を言いたくないというスタンスがあった。彼が作りあげた八十数曲は、確かに、どれも異なり、様々な「想い」が込められている。そのような姿勢を貫くために、「音楽をやる以前」の「自分の考え」を重んじていた。音楽以前の人生が音楽を作る、そのような信念を持っていた。

 彼が自らの作品を「自分の意見を押しつける」より、「聴いた人がいろんな風に受け取れるものでありたい」と言い切っているのが、特に注目される。「自分の意見を押しつける」種類の歌が多い中で、聴き手が多様に感じ取れる歌を、彼は志向していた。このことは決定的に重要だ。このような姿勢を徹底させたことが、結果的に、彼の歌を非常に独創的なものとした。このことはすでに、「聴き手中心の歌」(志村正彦LN22)」でも書いたが、もう少し考えを深めてみたい。

 彼はそのような自分のあり方を「意識」というより「自然」にやっていると述べている。「日常の中の一場面」「その時その時に自分が感じた想い」を描く感受性。家族の愛や仲間との絆、富士吉田の自然が、彼の資質を育んでいった。このような作品作りが「自然」にできることが、彼の感受性の資質を物語っている。
 彼の歌は、いわゆる「自己表現」ではない。彼の歌を聴きこみ、読み込んでいくと、織物のように複雑な色合いで編み込まれている言葉や楽曲の中に、「志村正彦」が浮かび上がってくる。もとから、「志村正彦」という図柄がはっきりと刻印されているわけではない。
 このことを的確に言葉で表すことができなければ、批評とは言えない。現在の私はまだ漠然とつかんでいるだけだ。これを追うことが、「志村正彦LN」の主要な主題となるだろう。
  (この項続く)


付記

 私自身が、志村正彦、フジファブリックと出会ったのは、2010年初夏のことだ。(その出会いの契機と経緯については、稿を改めていつか書きたい。)だから生前の彼については全く知らない。私にとっては「作品」としての志村正彦、フジファブリックが全てある。必然的に、この「志村正彦LN」も「作品」についての思考が中心となる。

 現在、私が偶々山梨に生まれ住んで、地元でのつながりを通して、富士吉田でのイベントにも関わるようになり、間接的ではあるが、志村正彦の生の軌跡について知ることとなった。そのような縁に恵まれ、「作品」を作りだした「人」としての彼についての理解が少しずつ深まるようになった。 しかし、いくつかの事柄を除いて、そのことを直接書かないようにはしている。偶々にすぎない「つながり」を特権化したくないからだ。これまで知られていない彼の生の軌跡、評伝的事実は、いつの日か、適切な形で公刊されるべきだ。
 「人」としての彼を理解することが、「志村正彦LN」を書いていくことを一方で支えているのは確かだ。そのことには深く感謝している。直接表されなくても、文の行間や余白に、彼の生が刻まれるように書いていきたい。偶然を必然に転換することが書くことの意義だと考える。

 私が日本と欧米のロックシーンをある程度まで追いかけてきたのは、90年代半ば、年齢にして三十歳半ばくらいまでだ。よくある話しだが、持続的に聴きたいアーティストが固定されてくると、やはり、シーン全体への関心は薄らいできてしまう。だから90年代後半からゼロ年代にデビューした音楽家については、少数の例外を除いて知らない。フジファブリックについても、『山梨日日新聞』の記事でその名は知っていたが、結局、聴いてみることはなかった。自らの不明を恥じている。
 だから今、90年代後半からゼロ年代のロックを集中的に聴いている。それまでの日本語ロックにはない、新しい表現を模索するアーティストがいて、驚くこともある。
 ここ十数年のロックに「遅れてきた中年」としての私は、最近やっと、この時代の音楽に出会いつつある。

2013年12月10日火曜日

今朝、NHKのラジオで。(志村正彦LN 62)

  今朝、同僚が「朝のNHKラジオで、フジファブリックの曲がかかってましたよ」と教えてくれた。(時々、そんな情報をいただくことがあり、感謝です。)
  12月は、自然に志村正彦を想う時節になっているのだろう。
 

 調べてみると、NHKラジオ第1 放送の「すっぴん!」(月~金・朝8:00~11:50)火曜担当の津田大介氏が『パッション・フルーツ』を選曲して放送してくれたらしい。
 それにしても、朝+NHK+ラジオ第1+『パッション・フルーツ』という組合せは、シュールだ。

  津田大介氏というと、若手の「論客」として知名度が高い人。なぜ彼がフジファブリック?と思い、検索してみると、次のツイート「津田大介@tsuda」[https://twitter.com/tsuda]の記録が見つかった。

 12月25日 20:47:44
 あまりに突然過ぎて……。今年は何かやっぱりおかしい。

 フジファブリック志村正彦、12月24日に急逝 http://j.mp/8wLVgX

 12月25日 20:51:50
 「TEENAGER」と「CHRONICLE」は本当によく聴いたアルバムだったので、

 いろいろ信じられない。

 12月25日 20:55:03
 毎年これくらい年の瀬になると「今年はたくさん亡くなったなー」と思うけど、

 でも今年は特別な気がする。何なんだゼロ年代。

 最初に言及されている、ナタリーの記事「フジファブリック志村正彦、12月24日に急逝」[http://j.mp/8wLVgX]は「2009年12月25日 20:44」に配信されているので、津田氏の投稿時刻「20:47:44,20:51:50,20:55:03」は、非常に即時的な反応であり、「あまりに突然過ぎて……。」という信じられない気持ちがリアルに伝わってくる。引用するのがためらわれるくらいに。

 津田氏のような言論の人(彼にはネットと音楽関係の著作もあるので、音楽には詳しいのだろうが)が、「TEENAGER」と「CHRONICLE」を「本当によく聴いたアルバム」と発言していることに、少しばかりの驚きと共に、仲間を見いだしたような素直なうれしさも感じる。そして、「何なんだゼロ年代」という言葉には、この人らしい悲痛な想いと世代論的な捉え方が込められている。

 もう少し探すと、「ここ数年はフジファブリックが好きでした。」[2010-11-13]、「日本のバンドではカーネーションとGREAT3、最近ではフジファブリックが好きでした。海外だとXTCとか。最近だとMEWが好きですね。」[2011-05-02]というツイートもあった。

 津田大介氏のフジファブリック愛にあふれる言葉だ。
 XTC好きであれば、『TEENAGER』と『CHRONICLE』好きであることも頷ける。(私は80年前後にリアルタイムでXTCに触れた世代であり、『Black Sea』や『English Settlement』をすごくよく聴いていた。翳りのあるポップでひねくれた「ニューウェイヴ」バンドの筆頭格だった。当時は「パワーポップ」という言葉はなかった。今振り返ると、XTCからフジファブリックへという大きな流れがあるようにも思う)

 津田氏がつぶやいたように、「ゼロ年代」の音楽という視点から、志村正彦を、フジファブリックを捉えることも重要なのだろう。いつかそういう視点で考えてみたい。

2013年12月8日日曜日

アルバムのテーマ-CD『フジファブリック』3 (志村正彦LN 61)

 今回は、LN56・57に引き続き、2004年11月10日リリースの1st CD『フジファブリック』に焦点を当てて、アルバム全体のテーマ、その詩的世界について論述したいのだが、その前に、志村正彦、フジファブリックが作ったアルバム全体を振り返ってみたい。

 志村正彦在籍時のフジファブリックのアルバムは、2枚のインディーズCD、1枚のプレデビューCD、4枚のメジャーCD(+1枚の遺作CD)の計7(8)枚になる。各々にCD全体を通じたコンセプトがある。彼は『CHRONICLE』発表時に次のように語っている(インタビュー・文 久保田泰平氏[http://musicshelf.jp/?mode=static&html=series_b100/index  ]

 ファースト・アルバムは東京vs.自分、セカンド・アルバムは当時の音楽シーンvs.フジファブリックっていうテーマがあって。で、前作の『TEENAGER』は東京vs.東京が好きになった自分、なんでもない日常だけど前向きに生きていればいいことあるさっていうテーマがあったんですけど、そこで思い描いていた自分のイメージにその後の自分が届いてないように思えたんですね。だから、今回は音楽vs.自分みたいな、そのぐらいまで根詰めてやってましたね。

 志村正彦がどれだけ自覚的にアルバムを作り、自分自身とフジファブリックの進む道を見いだそうとしていたことがよく分かる発言だ。テーマを作品名・発売日と共に挙げてみる。

 1st  2004年11月10日 『フジファブリック』    東京vs.自分
 2nd 2005年11月 9日  『FAB FOX』           当時の音楽シーンvs.フジファブリック
 3rd 2008年1月23日   『TEENAGER』         東京vs.東京が好きになった自分
 4th 2009年5月20日   『CHRONICLE』        音楽vs.自分

 4枚のアルバム各々が、「自分」あるいは「フジファブリック」を定点にして、それと対峙するテーマを決めていった。最初からそのようなテーマとその展開があったというよりも、試行錯誤の果てに掴んでいったものだろう。この四つのテーマは作者側からの《自注》だから、当然といえば当然なのだが、志村正彦の言葉は非常に的確で、アルバムを捉える視点を聴き手に与えてくれる。

 志村正彦を中心として、フジファブリックの歴史を振り返るのなら、インディーズ[SONG-CRUX ]の2枚+プレデビューCDが《初期》、メジャー[EMIミュージック・ジャパン]1st・2ndが《前期》、3rd・4thが《中期》、と位置づけられるのではないのか。私の試みの区分である。

 1st 『フジファブリック』のテーマは「東京vs.自分」であるが、「東京vs.自分」の変奏として「東京VS故郷」、「東京VS富士吉田、山梨」というようなテーマもある。「四季盤」の春夏秋冬の楽曲も、「東京VS故郷」の季節感の対比が、意識的にも無意識的にも、発想の根底にあるだろう。花・植物の歌もそのような系譜にある。そして何よりも、「東京vs.自分」という立ち位置から来る「不安」な感覚がどの曲にも潜在している。そして2nd『FAB FOX』になると、1stで早くも確立したフジファブリックの音楽の可能性を「当時の音楽シーン」の中でより多様に展開していく。
 1st・2ndをリリースして、志村正彦は自分自身とフジファブリックを、きわめて独創的な「日本語ロック」の作り手とバンドとして確立した。これが《前期》の達成点であり、彼の資質の全面的な開花があった。

 3rd 『TEENAGER』の「東京vs.東京が好きになった自分」、「なんでもない日常だけど前向きに生きていればいいことあるさっていうテーマ」という言葉はまさしく、このアルバムを代表する『若者のすべて』の注釈として受けとめることができる。1stの「東京vs.自分」の「自分」は東京との葛藤を抱えている自分であるのに対して、3rdには確かに、「東京」に溶けこみつつある「自分」の「日常」が描かれている。『若者のすべて』の歩行の系列の風景も東京である。
 4th『CHRONICLE』について、3rdで「思い描いていた自分のイメージにその後の自分が届いてない」ように思え、「音楽vs.自分」というテーマを「根詰めて」やったという発言は、彼らしい真摯な追究の仕方だ。「音楽vs.自分」は「自分vs.自分」にまで深まり、年代記らしく「タイムマシーン」にも乗って、自分の過去と現在に向きあった。三十代を目前とした彼の眼差しには深さと豊かさが加わり、《中期》の豊穣ともう一度原点に戻ったかのような純粋さを併せ持っていた。
 彼自身は、先ほどのインタビューの続きで「28歳」という年齢に関連してこう述べている。

 まあ、28歳って考えますよね、今後の人生を。果たして音楽を続けていけるのか……とか。今回は、そのぐらいの意志を込めてアルバムを作って、全作詞作曲をして吐き出した感はありますね。

 あれだけの仕事を成し遂げたにも関わらす、「果たして音楽を続けていけるのか」という発言には、私のような単なる聴き手には想像できないような厳しさがリアルに響いている。『CHRONICLE』が転機となる作品だったことは間違いない。

 これからは区分を超えた私の勝手な推測だが、志村正彦の《フジファブリック》というバンド・コンセプトは、存在することができなかった5th(当然、現『MUSIC』とは異なるもの)、そして6thか7th あたりで、一つの完結を見たのではないだろうか(完結ではなく、一つの大きな区切りと考えてもいいが)。幻となった5th・6th・7th等がリリースされたとしたら、それが《後期》のフジファブリック作品となったことだろう。

 多くのロックアーティストは、十代の感性を起点として初期作品を作り、二十代に代表作を作り、二十代後半から三十代前半までに最初の円熟を迎える。それ以降も優れた作品を作り続けるアーティストもいるが、バンドを解散したり休止したりしてソロアーティストになったり、解散しないまでもソロ活動や別のバンドを作ったりすることが多い。
 志村正彦は、三十代・四十代になっても五十代・六十代になっても、素晴らしい作品を作り続けたことだろう。そしてその作品は、今私たちが聴いている歌とはかなり異なる作風になったような気もする。

  彼の命日が近い。
 現実の彼は、《後期》作品も三十代以降の作品も作りだすことはできなかった。私たち聴き手の哀しみや嘆きは尽きることがないが、今ある八十数曲の作品が、志村正彦から私たちに届けられた、かけがえのない贈り物であることに、私たちは深く感謝すべきだろう。
 二十代最後までという限られた時間の中で、これだけの数のきわめて高い質を持つ、あからさまではなく、そっと静かに聴き手の心に寄り添うことができるような、愛のある歌は、洋楽・邦楽のロックの歴史を通じて、他にはないのだから。
  (この項続く)

2013年12月5日木曜日

志村日記2009年12月5日、ヴァンフォーレ甲府。(志村正彦LN 60)

 折に触れて、「志村日記」(『東京、音楽、ロックンロール』)を読み返している。
 音楽に直接関係ない話に引き込まれることがある。今日からちょうど4年前、2009年12月5日付の日記にはこうある。

  京都前のり。民生さんと合流し、飲みに行く。
  民生さんサッカーの話、超詳しい。俺、全然分からん。
  今、甲府はどうなってるんだ?
  甲府がJ1に上がった日は嬉しくて乾杯したな、そういやあ。


 12月5日は、志村正彦の亡くなる二十日ほど前の日になる。
 フジファブリックは、みやこ音楽祭'09出演のために京都に滞在していた。4日に奥田民生のライブがあり、その日の夜、飲み会があったようだ。彼らのマネージメント会社hit&run(現SMA=Sony Music Artists)の blogには、「昨夜は民生さんとフジファブリックでギオンに飲みに行き、すっかりサッカー話やらユニコーンの裏話なんかで盛り上がってたんです」とある。このblogには、5日のフジファブリックのライブの報告と写真も掲載されていて、『Merry-Go-Round』『マリアとアマゾネス』『地平線を越えて』『銀河』『Sugar!』の5曲が演奏されたことが分かる。
 日記からは、いつもと変わらぬ音楽への姿勢や奥田民生との楽しい交流がうかがわれる。今読むと、そのことが悲しい。

 奥田民生は「広島カープ」と「サンフレッチェ広島」の大ファンのようだ。志村正彦は「民生さんサッカーの話、超詳しい。俺、全然分からん。」と述べているので、その夜は、奥田民生のサッカー談義に終始圧倒されていたのだろう。しかし、「今、甲府はどうなってるんだ?甲府がJ1に上がった日は嬉しくて乾杯したな、そういやあ。」と書いてあり、奥田民生に負けじと、山梨のJリーグチーム、ヴァンフォーレ甲府のことを想いだしてくれたようだ。VF甲府のサッカーそのものにはあまり関心はなかったのだろうが、故郷山梨のJリーグチームということで、ひそかに応援してくれていたのだろう。
 奥田民生の「広島愛」に対する、志村正彦の「山梨愛」が感じられる。

 私事を書かせていただく。私は、VF甲府がJ2に参入した1999年の翌年からクラブサポーター会員となり、この十数年の間、ホームゲームのほぼ全ての試合に通っている。VF甲府のような地方都市を拠点とするチームの誕生に、地元愛がかなり刺激され、気がつくと、熱心なサポーターとなっていた。週末は家に引きこもり、読んだり書いたりすることの多かった私にとって、スタジアムに出かけることは、外で光や風を感じることのできる大切な時間になった。
 2001年、チームが消滅するかもしれないという「存続問題」が起き、少しばかり存続のための活動をしたこともある。(「甲府愛にあふれる文」を書き続けることも存続の一助になるかもと考え、仲間のサイトの掲示板にほぼ毎日のように書いていたくらいだったが)その後、甲府は何とか存続でき、フロントと指導者に恵まれ、次第に力をつけてきた。

 2005年12月10日、J1・J2入れ替え戦の第2戦。FWバレーのダブルハットトリックというミラクルもあり、6対2で勝利し、J1昇格を果たした。その日、私も千葉の柏サッカー場のゴール裏で声援を送っていた。消滅の危機から昇格まで、あの5年ほどの軌跡は「奇跡」と呼ぶにふさわしい。
 あの日について、志村正彦が「甲府がJ1に上がった日は嬉しくて乾杯したな、そういやあ。」と書いてくれたのを、『東京、音楽、ロックンロール』の中に見つけた時は、志村ファンとしても甲府サポとしても、とても感激した。私たちサポーターも帰りの応援バスで祝杯をあげていたのを想い出した。

 「志村日記」の2009年12月5日、彼が「今、甲府はどうなってるんだ?」と書いた日は、甲府サポにとって忘れることのできない、苦い苦い日となった。VF甲府は2007年J2に降格し、この日、もう一度J1に昇格できるかどうかが決まる重要な試合を闘っていた。
  最終節時点での勝点が湘南ベルマーレ95、 ヴァンフォーレ甲府94。甲府が勝ち、湘南が引き分け以下になると、甲府はJ1に昇格する。結果は、甲府は勝ったが湘南も勝って(2点差を跳ね返した逆転勝利)、湘南が昇格を決めた。冬の寒い雨の煙る中、ホィッスルが鳴り、昇格が果たせなかったことが分かった瞬間、満員のサポーターやファンが失意と沈黙に沈んでいた。あんなに静まりかえった小瀬スタジアムを経験したことはない。もちろん、志村正彦がそんな状況を知るはすもないのだが、あの日の「今、甲府はどうなってるんだ?」という問いかけに対しては、ここまで書いたことがその応えとなるだろう。

 その後甲府は、翌2010年に2度目のJ1昇格、2011年降格。そして2012年に3度目の昇格を果たし、今年度2013年はJ1に所属し、ついこの前、J1残留をぎりぎりで決めた。大きなスポンサーがいないので、甲府の予算は少なく、環境面でも恵まれない。J1とJ2の間を行ったり来たりだが、「プロビンチア(地方)」の志とたくましさを持って、Jリーグで闘っている。たかがサッカーにすぎないけど、私はVF甲府を誇りに思っている。
 

 「志村日記」を読むと、その日付と関連のある出来事や思い出が浮かんでくることがある。
 2009年12月5日の日付、そして2005年12月5日についての記述から、志村正彦ファンであり甲府サポーターでもある私の想いを込めて、今日は書かせていただきました。

付記
 今年、ヴァンフォーレ甲府は天皇杯の準々決勝に勝ち進み、12月22日午後1時、サンフレッチェ広島と対戦します。「広島VS甲府」、まるで「奥田民生VS志村正彦」の闘いのようです(広島も好きなチームなので少し複雑ですが)。

 NHKのBS1で生中継があるそうですので、志村ファンの皆さま、よろしかったらご観戦ください。もちろん(できることなら)、甲府を応援してくださいね。

2013年12月1日日曜日

「失う用意はある?」アナログフィッシュ (志村正彦LN 59)

 今日は12月1日。今年も最後の月となった。

 最近、甲府盆地から見る富士の山は、言葉で形容するのが空しくなるくらい、気高く、美しい。甲府のほぼ南方面に富士山は位置している。だから、富士の西側と東側が視界の中に入る。夕方、西側から陽に照らされ、積雪の白い面が茜色に凝縮される。反対に、東側の面は青黒くなる。茜色と青黒色は次第に闇へと沈んでいく。そのしばらくの時の間、富士と対話する。

 甲府盆地は、東西南北を高峰で囲まれている。南に富士山と御坂の山々、北西に八ヶ岳、北東に奥秩父、西に南アルプス。飯田龍太はこの風景を次のように詠んだ。

  水澄みて四方に関ある甲斐の国

 「水澄みて」とあるような、風景の透明感。眺めるこちらの心まで澄んでいくように作用する。反面、「関所」に囲まれているような空間の感触は、閉じられてあることの安定をもたらすと共に、ある種の窮屈さや鬱陶しさを与える。その「関」を越えると、どのような風景が広がっているのか。甲斐の国に住む人々は、他国以上にその想いが強い。だから歴史的に、この地を超えて、他の地へと旅だつ者が多かった。また、貧しい山国ゆえに、他所へ働きや商いに行かざるをえない者も多かった。

 志村正彦が生まれ育った富士吉田は、甲府盆地からすると、南側の御坂山系の「関」を越えたところにある。甲府と異なり、富士山と小さな山々の「関」に囲まれているが、甲斐の国という共通項はある。彼も、生まれた地を越えて、東京へと旅に出かけた若者の一人だ。
 アナログフィッシュの下岡晃と佐々木健太郎は、長野県下伊那の出身らしい。甲府から見ると、西側の南アルプスの「関」を越える方角に、二人の出身地がある。彼らも山国の「関」を越えて、東京へと向かった若者なのだろう。
 志村正彦そして下岡晃も佐々木健太郎も、山国という自然の景観の中で、感受性を育て上げていった。自然と共に在るという感性。その表現の仕方は異なっているが、彼らの共通の原点とは言えるだろう。

 前回に引き続き、アナログフィッシュ&モールスの桜座ライブについて書きたい。アナログフィッシュの1曲目は『PHASE』だ。激しいリズムに聴き手の手拍子も加わり、桜座の空間が熱気を帯びる。下岡晃は力強く歌い始める。

   失う用意はある?
  それとも放っておく勇気はあるのかい


 何を「失う」のかという具体性は省かれ、その「用意はある?」とだけ問いかけられる。「失う」何かとは「放っておく勇気」を向ける対象と対比されていることだけが確かだ。何を失う用意があるのか、私たちが自らに問いかけ、そして自ら応答するように、言葉は仕掛けられている。

 この歌詞は2011年3月11日の地震に起因する福島原発事故「前」に書かれていたようだが、この歌詞を予言的なもの、あるいは警告的なものと捉えるのは、3.11の原発事故「中」の現実、非常に過酷な状況に対して、あまり適切ではないだろう。原発事故は終息してはいない。私たちはまだその最「中」にいて、事故「後」にいるわけではない。「予言」や「警告」は、歴史の眼差しの中にある言葉であり、私たちが向かうべきなのは「現在」という、時間のただ「中」の課題であり、そのことを考え抜く言葉だ。
 下岡は「システムとルール」に覆われている「真実」を求めている。

  システムとルールをくぐり抜け
  真実に会いに行くんだよ


 福島原発事故が私たちに突きつけたのは、私たちの持つ命と健康、私たちの住む地と自然が絶対に奪われてはならない、という真実だ。これは絶対的な真実だが、怠惰な私たちは時にそのことを忘れてしまう。起こりえないような、しかし、現実に起こってしまった過酷さによって、忘却しがちの真実の目が覚めた。

 そしてまた、私たちは、命と自然というかけがえのないもの、決して元には戻らないこと以外のものごとについては、それが本当に必要なものなのか、という疑問を抱くようになった。
  奪われてならないものは奪われてはならない。無根拠で理不尽で狡猾な力によって奪われてはいけない。しかし、失っていいものは、むしろ、失ってもいいのではないのか。
 何かを作り、得ること。手に入れたものを蓄積していくこと。この時代の産業と技術は得ることを中心に回っている。得ることへの強迫観念によって人々を支配している。そのことにより、かえって何かが奪われている。得ることが奪われることにつながるのなら、得ることを求めないこと、むしろ、はじめから失っているように生きていくことの方が倫理的ではないだろうか。
 命と自然のように絶対に奪われてはならないもの。相対的に失ってもいいもの。この二つの選別が差し迫った課題となる時代が訪れつつある。
 下岡は『PHASE』を次のように締めくくる。

  僕たちのペースで この次のフェーズへ
  君だけのフレーズで その次のフェーズへ


 今、私たちは、「失う」ことへの「用意」を求められている。私たちは何をどのように失っていくのか。私たちが失うことでどのような世界が始まるのか。私たちは自らの「フレーズ」を口ずさみ、その次の「フェーズ」、世界の来るべき「フェーズ」へと移行しなくてはならない。
 下岡晃の聡明な言葉は、この時代に焦点を当てて、私たちの現在に鋭く突きささる。

2013年11月23日土曜日

アナログフィッシュ&モールス、甲府の桜座で。(志村正彦LN 58)


  17日夜、甲府の桜座で開催の『analogfish&mooolsと行く、冬の信州 甲府 皆神山 気脈巡りツアー2013』に出かけた。アナログフィッシュは、志村正彦、フジファブリックとゆかりの深いバンド。「志村日記」の2004年5月2日にはこうある。

新宿ロフトにアナログフィッシュを観に行く。
凄くグッと来た。なんか頭の中がドワーッとなる感じ。
連続するキメも気持ちよかった。


 志村正彦が「凄くグッと来た」と書いたアナログフィッシュ。いったいどんな音楽なのだろうか。9月下旬、桜座でライブがあることを知るとすぐに予約を入れ、新譜の『NEWCLEAR』と旧譜の『ROCK IS HARMONY』と『KISS』を手に入れ、当日までに聞きこむことにした。youtubeの映像やネット上の記事も探した。

 こんなにも質の高い独創的なスリーピースバンドがあったのだなという驚きが初めにもたらされた。ギター、ベース、ドラムの三つの楽器による複合的な厚みを持つリズム。それに乗って繰り広げられる二人の言葉と歌声、三人によるハーモニー。下岡晃の鋭さと深さ、佐々木健太郎の伸びやかさと陰影。二人を支える斉藤州一郎の抑制の効いた正確なビート。スリーピースであるという必然性を感じる音楽だ。そしてこの時代において、志村正彦とは異なる方法論で、言葉を、メッセージを、非常に大切にしているバンドだということが分かった。桜座ツアーへの期待が高まっていった。

 私の自宅からは車で10分ほどで桜座に着く。甲府の中心街にある桜座は、いわゆる「ライブハウス」ではなく、不思議な「小屋」だと言うしかない場だ。もともと、明治から昭和初めまで、甲府の桜町に「櫻座」という芝居小屋があった。その伝統と記憶を復活させるために、名前を受け継ぎ、場所を少し移し、ガラス工場を改築して、2005年6月、新しい「桜座」が誕生した。

 工場を直したため、天井がかなり高く、音が抜ける構造であり、いわゆる「デッド」な響きの音となる。聴き手は座布団に座り、すぐ前に演奏家がいるので、距離が近く、他の会場では味わえない雰囲気がある。桜座の独特な雰囲気と音の素晴らしさが音楽家にも好評で、最近は以前よりライブの回数が増えてきた。

 江戸時代の甲府に遡る。甲府は幕府直轄領になり、甲府勤番が置かれた地だ。独自の「藩」文化が育たない代わりに、江戸の文化とは意外に直結していた。芝居小屋もたくさんあり、市川団十郎など江戸の歌舞伎がよく演じられていた。甲府で評判が良いと江戸でも必ずそうなると言われていたようだ。江戸の甲府の街には、それなりに人々が愉しむ場があったらしい。

 今、甲府の中心街は、他の地方都市と同様にさびれてしまっている。東京には日帰りで遊びや買い物に行ける距離にあることが逆に災いとなって、若者が集うような街の文化が育たない。そのような状況で、「桜座」のプロジェクトが始まったのは歓迎すべきことだった。甲府の街の一つの拠点となる可能性があるからだ。これまで私も、早川義夫・佐久間正英のユニット、遠藤賢司、森山威男(山梨・勝沼生まれの最高のジャズドラマー)、梅津和時・こまっちゃクレズマなど、ここでしか聴くことのできない音楽に出会いに行った。今年は6月に、向井秀徳アコースティック&エレクトリックのライブを聴いた。

 桜座に入る。客は百人くらいだが、おそらく半数以上いや3分の2以上が県外から来られた方だと推測される。アナログフィッシュとモールスの熱心なファンがほとんどだろうが、中には私たちのような志村正彦ファンも混じっているかもしれない。桜座の最近の動員はまずまずのようだが、県内の客が少ないのがとても残念だ。

 ライブはアナログフィッシュの『PHASE』から始まった。斉藤州一郎と佐々木健太郎のリズムセクションは、「怜悧な熱狂」とでも言えるような凄みを持つ。そのリズムに巧みな脚韻と切れの良い歌詞が絡み合い、言葉と律動の独特な複合感が生まれる。このようなサウンドは洋楽を含めて他に類例がない。志村正彦が書いた、「凄くグッと」「頭の中がドワーッと」という形容、「連続するキメ」の気持ちよさとは、このような感触なのかもしれない。
 
 スリーピースバンドにはロックの原型がある。必要でないものをそぎ落とした音ゆえに、逆に、三人の音や声が透きとおるように空間に広がっていく。桜座という素晴らしい環境を得て、アナログフィッシュの奏でる空間の感触に魅了された。  (この項続く)

2013年11月17日日曜日

「レコード持って」-CD『フジファブリック』2 (志村正彦LN 57)

 前回、メジャー第1作CD『フジファブリック』がアナログ盤LPレコードとして発売されたらという「ないものねだり」の夢想を語った。
 とは言っても今、私自身、学生時代によく聴いていたLPレコードとプレーヤーは物置に置いてある。ほとんどCDで買い直してあるのだが、それでもやはり、LPを処分することはできない。いつだったか、20年ぶりくらいに、レコードを梱包した包みをほどいたことがあった。封印を解くかのように現れたLP盤、ジャケットのデザイン、絵や写真やロゴ、紙製であるゆえのやわらかい手触り、物質としてのレコードはとても強い記憶の喚起力を持っていて、私はすぐに学生の頃住んでいた東京のアパートの部屋にワープしていった。

 おそらく今よりももっと切実に音楽を聴いていた日々があった。十代から二十代の感性でしか出会えないような音楽がある。切実に向き合うという意味で。ロックはそのような経験の代名詞だ。現在の私はその経験の残滓を言葉で補填して、このようなエッセイを書いているにすぎない。(もちろん、言うまでもなく、どのような年代にでも、音楽は開かれている。ただし、ロックの場合、ある種の若さ、未熟さのようなものが出会いの契機となり、聴くことを深めていく。それは若者の特権でもある)

 『フジファブリック』収録曲に、『サボテンレコード』という、志村正彦でしか作りえないと断言できるような歌がある。彼の音楽的な素養が、狭義のロックを超えて、より豊かなものであったことを証明する楽曲だが、歌詞も、「ちょっとへんてこりんなのに、せつなく、いとしい」という、彼の独創的な歌の系譜に位置する作品だ。
 歌の主体は、「ならば全てを捨てて あなたを連れて行こう」と決意する。

  何も意味は無かったが ステレオのスウィッチ
  入れて 30年遡り かけた音楽
  それはボサノバだったり ジャズに変えては まったり
  リズム チキチキドン チキチキドンドコ


 音楽は時間を遡る。「何も意味は無かったが」、それはかけがえのないものだ。「チキチキドン チキチキドンドコ」のリズムにのって、人を大切な時へと瞬間移動させる「タイムマシーン」だ。
 だから、「全てを捨てて」も音楽を捨て去ることはできない。「今夜 荷物まとめて」、「サボテン持って レコード持って」旅立つことになる。花を咲かせることのあるサボテン。アナログ盤にまちがいないレコード。志村正彦らしいアイテムだ。
 

 今、アナログ盤をめぐる状況はどうか気になったので、ネットで調べてみた。RO69がNMEと提携しているニュース(2013.10.18)に、「英アナログ盤が過去10年で最大のセールスに」と題した記事が掲載されていた。(http://ro69.jp/news/detail/90762
 すでに昨年比100パーセント以上の売上増となり、アルバム全体のシェアでも0.8パーセントとなってるそうだ。イギリス・レコード産業協会(BPI)代表ジェフ・テイラー氏の言葉が紹介されている。

 アナログ盤について私たちは今その復活を目撃しているわけで、もはやレトロ好きのものではなくなり、音楽ファンにとってますます一つの選択として注目されてきているのです。今もマーケット全体に占めるシェアは小さいものですが、大抵はMP3のダウンロード・コードも付録としてついてきているアナログ盤レコードの、特に12インチというサイズのジャケットに施されたアートワークやライナーノーツ、またその独特なサウンドの魅力を新しい世代のリスナーが発見していて、それに伴って売上は急速に伸びています。

 やはり、ジャケットのアートワーク、ライナーノーツ、独特なサウンド、という三つの魅力が指摘されている。それに加えて大抵はMP3のダウンロード・コードが付いているのは初めて知ったが、こういうアイディアにはとても感心した。つまり、コレクションアイテム、愛蔵品としてはアナログ盤、デジタル音源としてはMP3、両者の良さを合わせ持った「ハイブリッド」的な商品作りをしている。その観点からすると、コンパクトディスクはデジタル音源の記録媒体としての意味合いしかなくなり、魅力のうすい中途半端なものとなるだろう。
 このような商品の場合、コスト増は否めないが、パッケージメディアがこれからも商品として存続するためには、このような試みも必要だ。試行錯誤が今後も続くのだろう。

 志村日記(『東京、音楽、ロックンロール 完全版』[ロッキング・オン])の2006年3月8日の記述「でかけた」にはこうある。 

で、昨日は片寄さん夫婦宅にお邪魔しました。譲ってもらうレコードプレーヤーを取りにいったんですが、色んな話をしました。

ビートルズのオリジナル盤も聴かせてもらいました。PUNKでした。宝の山でした。片寄さんもオタクど真ん中です。俺も欲しい盤あるから気合い入れてレコード屋へ足を運ぼうかなと。

 片寄明人・ショコラ夫妻にも感化されて、志村正彦のレコード愛も高まっていったようだ。彼が一番、フジファブリックのCDのアナログ盤を欲しがっていたのかもしれない。この日の日記を読んで、そんなことをしきりに想う。
  (この項続く)

2013年11月10日日曜日

ないものねだりの空想-CD『フジファブリック』1 (志村正彦LN 56)

 9年前の今日、2004年11月10日に、フジファブリックのメジャーデビュー作『フジファブリック』がEMIジャパンから発売された。すでに、インディーズでの2枚のCD『アラカルト』『アラモード』、それらの楽曲を再録音したプレデビューCD『アラモルト』の3枚の「アラ~」アルバムが発表されていたが、この日は、メジャーという世界にアルバムデビューした記念すべき日だ。今朝から繰り返し聴き、思い浮かんできた様々なことを、数回に分けて書き連ねたい。

 コンパクトディスクを手に取る。柴宮夏希さんと志村正彦自身によるジャケットのデザイン。フジファブリックのメンバー5人が溶け出すような不思議な絵と七色の虹のような線が独特の印象をもたらす。歌詞のブックレット、内側にスタジオでのメンバーの写真。その部屋のモチーフがデザインされ、CDの表面にモノクロでプリントされている。クレジットのSPECIAL THANK の冒頭には、オリジナルメンバーだった渡辺隆之の名。志村正彦の彼に対する想いが伝わる。

 そのうち、このCDがLPレコードのアナログ盤として発売されていたらどうだったのか、というあるはずもない想像をして遊ぶことになった。「ないものねだり」の空想だ。
  柴宮さんのイラストはもっと大きな面の方が栄える。虹色の7本のラインもすっと延びて、見開きの裏側には、全10曲の歌詞が並んで、志村正彦の詩的世界が広がる。こんなジャケットであれば、部屋の一角に立てかけておくか、フレームに入れて壁に飾るか、色々と工夫ができる。

 私たちのような、70年代前半のLPレコードのジャケットの黄金時代に、ロックのアルバムを聴き始めた世代にとって、80年代以降のCDへのメディア変更による、30センチ四方の紙製ジャケットという「キャンパス」の喪失は何よりも残念なことであった。特に、70年代前半の英国ロックのジャケットは、極東の島国に住む若者たちにとって何よりも、ポップな「アート」を感じさせるものだった。(長い時間にわたるが、CDが売れなくなってきたのは、このようなアートが失われてしまったからだという気もしている)

 いつもはPCに接続した小さなスピーカーで聴きながら原稿を書いているが、今日は「ステレオのスウィッチ入れて」、ヴォリュームを上げ、大音量で鳴らした。
 ロックだ。あたりまえのことかもしれないが、ものすごく「ロック」を感じる。それも70年代前半の「ニューロック」(懐かしい言葉だ)と呼ばれていた時代の音の感触に近い。「ニューロック」をバンド名で象徴するのなら、レッド・ツェッペリンになるだろうか。歌詞と楽曲が、言葉とサウンドが、それ以前の時代の「ロック」や「ロックンロール」より、はるかに高度に美しく結びついたのが「ニューロック」だった。

 音源そのものも、デジタルっぽくないというかアナログのような感じがする。加工しすぎていない、素のサウンド、素のうねりのようなリズムを活かしている。プロデューサーの片寄明人は「僕は少なくともこの1stアルバムまではメンバーの音だけで、しかもアナログな音で創り上げるべきだと強く思っていた」と書いている(『フジファブリック4』(片寄明人 公式Facebook、https://www.facebook.com/katayose.akito/notes)。 『FAB BOOK』にもメンバーによる同様の証言があるが、このねらいは充分に実現されている。ロンドンのアビーロードスタジオで、スティーヴ・ルークによるマスタリングが施されたことも大きいのだろう。

 LPレコードであれば、当然、A面とB面という構成になる。全10曲だから5曲ずつになるだろう。

  A面
   1.桜の季節
   2.TAIFU 
   3.陽炎 
   4.追ってけ追ってけ
   5.打上げ花火 
  B面
   1.TOKYO MIDNIGHT
   2.花
   3.サボテンレコード
   4.赤黄色の金木犀
   5.夜汽車

 想像の世界で、LPをターンテーブルに置く。A面、表面は、『桜の季節』という「始まり」の季節、『陽炎』という「追憶」の季節、志村正彦にしか表現しえないような春・夏盤のモチーフ、「TAIFU」「追ってけ追ってけ」のユニークなリズムと言葉の感覚、「打上げ花火」のプログレッシブ・ロック風味の展開というように、「クラッシック・ロック」の王道を踏みしめると共に、「類い希な日本語ロック」の道を歩み始めている。

 LPをひっくり返す。B面は、裏面らしく、「TOKYO MIDNIGHT」から「夜汽車」へと、A面最後の「打上げ花火」から続く「夜」の時間が底流にある。「花」「サボテンレコード」「赤黄色の金木犀」という流れ、花や植物という志村正彦の愛したモチーフが続く三つの作品。季節は秋へと移り、「夜汽車」で帰路につくように静かに終わっていく。A面の「動」と「昼」、B面の「静」と「夜」という対比も、仮想の聴き手は感じとるだろう。そして、この音源には黒いビニールのLPレコード盤がしっくりくるような気がしないだろうか。

 ここまで書いてくると、『フジファブリック』のアナログLPを現実に欲しくなってくる。「ないものねだり」の欲望だと思われるかもしれないが、もうすぐbloodthirsty butchersの「kocorono」が限定1000セットで初のアナログLPになって発売される。5月に急逝した吉村秀樹(孤高の優れた歌い手であり詩人である。かつて志村正彦も一緒に小さなツアーをしたことがある)の長年の希望だったようだ。このような追悼の形は音楽家への敬意があふれている。

 来年は、フジファブリックのメジャーデビュー10周年となる。志村正彦在籍時のフジファブリックを新たに見つめ直す良い契機となる。収録済みだが未発売のライブの音源・映像などがまだいくつかあると思われる。フジファブリックのファンはそのような音源・映像を今まで「ないものねだり」してきたのだが、少しでもいいから、「ないもの」が「あるもの」になりますようにと、願わずにはいられない。
  (この項続く)

2013年11月4日月曜日

ベスト3 (ここはどこ?-物語を読む 6)

 『笑ってサヨナラ』を聴いていて、私的に志村正彦のベスト3を作るとしたらこの曲は外せないなと思った。細々と状況を伝えることばを連ねるわけではないのに、彼女との関係や状況が目に浮かぶようだし、サビの部分の「どうしてなんだろう」には後悔や悲しみや迷いや割り切れなさ……さまざまな心の動きが凝縮されていてとても切ない。それはおそらく多くの人が一度や二度体験したことがあるもので、この曲を聴くとその時の感情が呼び戻されるような気がするのだ。

  恋愛などというものからとっくに遠ざかっているオバサンでも、人生には「どうしてこうなってしまったのか」とか「どこでまちがえたんだろう」とくよくよする事態は降ってくる。若い頃は年を重ねたら少しは賢くなるかと思っていたのに、現実はたいして成長せず、同じ間違いを繰り返しては反省の堂々巡りをする。だからオバサンにもこの歌は沁みる。

 ベスト3(順不同)のあとの2曲はと考えて、さてどうしたものか、かなり迷う。 『陽炎』はね、入れなきゃ。『茜色の夕日』もね。でも、そうすると『赤黄色の金木犀』とか入らないし、『TAIFU』や『虹』みたいなアップテンポのものも入れたい。 うーん、どうしようとしばらく悩んでいて、いいことを思いついた。

 ベスト3だからいけないんだ。ベスト5にしよう。なんで早く思いつかなかったんだろう。我ながら妙案に気をよくして、指を折りながらもう一度並べてみる。 『笑ってサヨナラ』『陽炎』『茜色の夕日』『虹』『TAIFU』……あれ、『赤黄色の金木犀』は? それに『夜汽車』好きなんだよな。『ペダル』や『ないものねだり』も。『ルーティーン』を落とすのはしのびないし、『地平線を越えて』も大好きだし、『若者のすべて』や『桜の季節』が入らないのは納得がいかない。仕方がない。いっそベスト10にしよう。

 ……馬鹿である。そもそも誰に頼まれたわけではないのに勝手にベスト3を選定しようとしてさんざん悩んだあげく、姑息に範囲を拡大したのだが次々に候補曲が頭になだれ込んで収拾がつかなくなってしまった。三〇分ほど考えたが、結局決めあぐねて諦めることにした。

 こう書いていると「それはあなたが優柔不断だからでしょう」と言われそうだが、「それがそうでもないのです」と申し上げたい。例えば、好きな映画ベスト3とか、好きな役者ベスト3とか、好きな果物ベスト3とかだったら即座に答えられる。だから、やはりこれは志村正彦の責任なのである。

 すみません、志村正彦さん。わかっていたつもりだったけど、まだまだあなたを甘く見てました。粒ぞろい、それも大粒の粒ぞろいのこんなにすばらしい歌をいっぱい作ってくれてありがとう。
 さて、皆さんのベスト3はどの曲でしょう?
                         

2013年10月26日土曜日

血と歌との間にあるもの-『若者のすべて』12 (志村正彦LN 55)

  歌を聴くことが、自分自身を聴き、読むことであるとしたら、聴き手は結果として、ある種の自己対話を試みることになる。もちろんそれは、歌い手という他者の存在が前提になる。
 志村正彦も『若者のすべて』について、『音楽と人』2007年12月号の樋口靖幸氏による記事で「曲って基本的に人に向けて作るもんですけど、俺、この曲聴くたびに自分に向けて作った曲だなって思って。聴くたびに発見もあるし、後悔もあるし……」と述べている。彼自身が『若者のすべて』との対話を繰り返してきたのだろう。

 一つの問いがある。そもそも、なぜ志村正彦は歌を作り、歌うのだろうか。『若者のすべて』を作った動機はどのようなものだったのか。
 樋口靖幸氏による記事は、この論でもすでに何度か言及した。なかでも、これから引用する部分はとても貴重な証言になっている。この発言を初めて読んだ時、それまで分からなかった志村正彦のある真実に触れたような気がした。彼は、「今は伝えること重視。メッセンジャーという本来あるべき方向に向かい始めたんですよ」と語り始める。そして、その理由を述べる。

それはなぜかっていうと俺はもう伝えないと……自分という人間のバランスが崩れてしまう状態になってしまった。日々の生活ができないくらい。とにかく自分の曲……曲っていうか血。血を吐き出して、それをお客さんに肯定されようが否定されようがそれにアクションがないと日々の生活に支障をきたしてしまう。

 「自分という人間のバランスが崩れてしまう」「日々の生活ができないくらい」という切実な言葉、そして、「血を吐き出して」という途轍もなくリアルな言葉。樋口氏も書いているように、インタビューというより「独白」のように続く志村正彦の内省的な言葉の一つひとつが読む者に痛切に響く。対話の相手との信頼関係が生んだこの発言は、『若者のすべて』についての希有な記録となっている。

 彼は「血」を吐き出して、『若者のすべて』を作った。そのようにして出来上がったこの作品に、彼の「血」の痕跡はあるだろうか。そのような問いが浮かぶ。歌を聴き直し、言葉をたどり直してみる。「すりむいたまま 僕はそっと歩き出して」という一節に、わずかな痕跡があるのかもしれない。「僕」は膝のどこかに少しばかり血をにじませている。あるいは、「運命」「世界の約束」「夢の続き」という抽象的な言葉の裏側にも、主体が流す、比喩としての「血」のかすかな跡が見つけられるのかもしれない。

 しかし全体としてみれば、完成した作品から「血」の痕跡を見いだすのは難しいだろう。彼は優しく穏やかに若者の物語を伝えている。二つの系列から成る言葉の織物は美しく紡ぎ出されている。『若者のすべて』は「血」とは異質な世界を歌い上げている。それでは、彼が「血を吐き出して」作品を作ったということを、私たちはどのように受け止めたらよいのだろうか。

 志村正彦は「血」という言葉で何を表現しようとしたのか。「血」という言葉で何かを伝えようとしているのではない。何かを喩えようとするものでもなく、イメージを表しているのでもない。
 「血」は「血」である。象徴的なものでも想像的なものでもなく、現実的なもの、実なるものである。実なるものは主体を突き動かす。彼の身体にたぎる「血」は、彼を、歌を作るという行為に強く押し出す。志村正彦は実なるものを吐き出して、歌を作ってきた。そうしないと「日々の生活に支障をきたしてしまう」と説かれるほどに、強烈で持続的な力のもとに。
 「血」は、実なるものは、作品を作り上げる原動力となる。主体を突き動かす力でもあるが、この力は時に破壊的で、主体を滅ぼしてしまうような恐ろしい力となることもある。

 聴き手は、そのような過程を知らずに聴いている。そのこと自体には全く問題はない。過程など知る必要はない。作り手側も知らせる必要はない。志村正彦もそのことを伝えようとして語り出したのではないだろう。この「血」に関する発言は信頼できる取材者との間で、独白のようにそっと漏らされた言葉であろう。
 聴き手は作品という贈り物を受け取るだけである。単に作品として受け取ってほしいと彼は望んでいるだろう。作品は作者の「血」からも離れ、自立していくのだから。
 それでも、「血」という彼の言葉を知ってしまった者は、自らの内部で何かがざわめくのを感じとるだろう。そのざわめきと対話を始めるだろう。「血」と「歌」との間にある隔たり、作り手と聴き手との間にある断層、そのような不可避の裂け目に無自覚ではありえなくなる。

 この『若者のすべて』論を閉じるにあたり、最後に、この歌のミュージックビデオに触れたい。掛川康典監督によるこのMVは、志村正彦のやわらかい声の響きとグレー色の霞がかかったような色調の背景が溶けあい、ひときわ優れた映像作品となっている。LN2で書いたように、「夏」というよりも「冬」のような静けさと透明感を感じる。
 フジファブリックのメンバーの演奏。金澤ダイスケのピアノの律動はこの曲の基調音のように響きわたる。山内総一郎のギターの抑制された音色、ベースの加藤慎一とサポートドラムの城戸紘志による正確で清澄なリズム。この楽曲の演奏は志村正彦のボーカル、あの限りなく優しい声を穏やかに包み込んでいる。2000年代、「ゼロ年代」のロックバンドの最高のアンサンブルがここにある。

 その優れた演奏に支えられて、志村正彦の声も次第に静かに力を帯びてくる。彼のシャツには「coexistence」というロゴがある。〈共生〉〈共に生きること〉を視覚として伝えようとしたのだろうか。アコースティックギターを抱えて歌う彼の顔にはもう、初期のMVにあった十代の少年のような面影が宿ってはいない。若者としてのすべてを知りつつあるかのような、二十代後半の顔。「世界の約束を知って それなりになって また戻って」という一節のように、ある種の成熟した表情がそこにはある。こちら側を見つめる深い深い眼差しは、「同じ空を見上げているよ」と歌うエンディングで、次第に閉じられていく。「まぶた閉じて浮かべているよ」という言葉が想起される。そして歌い終わると、眼差しはやや下方に向けられる。物語を歌い終わった、しばしの安堵のような、再び、言葉をかみしめ、振り返るような、微妙な陰影のある表情と共に、このMVの円環は閉じられる。

 『若者のすべて』は、時に、運命のように、世界の法則のように、夢の続きのように、聴き手の胸に強く響く。私たち聴き手も、歩行を重ねながら、歌と対話する。
 この歌の声と律動、豊かさと深さ、明確には語られなかったゆえに余白にそっと佇む「愛」の感触のようなものは、永遠に、人々の心に響き続けるだろう。

付記
 12回続いたこの『若者のすべて』論がようやく完結しました。断続的な掲載となったにも関わらず、お読みいただいた方々には深く感謝を申し上げます。しかし、とりあえずの完了であり、すでにいくつかの小さなモチーフが動きつつあり、いつか再び歩み始めようと考えています。

2013年10月20日日曜日

歌う人間が伝わる-早川義夫・佐久間正英ライブ (志村正彦LN 54)

 早川義夫・佐久間正英のシカゴ大学ライブの中継から一日が経つ。
 回線の問題か、音と映像の間に時間差があるという難しい状況にあった。しかし、聴いている内に、音が先に届き、その像が遅れてたどりつくという「ずれ」が、何だか、あの場の中継としてふさわしいような気もしてきたから、不思議だ。

  2回のアンコールも含めて、1時間10分ほどのコンサートで、強く記憶に刻まれる演奏だったのは、やはり、『からっぽの世界』だった。早川義夫の歌う言葉の一つひとつが、今日のこの日のために選択されたかのようだった。佐久間正英の演奏は、彼がギターを奏でているというよりも、ギターが彼の身体を静かに奏で、水の音が流れるように、透明に音を響かせていた。

 佐久間は早川について、「goodbye world」(http://masahidesakuma.net/2013/08/goodbye-world.html)という文で、「自分はこの人の歌のために音楽をやって来たのではないだろうか。この人と出会うためにギターを弾き続けて来たのではないだろうか、と。そんな風に思えるほど歌にぴったりと寄り添うことができる。」と述べている。この「寄り添う」という言葉は、限りなく美しい。
 昨日は、二人が互いに寄り添うように歌い、演奏していた。あの場にいた聴衆も、中継を通じての聴衆も、皆、寄り添うように聴いていたことだろう。

 回想を語りたい。
 1981年、中野サンプラザで、トーキング・ヘッズの前座として登場したプラスチックスのコンサートで、佐久間正英の演奏を初めて聴いた。尖っていてしかも力が抜けていたモダンなポップミュージックは、頭と体にとても愉快な刺激を与えていた。
 1995年、五反田ゆうぽうとホールで早川義夫のコンサートがあった。70年代前半に彼の音楽に出会った私にとって、前年の渋谷公会堂に続く二度目のライブ体験だった。
 アンコールで、彼は「佐久間さんに作ってもらったギターです」と言い、うれしそうに微笑みながら、少し照れくさそうに、ギターを掲げ、『いい娘だね』を歌い始めた。ギターを弾く早川義夫。「それは夢の中でも いい娘だね いい娘だね」という一節のように、「夢の中」の光景のようだった。 (ギターを奏でる彼を見たのはこれが最初で、今のところこれが最後だ)

 あの時も、そのような形で、佐久間正英は早川義夫に寄り添っていたのだな、と昨日想い出した。 そして、志村正彦のことを考えた。

 志村正彦・フジファブリックを遡行していくと、四人囃子を経由して、早川義夫・ジャックスという源流に行き着くと、前回書いた。佐久間正英は、志村正彦の歌、フジファブリックの音楽をどのように受けとめているのか。早川義夫は、(彼が志村正彦の歌を聴いたことがあるのかどうかは知らないが、もし彼が志村の歌を聴いたとしたら)何を感じとるのだろうか。そのような切実な問いがある。

  かつて、早川は「歌が伝わるとか伝わらないということではなく、歌う人間が伝わってこなければ駄目なのです」と書いた。昨日のライブ中継では、早川義夫と佐久間正英という、「歌う人間」「奏でる人間」が確かすぎるくらい確かに伝わってきた。
 彼らと親子のように年の離れた世代ではあるが、日本語のロックという場の中で、志村正彦の歌はそのような早川の想いに最も近づいた歌だと思われることをここに付言しておきたい。

2013年10月18日金曜日

早川義夫・佐久間正英のシカゴ大学ライブ中継について (志村正彦LN 53)

 「日本語のロック」という歌の枠組みの中で、志村正彦・フジファブリックを遡行していくと、四人囃子を経由して、早川義夫・ジャックスという源流に行き着くと、私は考えている。このテーマは、しっかりと時間をかけて準備した上で書くことにしたい。

 その早川義夫と佐久間正英(四人囃子、プラスチックス、早川義夫とのユニットで活躍、プロデューサーとしても高い実績を持つ。2008年7月、「四人囃子×フジファブリック」というライブがあり、志村正彦とも共演している)のコンサートが、アメリカのシカゴ大学の日本文学研究のプログラムの一つとして開催される。その生中継ストリームのウェブページは、http://ijpan.ncsa.illinois.edu/ で、シカゴ時間で10月18日(金)19:30、日本時間では10月19日(土)午前9:30から始まる。

 ストリーム中継があることはつい先ほど知ったのだが、このブログを読んでいただいている方で、明日午前9時30分からネットと接続できる環境にいらっしゃる方には、ぜひこのライブを聴いていただきたいと思う。一つの歴史が開かれる経験をすることになるだろうから。

 ウェブの紹介頁には、ジャックスについて、「The Jacks released two classic albums of original songs that probed the existential angst of Japanese youth in the 1960s.」と記されていた。アメリカの「日本文学研究」という視座から、ジャックスの音楽を「1960年代の日本の若者の実存的な不安」を探求したという批評の言葉がもたらされたことは非常に興味深い。日本の外側から、日本の内側を、日本の音楽を見つめ直す視点から学ぶことは多いだろう。志村正彦、フジファブリックについても、「 Fujifabric International Fan Site 」が試みているように、英語への翻訳という実践や日本の外部からの視点で考察することもこれから重要になる。

 とにかく、明日の9時30分が待ち遠しい。何を感じ、考えるのか。このLNでも記してみたい。

2013年10月14日月曜日

自分自身を聴き、読むこと-『若者のすべて』11 (志村正彦LN 52)

 作品の言葉だけではなく、志村正彦自身の貴重な発言にも導かれながら、『若者のすべて』の語りの枠組みや構造の分析を重ねてきた。彼の唱える「歩行」を意識して、ゆっくりと時間をかけて、できるだけ丁寧に、一つひとつの言葉を歩もうとしてきた。出発の前におぼろげな道筋はあったが、どのように歩き、どのような地点にたどりつくのか、確かだったわけではない。歩んでいくうちに、道が見えにくくなったり、分かれてしまったりもしていた。「それなりになってまた戻って」歩み、錯綜とした道になり、難渋したので、飛躍や矛盾も含まれているかもしれない。

 前回、二つの系列、「僕-歩行」系列と「僕ら-最後の花火」系列との複合を指摘する地点まで歩みを進めた。今回と次回、ようやく見えてきた最後の(今回の歩みの「最後」という意味にすぎないが)終着点を描き、この論を完結させたい。 (論の歩みの中で、「路地裏の花」のような周縁的なモチーフにも幾つか出会うことができた。これらの点については、別の形でいつか再び歩み始めたい)

 一連の論では、『若者のすべて』の解釈については、部分的なものに限定した。歌の全体の解釈には未だにたどりついていない。この作品は、全体というよりも、部分が、断片が聴き手に作用するような気もする。
 志村正彦の歌は多様な解釈が可能である。解釈は、一人ひとりの聴き手の「聴く」あるいは「読む」という行為の過程で作られていく。作品の意味は作品に内在しているわけではない。作品には音や文字の記録があるだけで、それそのものは、意味が満たされていない記号として存在しているにすぎない。記号に意味を見いだすのは受け手側である。作者も例外ではない。作品を作る過程で、完成した時点ではなおさらに、受け手側、聴き手や読み手という立場で作品に接し、解釈を行う。

 歌を聴き、歌を読みとる行為は、究極的には、自分自身を聴き、読みとる行為である。時の経過によって、場の移動によって、自分自身の変化によって、あるいは偶然の出来事によって、解釈は変わっていく。LN6で述べたように、志村正彦も、2007年12月の両国国技館ライブで、『若者のすべて』を作り終えた後に聴くと、「同じ歌詞なのに 解釈がちがう」という経験を伝えている。歌の作者自身であっても、私たちのような単なる聴き手であっても、本質的に、解釈が自分自身を聴き、読みとる行為である以上、解釈は変化していく。

 この夏話題となったドラマ『SUMMER NUDE』は、「最後の最後の花火」の場面でかつての恋人が「再会」できたかどうかという解釈の違いを物語の展開に活かした。作中人物である二人の主体的な行為であり、当然、どちらの解釈も成り立つ。結局、二人は各々、自分の物語を聴き、読みとったのだから。そして、二人の各々の物語が二人のその後の行動にどう影響を与えるのかという問いの方が、物語の重要な鍵となる。

 解釈は聴き手や読み手のものであり、聴き手や読み手のあらゆる解釈は肯定される。言葉で作られた作品に対して、正しい解釈も誤った解釈もない。ポール・ド・マンの言うように、すべての読みは誤読である。
 聴くこと、読むことは誤ることであり、偏ることである。聴くこと、読むことそのものが、ある誤り、ある偏りを必然的に含む。私の試みた作品の枠組みの分析は、解釈や意味の次元ではなく形式や構造の次元であるので、幾分かの客観性を持つかもしれないが、それでもやはり、誤読であることを免れることは不可能だ。
 しかし、読みの可能性を広げるような誤読とそうでない誤読との違いはあることも確かだ。作品を開かれたものにする読み、作品を聴き直し読み直す行為を促すような読み、固定した解釈を揺り動かす読み、そのような読みが豊かな誤読なのだろう。そのような質の読みを目指したいものだ。

2013年10月6日日曜日

二つの系列-『若者のすべて』10 (志村正彦LN 51)

 この『若者のすべて』論も10回目となる。6月下旬から書き始め、断続的な掲載となったので、すでに3ヶ月以上の月日が過ぎた。これまで、1と2では、全体の構造とメロディの配置について俯瞰し、3から7までは、歌詞の細部について一行ごとに分析を試みた。8と9では、『若者のすべて』以外の作品まで視野に入れて、「僕ら」と言葉というテーマを取り上げた。歌の言葉を論じるには、全体と部分という二つの視点から試みる必要がある。全体から始めて部分へ、そして他の作品や個別のテーマにまで論を広げたが、最後は再び全体へと戻りたい。

 志村正彦は、2007年12月の両国国技館ライブの際、『若者のすべて』を歌う前のMCで次のように語っている。

 そのなんかこう、今回のツアーで言いたいなと思ったのは、何かあるたびにこう、たとえば、えーと、例えばなんだろな、その、センチメンタルになった日だったりとか、人を結果的に裏切ることになってしまった日だったりとか、逆に嘘をついた日、あー、嘘ついた日、逆に素直になった日とか、いろんな日があると思うんですけど、そんな日のたびに、立ち止まっていろいろ考えていたんですよ、僕は。んーだったら、それはちょっともったいないなあという気がしてきまして。

 だったら、こうなんかこう、なんかあの、BGMとか鳴らしながら、歩きながら、感傷にひたるってのがトクじゃないかな、って思って。だから言ってしまえば、止まってるより、歩きながら悩んで、一生たぶん死ぬまで楽しく過ごした方がいいんじゃないかな、っていうことに、いやー、26、7になってようやく気づきまして、そういう曲を作ったわけであります。

 彼は、「センチメンタルになった日」とか色々な日々のたびに「立ち止まっていろいろ考えていた」と述べる。確かに、特に初期の曲には、歌の主体が、花を始めとする季節の風物や、人間関係で生起する出来事に遭遇し、その場で立ち止まるという場面が多い。主体は佇立し、想いにとらわれるが、その想いが言葉で直接的に語られることはない。例えば、「陽炎」が揺れる時、「金木犀」が香る時、主体はその場に佇み、その場から動こうとはしない。想いが深すぎるのだろうか、主体はその場に閉じこもる。

 彼は、その立ち止まって考えるあり方を「ちょっともったいない」として、動き出そうとする。「BGMとか鳴らしながら、歩きながら、感傷にひたる」方法を見つけ、「歩きながら悩んで、一生たぶん死ぬまで楽しく過ごした方がいい」と考えるようになる。
 「歩きながら」は文字通り、主体の歩行を表している。「BGMとか鳴らしながら」「感傷にひたる」とあるが、「感傷」とは主体の想いや考えであり、BGM・「background music」とはそのような主体の背景に流れる音楽のことである。そう考えると、BGMの上に展開される主体の物語、映画のような物語を自分自身で創造することになる。

 『FAB BOOK』には、「この曲には”物語”が必要だと思った」と記されている。『「ちゃんと筋道を立てないと感動しないなって気づいたんですよね。いきなりサビにいってしまうことにセンチメンタルはないんです。僕はセンチメンタルになりたくて、この曲を作ったんですから」と説いている。ライブMCの言葉につなげると、BGM上の物語の筋道を立てることが「センチメンタル」の成立に不可欠だと考えたのだろう。

 歩きながら感じ、想い、考えること。筋道を立てて物語を創ること。志村正彦のその選択、方法は、『若者のすべて』にどのような形で現れているのだろうか。すでにLN34「ファブリックとしての『若者のすべて』-『若者のすべて』1 」で次のように書いた。

 『若者のすべて』の中には、歌詞の面でも楽曲の面でも、二つの異なる世界が複合している。「フジファブリック」という名の「ファブリック」、「織物」という言葉を喩えとして表現してみるならば、『若者のすべて』の物語には、《歩行》の枠組みという「縦糸」に、「最後の花火」を中心とする幾つかのモチーフが「横糸」として織り込まれている、と言えよう。

 ここで指摘した、「縦糸」である「歩行」の枠組みは、志村正彦が両国ライブで伝えた「歩きながら」に対応する。また、「横糸」である「最後の花火」のモチーフは、「感傷にひたる」に対応する、と考えてよいだろう。つまり、彼の新たな試みは、『若者のすべて』の構造、二つの系列の複合として結実している。
 この二つの系列の細部についてはすでに述べてきたが、二つの系列とその差異を視覚的に示すために、二つのフォント色を使って、縦糸の部分「歩行」の系列を青色で、横糸の部分「最後の花火」の系列を赤色で表示して、全歌詞を引用してみたい。

  真夏のピークが去った 天気予報士がテレビで言ってた
  それでもいまだに街は 落ち着かないような 気がしている


  夕方5時のチャイムが 今日はなんだか胸に響いて
  「運命」なんて便利なものでぼんやりさせて


  最後の花火に今年もなったな
  何年経っても思い出してしまうな


  ないかな ないよな きっとね いないよな
  会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ


  世界の約束を知って それなりになって また戻って

  街灯の明かりがまた 一つ点いて 帰りを急ぐよ
  途切れた夢の続きを取り戻したくなって


  最後の花火に今年もなったな
  何年経っても思い出してしまうな


  ないかな ないよな きっとね いないよな
  会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ


  すりむいたまま 僕はそっと歩き出して

  最後の花火に今年もなったな
  何年経っても思い出してしまうな


  ないかな ないよな なんてね 思ってた
  まいったな まいったな 話すことに迷うな


  最後の最後の花火が終わったら
  僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ



 『若者のすべて』、この青色と赤色で区分けされた、二つの系列の言葉の綴れ折りをどのような印象を聴き手にもたらすのか。これまで論じてきたモチーフとできるだけ重ならないように、主体「僕」の行動や動作を中心に分析したい。

 最初に、青色で示した縦糸の部分、「歩行」の系列をたどる。
 「歩行」系列の主体「僕」は、一人称の話者であり、一人で行動する主体である。「僕」はまぎれもない単独者であり、おそらく都市生活者であろう。「僕」は、「真夏のピークが去った」季節に「落ち着かないような」「街」を歩いている。「夕方5時のチャイム」が「胸に響いて」、「運命なんて便利なもの」を想起してしまう。「世界の約束」を意識し、「街灯の明かり」が点くと「途切れた夢の続き」を取り戻すために「帰りを急ぐ」。その歩みは、永遠の循環のように「それなりになって また戻って」と行きつ戻りつし、そして「すりむいたまま」「そっと歩き出して」いくような彷徨である。

 さらに青色の部分を見つめると、「歩行」の系列の第1ブロックから第3ブロックまで、行数が、4、3、1行と次第に少なくなることに気づく。最後の行で主体「僕」が登場し、「すりむいたまま」「そっと歩き出して」という言葉に収斂していく。「僕」の歩みそのものがその一行に凝縮されるように。志村正彦は、『音楽と人』2007年12月号の記事で、「一番言いたいことは最後の〈すりむいたまま僕はそっと歩き出して〉っていうところ。今、俺は、いろんなことを知ってしまって気持ちをすりむいてしまっているけど、前へ向かって歩き出すしかないんですよ、ホントに」と述べているが、そのモチーフは「歩行」系列の展開の中で充分に表現されている。

  しかし、「歩行」の系列中、「僕」の動作や情景以外で使われているのは、「運命」「世界の約束」「途切れた夢の続き」というように、かなり抽象的な言葉であり、具体的な内容や文脈が欠落してしまう。「歩行」の系列の中で、物語を描くのは困難だろう。志村正彦は「この曲には”物語”が必要だと思った」と述べている。『若者のすべて』の中に物語を導入するためには、もう一つの系列が必要となるだろう。彼は「歩きながら」、「感傷にひたる」という道筋を見つけ、「歩行」の系列に、「最後の花火」の系列を組み込む方法を編み出した。

 赤色で示す横糸の部分「花火の系列」の方も、主体「僕」の動作、行動を中心に見ていく。「最後の花火」という具体的状況に関連して、「思い出す」「思う」、「言う」「話す」、「まいる」「迷う」という主観的な動作の語彙が続く中で、「まぶた閉じて浮かべているよ」にある、まぶたを「閉じる」という身体的な動作が注目される。LN44で次のように書いた。

「まぶた」を閉じた「僕」は、「まぶた」の裏の幻の対象に対して、「会ったら言えるかな」と囁く。「まぶた」を開けた「僕」は、その眼差しの向こうの現実の対象に対して、「話すことに迷うな」と呟く。不在と現前、夢想と現実の響きが、『若者のすべて』の中で、美しい織物のように編み込まれている。

 LN44では、「まぶた」を開けた「僕」の眼差しの向こう側には現実の対象がいると述べたが、全く正反対の解釈もあり得る。この時に、もしかすると、「まぶた」はより深く閉じられ、眠りが訪れ、本当の夢へと入り込んでいったという可能性だ。「僕」の夢の中で、「僕ら」は再会する。「最後の最後の花火」は夢の中で輝く。「途切れた夢の続き」が「夢」であるということは、ありえないことではない。そして、「最後の最後の花火が終わったら」というのは、その夢そのものの終わりを意味しているのかもしれない。「僕」は夢から現実へと覚醒する。

 記憶の再生であれ、想像であれ、夢であれ、まぶたを閉じて想い浮かべているのは、心の中のスクリーンに投影される像であり、その物語であろう。「最後の花火」系列では、他にも「同じ空を見上げている」とあるように、見上げる動作が強調されている。映画のスクリーンのように、「最後の花火」「最後の最後の花火」の物語は上映される。「僕」と「僕ら」はその映画を見上げているかのようだ。

 「歩行」系列の「僕」も、「最後の花火」系列の「僕ら」も、それぞれの系列の最後の行で言葉に表されている。二つの系列の主体は最後に登場する。「歩行」の系列と、「最後の花火」の系列の関係は、歌われるテーマやモチーフの観点から分けてきたが、歌う主体という観点からは、「僕」の系列と「僕ら」の系列の差異とも捉えられる。二つの観点をまとめてみるなら、「僕-歩行」系列と「僕ら-最後の花火」系列と呼ぶ方が適切だろう。「僕-歩行」系列と「僕ら-最後の花火」系列とは、「歩きながら」「感傷にひたる」という方向で複合されている。

 この夏、フジテレビのドラマ『SUMMER NUDE』のモチーフやBGM、NHK高校野球決勝中継の『夏 輝いた君たち』と題するダイジェスト映像のBGM、フジテレビ『若者のすべて~1924+3~』というトークドキュメンタリーのオープニングBGMとして、『若者すべて』が流されていた。どの番組でも単なるBGMとして使われているのでなく、歌詞の言葉が充分に聴き取れるようにミキシングされていた。曲だけでなく歌詞も、ドラマやスポーツやドキュメンタリー番組の背景として見事に映像と調和していた。勝手な造語を使わせてもらうならば、BGW・「background words」のように機能していた。そして、『若者のすべて』の言葉は聴き手に様々な映像を喚起するような働きがあることに、あらためて気づかされた。

 志村正彦は、歩きながら、「感傷」や「悩み」との対話を試みる。そして、映画を上映するように、「僕」と「僕ら」の物語を歌う。この歌の聴き手は、自分自身の物語を、心のスクリーンに重ねていく。
 だからこそ、今、『若者のすべて』は、若者の季節と物語をモチーフとする数多くの歌の中で、それらを代表する作品になりつつあるのではないだろうか。

2013年9月29日日曜日

一番美しいもの (ここはどこ?-物語を読む5)

 『ないものねだり』(『CHRONICLE』)のこの一節を聴くといつも、「ああ、ここには人の心の一番美しいものがある」と感じる。

  帰り道に見つけた 路地裏で咲いていた
  花の名前はなんていうんだろうな


 もう何十年も前に聞いて忘れられない話がある。植物学者の牧野富太郎が、誰かが書いた「名もなき花」ということばに対して、「知らないだけで花にはみな名前がある。『名も知らぬ花』というべきだ」というような趣旨のことを述べたという話だ。確かに植物学者からすれば「名もなき花」とはすなわち新種で、見つけたくても簡単に見つけられるものではない。 自分が知らないだけなのに「名もなき」と決めつけるのは随分傲慢な所業である。私はいたく納得し、以来、「名もなき」ということばを使ったことはない。

 名前を知るということは、それを認めるということである。雑草にも名前がある。「ホトケノザ」とか「オオイヌノフグリ」とか「ハハコグサ」とか「ナズナ」とか。その名前を知ると、それまで行き帰りの道で目に留まらなかったものが見えてくる。ああ、こんなところにホトケノザが群生していたんだと気づく。ずっとそこにあったのに見えなかったものが、名前を知った途端に見えるようになる。

 だから、名前を知りたいということは、つまり、そのものを知りたいと思うことだ。そのものを知りたいと思うことは、そのものに惹かれること、大事に思うこと、さらに言えば愛することへの入口から一歩足を踏み入れるということである。そこにはほんの少しだがそのものに近づきたいという意志と勇気がある。

 『ないものねだり』の「僕」は「気持ち伝える」のに悩み、「大事なところ間違えて」、「膨大な問題ばかりを抱えて」いる。いつの日も「あなた」に悩ませられている。うまくいかない、カッコわるい、そんなことばかりがあって、ありたい自分とのギャップにないものねだりを繰り返している「弱い生き物」だと自己評価している。そんな「僕」が「帰り道に見つけた 路地裏に咲いていた 花の名前」を知りたいと思うその瞬間、関心が自分から離れて、花という他に向かう。それまで「名も知らぬ」花だったものが、「僕」にとって特別な花になる。決して順調ではない、おそらく余裕もない、そんな状況の中で、自分のことをおいて他を思うその気持ちは、おそらく人の心の一番美しいものの一つだろう。

  志村正彦が自分のことをどう思っていたのかはわからない。けれど、この歌を聴くたびに志村正彦の心の中にある美しさを感じずにはいられない。

2013年9月22日日曜日

言葉-『若者のすべて』9 (志村正彦LN 50)

 志村正彦は、『若者のすべて』について、『茜色の夕日』と同等の「リアルな思い」があることに気づいたと、『音楽と人』2007年12月号所収の樋口靖幸氏によるインタビュー記事で述べている。

 〈茜色の夕日〉以来です、こんなナーバスになってるのは。あの時は曲つくって自分の思いを表現して、あの人にいつか届けたいっていう、音楽やるのに真っ当な理由があったわけですよ。それに自信をつけられていろんな曲を今まで作ってきたけど、これは当時のその曲と同じくらいのリアルな思いがある……ってことを、作った後に気づかされたんだよなぁ。

 志村正彦の歩みの始まりの歌『茜色の夕日』は、「自分の思いを表現して、あの人にいつか届けたい」という歌であるが、次の一節にあるような屈折や断念も含まれている。

  僕じゃきっとできないな できないな
  本音を言うこともできないな できないな
  無責任でいいな ラララ そんなことを思ってしまった   (『茜色の夕日』)

 歌の主体「僕」は、本音を言うことができない。本当の言葉を伝えることができない。「僕」は、そのような「僕」のあり方を「無責任でいいな」「ラララ」と、幾分か自嘲気味に批評している。「君に伝えた情熱」と共にこのような醒めた自己批評が、『茜色の夕日』の切なさを際立たせている。
 『若者のすべて』でも「僕」は、「会ったら言えるかな」「話すことに迷うな」と、「言う」こと「話す」ことについての逡巡や葛藤の中にいる。「僕」は言葉で伝えることをめぐって揺れ続けている。

  ないかな ないよな きっとね いないよな
  会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ

  ないかな ないよな なんてね 思ってた
  まいったな まいったな 話すことに迷うな           (『若者のすべて』)              

 『茜色の夕日』や『若者のすべて』は、失われてしまった他者への想いというテーマで語られることが多いが、失われてしまった言葉、伝えることのできなかった言葉というモチーフも重要である。言葉で伝達することの困難が「僕」に立ち塞がる。そのような意味で、『茜色の夕日』や『若者のすべて』に共通する「リアルな思い」がある。

 また、『茜色の夕日』の「できないな できないな」の「ないな」の「ない」「な」音の反復は、『若者のすべて』の「ないかな ないよな」の「ない」「な」音の反復と、作品を越えて、響きあっているようにも感じられる。 「ない」という否定表現を志村正彦がよく使ったのは、そのような否定形でしか語れない出来事、伝えられない世界に彼がいつも向き合っていたからであろう。

 メジャーデビュー作『フジファブリック』には、言葉で伝えることの困難をめぐる歌が幾つかある。

  ならば愛を込めて 手紙をしたためよう
  作り話に花を咲かせ 僕は読み返しては感動している!   (『桜の季節』)

 「愛」を込めて、大切な人に向けてしたためられる「手紙」。しかし、「僕」は「作り話」を読み返して「感動している」だけである。結局、その手紙が投函されることはない。「僕」は本当に伝えるべき言葉、真実の話をまだ書くことができないのかもしれない。
 それにしても、宛先に届くことのない手紙とは、なんと志村正彦らしいモチーフだろう!

  もしも 過ぎ去りしあなたに 全て 伝えられるのならば
  それは 叶えられないとしても 心の中 準備をしていた

  期待外れな程 感傷的にはなりきれず
  目を閉じるたびにあの日の言葉が消えてゆく        (『赤黄色の金木犀』)

 「過ぎ去りしあなた」に「伝えられるのならば」という仮定形でしか語られることのない言葉。伝えることは「叶えられない」としても、その言葉を「心の中」で備えている「僕」。心の中の言葉も「あの日の言葉」も時の流れと共に消えていく。「赤黄色の金木犀」の香る季節に「無駄に胸が騒いでしまう」のは、そのような言葉の消失に対する痛切な想いがあるからだろう。

  話し疲れたあなたは眠りの森へ行く
    
      夜汽車が峠を越える頃 そっと
    静かにあなたに本当の事を言おう                 (『夜汽車』)

 夜汽車の音や揺れ、そのゆったりとしたリズムと共に「話し疲れたあなた」は「眠りの森へ行く」。その眠りの間に「そっと静かに」言おうとする「本当の事」。だから、その言葉は決して「あなた」には届かない。「僕」は「あなた」にではなく、自分自身に向けて「本当の事」を言おうとしているかのようだ。

 一つひとつの歌ごとに具体的な文脈は異なるが、共通するのは、言葉で伝えることそのもの、あるいはその困難という壁の前で佇立する「僕」の姿である。志村正彦はそのような「僕」を繰り返し歌ってきた。
 伝えられることなく差出人の元に留まる手紙の言葉、伝えられるのならばという仮定のもとに留まる言葉、現実としては伝えられることのない状況に留まる言葉。言葉は結局、伝えられることなく、「僕」のもとに留まる。そのような自分自身の中に留まる言葉を、志村正彦は誠実に丁寧に聴き取り、歌にして表現してきた。

 日本の歌の歴史の中で、志村正彦を希有な表現者、極めて優れた詩人にしているのは、言葉に対するこのような独特の位置にある。

 先のインタビューで、彼は『若者のすべて』について「この曲聴くたびに自分に向けて作った曲だなって思って」と述べているが、彼が「自分に向けて作った曲」は確実に私たち聴き手に届いている。「自分に向けて作った曲」が自分を越えて他者に届く。言葉が伝わる。それは不思議なことでもある。

 それでも、聴き手は一人ひとり自問してみるのがよいかもしれない。『若者のすべて』の言葉が本当はどこに届こうとしているのか。志村正彦の言葉を読むことの意味は、そのような問いかけに対して、聴き手自らが応答することの中にあるのだから。

2013年9月15日日曜日

「僕ら」と「二人」-『若者のすべて』8 (志村正彦LN 49)

 前回のLN48では、「僕ら」についての読みをかなり遠くの地平にまで広げてしまった。宙に飛んでしまったような感じもあったので、今回は、『志村正彦全詩集』というテキストにしっかりと着地して、志村正彦の歌詞全体の中で、「僕ら」という言葉を検証してみたい。

 『志村正彦全詩集』を最初から最後まで読んでいくと、インディーズ時代からメジャー2枚目までの4枚のアルバム、『アラカルト』『アラモード』『フジファブリック』『FAB FOX』では、「僕」と「君」との恋愛の関係性を示す言葉としては、「二人」だけが使われているということに気づく。
 この4枚のアルバムには、「僕ら」という言葉は全く出てこない。「僕ら」が登場するのは、『若者のすべて』所収の『TEENAGER』が初めてであり、しかも全13曲中の5曲で使われている。志村は言葉の選択には非常に時間をかけていたので、この使い分けはかなり意識的なものであっと推測される。彼は「二人」と「僕ら」をどのように使い分けていたのだろうか。

 志村の使う「二人」は、通常の日本語の歌の用例と同様に、恋愛関係にある「二人」という意味合いだと考えてよい。その関係が歌の中の現実であっても想像であっても、「二人」には、歌の主体「僕」と「君」あるいは「貴方」との恋愛の物語が設定されている。具体的に「二人」の用例をあげてみる。

  「偶然街で出会う二人 戸惑いながら」            (『桜並木、二つの傘』)

  「妄想が更に膨らんで 二人でちょっと 公園に行ってみたんです」(『花屋の娘』)

  「波音が際立てた 揺れる二人の 後ろ姿を」        (『NAGISAにて』)

  「黙った二人 喫茶店の隅っこ」                  (『追ってけ 追ってけ』)

  「真夜中 二時過ぎ 二人は街を逃げ出した」        (『銀河』)

  「いつかはきっと二人 歳とってしまうものかもしれない」  (『唇のソレ』)

 『桜並木、二つの傘』では、「桜並木」ときれいな「コントラスト」をなす「二人」の情景を浮かび上がらせている。歌詞の一節に「苛立つ僕」と「二人の沈黙」というコントラストもあるように、歌の主体「僕」と「二人」との間にはある微妙な距離がある。「二人」という言葉で、「僕」が恋愛関係にある男女を対象化する時には、その「二人」は「僕」から離れた、「僕」の外部にあるもの、幾分か風景に近いものとして表現されている。

 『花屋の娘』や『NAGISAにて』にはその特徴がさらによく現れている。『花屋の娘』では、「僕」は電車の窓から見た「花屋の娘さん」に対して、「妄想が更に膨らんで 二人でちょっと 公園に行ってみたんです」とあるように、「僕」の妄想の対象として、「二人」は僕の外部にある想像のスクリーンに描かれている。『NAGISAにて』の「貴方」と歌の主体との間にも現実の交流はなく、主体の風景の中で「揺れる二人の 後ろ姿」が描かれている。

 「僕ら」はどのように表現されているのか。『TEENAGER』中の5曲にある用例を引用してみる。

  「記念の写真 撮って 僕らはさよなら」             (『記念写真』)

  「そこだ 見事なタイミング 僕らなんかみだら」        (『B.O.I.P.』)

  「僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ」         (『若者のすべて』)

  「わがままな僕らは期待を たいしたことも知らずに」      (『まばたき』)

  「僕らはいつも満たされたい」                    (『TEENAGER』)  
 

 『TEENAGER』には、かなりゆるやかなものではあるが、「十代の若者」を主題とするコンセプトがあるだろう。このことと「僕ら」という一人称代名詞の複数形が登場したことには内的な関連性があるように感じられる。
 なお、『TEENAGER』所収の『パッション・フルーツ』には、「まぶしく光る町灯り 照らされて浮かぶ二人」という一節がある。「夢の中」にいるような「僕」と「ゆうべの君」の「パッション」は、「町灯り」に「照らされて浮かぶ二人」という風景と、あるコントラストをなしている。『アラカルト』から『FAB FOX』までの4枚のアルバムでの用例と似た表現の特徴を持っている。

 前回述べたように、志村正彦が表現する「僕ら」には、男女に限定されない、恋愛より広い関係性、世代的な共同性が込められている。このことと矛盾するようではあるが、恋愛関係が想定される場合、「二人」よりも強い結びつき、同じ記憶や経験を共有している絆の感覚が「僕ら」には込められているようにも感じられる。
 「二人」は、「僕」の外部に風景のように「見る」対象とも言える三人称的な客体的なものであるが、「僕ら」は、「僕」と「僕」から構成されている一人称的な主体的なものである。「僕らはいつも満たされたい」(『TEENAGER』)とあるように、「僕ら」は欲望の主体でもあり、その実現のために何かを試みる。静的な「二人」に対して、「僕ら」は動的であろうとする。

 『志村正彦全詩集』の中で、「僕ら」という用例を「二人」と比較する作業を通じて、「僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ」という最後の一節をもう一度読み込んでいくのも、読むことの可能性を拡げていくに違いない。  

2013年9月8日日曜日

「僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ」-『若者のすべて』7 (志村正彦LN 48)

 「最後の花火」の系列の最後は、「最後の」「最後の」というように、「花火」を修飾する「最後」が二つ重ねられ、「僕ら」という一人称複数の代名詞が使われることで、フィナーレを迎える。

  最後の最後の花火が終わったら
  僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ

 「最後の最後の花火が終わったら」とは、「最後の花火」の最後(の花火)が終了する時点と捉えてよいのだろうが、「最後」「最後」「終わる」という言葉のたたみかけは、何かの終わりを強調しているかのようだ。花火をみている現在時から、時間の長短に関係なく、未来の終了時を仮定している。その未来の時点で「僕らは変わる」ということがある「かな」という問いを、現在時の「僕」が未来の「僕」と「僕ら」に投げかけているのだ。

 「僕ら」という主語は「変わるかな」という述語で締めくくられている。「変わる」とあるが、どのような「僕ら」からどのような「僕ら」へ変わるのかという事柄は、当然のように描かれることがない。「僕ら」が「変わる」というのは、「僕ら」の関係性そのものが変わるのか、あるいは「僕ら」の個々が変わるのか。前者の可能性が高いのだろうが、後者も完全には排除できない。両者ということも考えられる。「変わる」方向を定めるのは難しい。「僕ら」というゆるやかな関係性は築かれているのだろうが、その関係の内実や個別性が明らかではないからだ。

 「同じ空を見上げているよ」というのも、「僕ら」の関係のあり方を考察する上で興味深い。花火の場面では通常、人は隣り合わせで横に座り、前方上方の花火を見るという位置取りが考えられる。美しい花火の彩りに時に感嘆をあげ、光が消えて煙や空が広がり、次の花火が打ち上がるまでの 間合いには、とりとめのない、たわいない会話をする。その場に一緒にいるという雰囲気を楽しむ。花火の空を見上げるという行為自体が、夏の「余白」のような時の過ごし方である。

 そして、「僕ら」が「同じ空を見上げている」のであれば、「僕ら」の眼差しは向き合っていないことになる。同じ位置で同じ空の方向に視線を向けている。時には互いに視線を交わすことがあるとしても。例えば、テーブルに二人が腰掛けるときに、向かい合うかそれとも横に座るかという選択がある。二人の視線が互いを見つめあように座るのかそうでないのかということは、二人のその時の関係性にもよる。

 「僕ら」とは誰なのか。

 『若者のすべて』の物語の鍵となる問いだ。「最後の花火」系列では、「会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ」と「まいったな まいったな 話すことに迷うな」という二つの対比的なモチーフが要となっている。「まぶた」を閉じた「僕」は「まぶた」の裏の幻の相手に対し「会ったら言えるかな」と、「まぶた」を開けた「僕」はその眼差しの向こうの現実の相手に対し「話すことに迷うな」と、心の中で語り出す。

 「僕ら」という一人称代名詞複数形によって指示されるのは、歌の主体「僕」と、「僕」の眼差しの対象である相手との二人であろう。「僕」の強い欲望の対象となっている相手であるから、恋愛の対象とみるのも自然だ。「僕」にとってその相手は、恋愛の関係である、あった、あるだろう、あるいはありたい、という枠組みで括られると読むのが普通なのだろう。しかし、恋愛の物語としての『若者のすべて』というのは動かしがたい解釈なのだろうか。

 「恋愛」という関係性は、その本質からして閉じられていくものだが、「僕らは変わるかな」という問い、「同じ空を見上げているよ」という眼差しからは、閉じられていくというよりも、開かれているような、そして、おだやかに変化しつつある関係性のようなものが伝わってくる。微妙ではあるが、その実質には「友愛」のような関係性も入り込んでいるように、私には感じられる。

 この場合の「友愛」とは、「愛」と呼ばれる関係からエロス的なものを排除したものであり、友人、仲間、同じ世代や同じ志を抱く共同体にゆるやかに広がっていく。そのような関係に基づく「僕ら」は、『若者のすべて』が収録されている『TEENAGER』のコンセプトにもつながるような気がする。十代の若者たち、今その世代に属する者も、かってその世代に属していた者も、これからその世代に属することになる者にとっても、「僕らは変わるかな」という問いはリアルなものであり続けるだろう。

 「僕ら」についてさらに異なる捉え方もある。「僕ら」が二人の「僕」自身で構成されていると考えるのはどうだろうか。「最後の最後の花火」の場面で、「僕」の幻の中で、「僕」はもう一人の「僕」に遭遇する。「僕」が二つの分身として、「過去の僕」と「現在の僕」、あるいは「現実の僕」と「仮想の僕」というように「僕ら」を形成する。「過去の僕」と「現在の僕」が、「現実の僕」と「仮想の僕」が、「僕らは変わるかな」と対話を試みる。『若者のすべて』の歌そのものからはかなり離れてしまうが、そのような解釈はやはりありえないものであろうか。

 そのような解釈の延長線上に、「僕」と「僕ら」という一人称代名詞が指し示す対象を作者志村正彦自身にしてみると、どのような光景が描かれるだろうか。今回、この歌を繰り返し聴く中で、そのような想像が膨らんできた。
 それは、「過去の志村正彦」と「現在の志村正彦」、あるいは「十代の志村正彦、Teenagerの志村正彦」と「二十代の志村正彦」が、「僕ら」の二人の分身となって、「僕らは変わるかな」と語りあう光景だ。

 歌という虚構によってもたらされる非現実的な光景だが、そのような光景を想像する自由も、歌の聴き手にはあるのではないだろうか。「解釈」としては成立しないが、「歌を生きる」行為としてはあり得る。歌そのものからは遠ざかっていくようで、最も遠い地点から反転して、再び、歌の近くに戻ってくる。

 歌との対話は終わりなく続く。「僕ら」は誰なのか。どう「変わる」のか。その問いかけが『若者のすべて』の解釈へと人を誘い、この歌の力の源泉となっている。

2013年9月4日水曜日

「お地蔵さん」 (ここはどこ?-物語を読む 4)

 髪を短く刈った家人の寝顔が何かに似ていると思っていて、ある朝はたと「お地蔵さんだ」と思い当たった。それでしばらく顔を見るたび「地蔵さん」「地蔵さん」と独りごちていた。そのせいだと思った。『フジファブリック』をかけていて急に「お地蔵さん」ということばが耳に飛び込んできたのは。

 CDを買ったときに最初から歌詞カードを見ることはあまりない。意識したことはないが、まずはその曲を先入観なしに聴きたいという気持ちがあるのだろう。そうすると、ヴォーカルが誰であっても聴き取れない歌詞というのが結構ある。何回か聴いているうちにだいぶわかるようになってくるが、それでもここはなんと言っているんだろうという部分がずっと残ることもある。不思議なもので、いったん歌詞を確認したりきちんと聞き取れたりしたら、何度聴いても確かにそう歌っていて、それ以外には聴こえようもないのに、それ以前はずっと靄がかかったようなのだ。

 『打ち上げ花火』もそんな曲の一つで、その靄の中からふいに「お地蔵さん」という志村正彦の声を拾い上げたときには、「まさかね」と思った。だって、ロックの歌詞に「お地蔵さん」? 空耳に違いない。でも、確かに聞こえる。どこぞの番組に応募しようかしらん・・・・・。
 ここでようやく歌詞カードを開いて見た。

   のっそのっそお地蔵さんの行列も打ち上げ花火を撃った!!

 確かに「お地蔵さん」とある。それどころか、お地蔵さんの行列がお月さんに向かって打ち上げ花火を撃っているではないか。私の脳内にはお地蔵さん(六体、赤い前掛けをしている)がバズーカ砲のような手持ちの筒花火を抱えて、進んでは止まり進んでは止まりしながら満月に向かって次から次へと花火を打ち上げる映像が浮かんでしまった。・・・・・・シュールだ。

 思い浮かんだのは漱石の『夢十夜』である。『夢十夜』は題名の通り十話の夢のような短い話で構成されている。うろ覚えの記憶だったが、確かめてみると「第三夜」の末尾の一文に「石地蔵」という語がある。そこからの連想だったかもしれない。多くが「こんな夢を見た」と始まるこの十の話は、しかし、どれもが現実より生々しい手触りのようなものを持っている。無意識に抑圧していた生きることにまつわる禍々しさ(それは誰の人生にも貼り付いている)を深いところからつかみだして見せられたような感じだ。だから、『夢十夜』は確かに荒唐無稽な話ではあるけれど、今私達が生きている現実と隔絶しているのではなく、地続きにある世界に思える。

 『打ち上げ花火』が描き出す世界もそれに近いように思う。ある日、「夜霧の向こう側」に突然立ち現れてくる世界。それは突然出現したのか、もともとあったのに気づかずにいたのか、それさえわからないが、不気味で近寄りがたいのに、なぜだか抗いがたく近づいてしまう。そこに実際に何があるかが問題なのではなく、何かわからないものに引き寄せられてしまうことのほうが重要なのかもしれない。曲調もおどろおどろしいというか、「今から何か(たぶんショッキングなこと)が起こるぞ」という雰囲気満載で始まり、いきなり急かされるようにテンポアップする。そこで見たものが、何者か(鼻垂らし小僧なのか?)とお地蔵さんたちがお月さんに向かって花火を打ち上げる光景なのである。
 

   しかし、この光景をどう解釈するかは人それぞれだろう。とても不気味で暴力的なものを感じる人もいるだろうし、子供を護るお地蔵さんなだけにむしろどこかユーモラスなものを感じる人もいるかもしれない。私はそのままだと怖い夢を見そうなので、脳内のお地蔵さんたちのサイズを10センチくらいに縮小してみた。すると花火の打ち上げが小さなお地蔵さんたちの密かな祝祭のようになって、心が少し穏やかになった。

追記
  曲の雰囲気にすっかりだまされていたけど、考えてみたら「鼻垂らし小僧」はちっとも怖くない!!
 


                                                                   

2013年8月31日土曜日

志村正彦の夏 (志村正彦LN 47)

 
 志村正彦にとって、夏は特別な季節である。夏を舞台としない歌の中でも、時に触れられることがある。

  短い夏が終わったのに 今 子供のころのさびしさが無い (『茜色の夕日』)

  冷夏が続いたせいか今年は なんだか時が進むのが早い (『赤黄色の金木犀』)

  真夏のピークが去った 天気予報士がテレビで言ってた  (『若者のすべて』)

 「短い夏」「冷夏」そして「真夏のピーク」。夏はいつものように過ぎ去るが、彼は佇立し続ける。彼はたたずみ、季節を言葉と音に織り込んでいく。
 夏の記憶の織物は、フジファブリックの作品となって、ここ十年の間、私たちに贈られてきた。なかでも『陽炎』は志村にしか表現しえない世界を確立した歌である。

   あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ
    英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ           (『陽炎』)

 夏は、想いの季節である。夏そのものが私たちに何かを想起させる。「街並」「路地裏」という場。「英雄」、幼少時代の光景。楽しかったり、寂しかったりした記憶が「次から次へ」と浮かんでくる。
 夏は、ざわめきの季節でもある。人も、物も、風景も、時もざわめく。「陽」が「照りつけ」ると共に、何かが動き出す。そのとき、「陽炎」が揺れる。

  窓からそっと手を出して
  やんでた雨に気付いて
  慌てて家を飛び出して
  そのうち陽が照りつけて
  遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる            (同)

 『陽炎』はここで転調し、詩人の現在に焦点があてられる。

   きっと今では無くなったものもたくさんあるだろう
   きっとそれでもあの人は変わらず過ごしているだろう

  またそうこうしているうち次から次へと浮かんだ
   出来事が胸を締めつける                      (同)  

 今では「無くなったもの」とは何か。特定の他者なのか。風景なのか。十代や青春という時間なのか。あるいは、過去の詩人そのものなのか。そのすべてであり、すべてでないような、つねにすでに失われている何かが「無くなったもの」ではないのか、などと囁いてみたくなる。

 喪失という主題は青春の詩によく現れるが、大半は、失ったものへの想いというより、失ったものを悲しむ自分への想いに重心が置かれる。凡庸な詩人の場合、喪失感は自己愛的な憐憫に収束するが、志村の場合は異なる。
 彼の詩には、そのような自己憐憫とは切り離された、失ったものそのものへの深い愛情と、失ったものへ、時に遠ざかり、時に近づいていく、抑制された衝動がある。そして、喪失を喪失のままに、むしろ喪失を生きなおすように、喪失を詩に刻んでいった。それは彼の強固な意志と自恃に支えられていたが、「胸を締めつける」ような過酷な歩みでもあった。

 四十年を超える日本語のロックの歴史の中で、志村正彦は絶対的に孤独である。その孤独ゆえに、今、私たち一人ひとりとつながり続ける、永遠の作品として屹立している。


付記

 8月31日。この日を迎えるといつもなら、暦の上ではいち早く終止符が打たれ、夏が去る時節になろうが、今年の甲府盆地はこれまで経験したことのない酷暑が続き、今日も、「真夏のピーク」が過ぎ去るような気配はない。

 今回は、『志村正彦の夏』を掲載させていただく。この文は、2011年12月の「志村正彦展 路地裏の僕たち」で展示させていただいた。その後、杉山麻衣さんの「Fujifabric International Fan Site」で紹介していただいたので、[ http://fujifabinbkk.blogspot.jp/2012/01/blog-post_27.html ]ネット上では既出だが、私が初めて志村正彦について書いた「原点」のテキストなので、いつか《偶景web》にも載せたいと考えていた。末尾の2行は、「夏」という主題から離れてしまっているのが気がかりだが、修正せずにそのままにさせていただく。  

 今年の夏を振り返りたい。富士吉田市の「広報ふじよしだ7月号」(富士山世界遺産登録を祝す号)に、「若手職員プロジェクト・志村正彦」「夢中で駆け抜けた路地裏で思い出を紡ぐ 路地裏の僕たち」の二つの記事が掲載されたこと。7月10日から14日までの、富士吉田市夕方6時の『茜色の夕日』チャイム。13日と14日の「志村正彦を歌う会」、ご家族からのメッセージ、『茜色の夕日』の歌とトークの再生。15日、『山梨日日新聞』の『宝物の思い出を歌に』(「白球の夢半世紀 山日YBS杯県少年野球」)』。15日夜、フジテレビのドラマ『SUMMER NUDE 』で『若者のすべて』が物語の鍵となる曲として使われたこと。16日、『山梨日日新聞』第1面のコラム「風林火山」。23日、NHK甲府の「まるごと山梨」の「がんばる甲州人」で「ロックミュージシャン志村正彦さん」が特集されたこと。「一期一会」という大切な言葉の披露。25日から27日までの『若者のすべて』チャイム。8月1日、「がんばる甲州人」を元にする番組がNHK総合「情報まるごと」で全国に放送されたこと。22日 、高校野球決勝の中継で「夏 輝いた君たち」と題するダイジェスト映像のBGMに『若者すべて』が流され、映像と見事にシンクロナイズしていたこと。

 2013年の夏は「志村正彦の夏」だった。
 私たちにとって、この7月8月の様々な出来事は「何年経っても思い出してしまう」ことになるだろう。

2013年8月26日月曜日

メレンゲ『Ladybird』 (志村正彦LN 46)

 前回「クレーター」について書いた後、PCやオーディオセットで何度も聴いたが、大音量の方が曲の本質が伝わる曲だ。「すべて欲しがって そこに星があって」の「ホシガ ッテ」「ホシガアッテ」の微妙なずれを含む音韻の反復、「すべて」「そこに」の照応など、クボケンジは巧みに美しく言葉を操っている。宇宙への欲望とでも言うことになるだろうが、アニメ『宇宙兄弟』のオープニングテーマという条件の下で、依頼されたテーマと自分自身のモチーフをなめらかに融合できるところに、音楽家としての確実な成長が見られる。

 21日深夜、テレビ東京『ロック兄弟』のインタビューでは、「メレンゲっていうものの考え方は、自分、僕自身のストーリーなんだろうなあとも思っているんで」「いつも課題にしているのは、やっぱり前作った曲より良い曲をというのがいつも自分の中では課せられるし」と述べていた。そして、「宇宙」という言葉は以前の曲にもけっこう多く、「遠くにあるものが好き」だと語っていた。クボは「もっと遠くまで」(『ビスケット』)たどりつこうとすると同時に、無限の遠方、彼方から自分を見つめ直すストーリーを追いかけているようだ。

 シングルの2曲目『Ladybird』は複雑な歌詞を持つ。

   明け方の道
   散らかってるゴミ
   どうせ誰かが片付けるのだろう

 この3行からなる節を前後の枠にした上で、その枠組の内部に、ある恋愛の終わりの物語を配置している。クボがtwitterで「僕の渾身の情けない大人のラブソングです。。。不倫を助長しているわけではないのですが。。。」と呟いたことが、解釈の方向を与えている。枠内にある物語は、短編小説の場面を抜粋したように描かれていて、聴き手は断片的な像しかつかめないが、逆に、断片を自分でつなぎあわせて物語を作っていくことができる、とも考えられる。

 それにしても前後の枠の部分が耳にこびりつく。早朝、路上に散乱しているゴミを見た時の経験を思い返してみる。そのゴミの方から見つめられているような、何だか居たたまれないような、罪深いような想いに捉えられたことがある。そのゴミは自分とは無関係なのだが、関係がないとは言えないような、むしろ関係があるかのような、不思議な痛みと自己嫌悪のような感覚と共に。

 『Ladybird』の歌の主体「僕」も、「明け方の道 散らかってるゴミ」を見つめているのだが、逆に、そこに散乱している「廃棄されたもの」の側から見つめ直されているように感じたのではないだろうか。そのような眼差しの逆転から、「僕」の眼前にはどのような光景が広がっているのか。都市の早朝。捨てられた恋、失われた愛、廃棄された欲望。それらもやがて他者の手によって片付けられ、回収される。そのようにして、他者から他者へとゆだねられる。恋愛も欲望も循環する。独りよがりの解釈だろうが、そんな光景が浮かんできた。

  もうこれ以上先はすすめない すべてに意味を持ってしまう
  終わりを告げる夜明け 黒いセダン 黒いセダン

 「すべてに意味を持ってしまう」、これはクボケンジの詩の世界と方法の鍵となるような言葉だ。
  歌い手も聴き手も、「すべてに意味を持ってしまう」振る舞いから逃れられない、というか、それを求めてしまう。私たちもクボの歌に「志村正彦」という意味を見いだしてしまう。もちろん、どのような意味を見いだしたとしても、その見いだし方は聴き手の個々の自由だ。「志村正彦」という意味を見いだしても見いださなくても、そのような自由をクボケンジの歌は織り込んでいる。そうであるならむしろ、クボと志村正彦との対話は深まっていると言える。
 時は「終わりを告げる夜明け」から「明け方の道」へと流れ、「黒いセダン」(この言葉は最も謎めいている)と共に、「君」は「君の帰り待ってる僕の知らない所」へと帰っていく。断片的であるゆえに妙に喚起的である物語が終わる。

 最後に、2つの新曲、DVDの3曲のライブを通じて、メンバーのタケシタツヨシ、ヤマザキタケシ、サポートの大村達身、皆川真人による演奏の調和と抑制がとれた美しさに感嘆したことを付言したい。「歌」を大切にした上で、この水準のバンドアンサンブルを維持できるバンドはなかなか無いだろう。『バンドワゴン』のフィナーレは、あの『ビスケット』のイントロに続いていた。あの素晴らしいリズムを聴くと、メレンゲ『星めぐりの夜 in 日比谷野外音楽堂』完全版DVDへの欲望が高まる。リリースを切に願う。

2013年8月21日水曜日

メレンゲ『クレーター』 (志村正彦LN 45)

 昨夜、夜10時過ぎに車で帰宅途中のことだった。たまたまFM-FUJIをつけていたのだが、突然、「メレンゲ」という言葉が聞こえてきた。3人がシングルCD『クレーター』のプロモーションで番組に出演していたのだ(FM-FUJIの本社は甲府にあるのだが、この収録は東京で行われたようだ)。トークと『クレーター』と『Ladybird』の2曲を聴くことができたが、車中だったので、曲の雰囲気を味わうことが精一杯だった。そうして、明日21日が『クレーター』の発売日だったことに気づいた。早速、AMAZONのお急ぎ便で、日比谷野音ライヴのDVD付の初回生産限定盤『クレーター』を注文した。今夜この作品を聴き、考えるところがあったので、今回はそれを書いてみたい。

 メレンゲ、クボケンジの作詞作曲の歌、言葉の何処かに、「志村正彦」の痕跡を求めてしまう、ということが志村正彦のファンの自然な所作になっているのかもしれない。私もそのような一人である。しかし、そのようなあり方は聴き手の身勝手な欲望のような気がしないでもない。抑制しなくてはという気持ちもある。クボケンジがいつもそのような聴き手の欲望に晒されていることは、一つの束縛になってしまうかもしれないからだ。

 そのようなことを考えながら、CDとDVDがパッケージされた『クレーター』を開けると、歌詞カードのクレジットの「special thanks to 」の第1行目に、「Masahiko Shimura, Akito Katayose」とあった。クボケンジと志村正彦そして片寄明人、この3人の絆、トライアングルは強固だということを今回も確認することができた。先ほど書いた聴き手の欲望の問題など、クボケンジは「強がりと本音」(歌詞の一節にある言葉)で軽々と克服して、もっと遠い空間にまでたどりついているのかもしれない、そんなことを考えさせられた。

  『クレーター』を聴き始める。冒頭の「詰め込んだ分だけ重くなるカバン」という言葉を聞いた瞬間、志村正彦『東京、音楽、ロックンロール』のあるコメントにワープしてしまった。

かばんが重いのは、夢が詰まってますから。僕は昔から言っているのですけど、かばんの荷物が少ないやつは夢が少ないっていう。氣志團の團長だっていつもすごい荷物持っていたし、某女性アーティストもすごい荷物持っていたし。だから、フロントマンというか、いろんなものを背負っている人は荷物が多いんだと思います。(『東京、音楽、ロックンロール 完全版』224頁)

 そして、志村正彦が持っていた大きな重いカバンについてのある挿話を実際に語ってくれたある人の言葉も浮かんできた。
  志村正彦の痕跡を探してしまう、そのような行為を意識的に行うというより、自然にほとんど瞬間的に、関連する彼の言葉を想起してしまう。これはすでに無意識的な欲望になっているのかとも考えてしまったが、このことはもう少し考えていきたい。

  『クレーター』に戻る。クボケンジは「カバン」について第2ブロックで次のように歌う。

 詰め込んだ分だけ重くなるカバン
 果たして持って歩けるモノなのか?
 あきらめた分だけ軽くなるはず
 なのに何故だ 前よりしんどいな

 あきらめた分だけ軽くなるはずのカバン。しかし何故か、歌の主体は「前よりしんどい」と感じる。この隠喩が何を語っているのか。一人ひとりの聴き手の解釈が待たれる。
 自分の欲望にも向き合いながら、歌の言葉にも向き合う。そんなことを考えてしまった。

2013年8月18日日曜日

「会ったら言えるかな」「話すことに迷うな」-『若者のすべて』6 (志村正彦LN 44)

 歩行の系列の最後の言葉「すりむいたまま 僕はそっと歩き出して」を経て、『若者のすべては』は「最後の花火」の系列、第3と第4のブロックにたどり着く。ここで、「最後の花火」系列の歌詞全体を引用する。(1・2は録音時の歌詞ノートにあったが、3・4とサビのα・βは筆者が論述のために付加したものである)

1.サビα) 最後の花火に今年もなったな
                 何年経っても思い出してしまうな
  サビβ) ないかな ないよな きっとね いないよな
        会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ

2 サビα) 最後の花火に今年もなったな
         何年経っても思い出してしまうな
  サビβ) ないかな ないよな きっとね いないよな
        会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ

 3 サビα)  最後の花火に今年もなったな
                   何年経っても思い出してしまうな
   サビβ)  ないかな ないよな なんてね 思ってた
                  まいったな まいったな 話すことに迷うな

 4 サビα)  最後の最後の花火が終わったら
                  僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ

 1~3のサビαの部分、「最後の花火に今年もなったな 何年経っても思い出してしまうな」が、「最後の花火」系列のモチーフを形作っている。「今年もなったな」「何年経っても」という時間の経過の設定により、回想や想起という方法が歌の内部のもう一つの枠組みを形成している。この回想によって、「歩行」の系列と「最後の花火」の系列が接合されているとも言える。

 1~3のサビβの「ないかな ないよな」で始まる1行目は、歌の主体「僕」の状況や周りの風景の描写を主とする「歩行」の系列やサビαとは異なり、文脈を省略した呟きのような言葉で歌われている。その「ないかな ないよな」の「ない」とう声が「僕」の内面を覆い、通奏低音のように歌に鳴り響いている。『若者のすべて』は、「ない」ことを巡る呟きの歌なのだ。

  1・2のサビβの2行目の部分で、「僕」は「会ったら言えるかな」と繰り返し述べている。「会ったら言えるかな」は、ただ言葉を交わす挨拶のようなものか、それとも、何か大切な言葉を「言えるかな」と自分に問いかけているのか。後者の可能性が高いが、そうであるならば、再会時に何か大切なことを言うことが「僕」の目的かもしれない。何が言われるのか、聴き手には分からないが、「僕」がその情景を「まぶた閉じて浮かべている」とまで思い続けていることは確かに伝わってくる。まぶたを閉じて浮かぶ情景は、いくぶんか夢想に近いものとなる。

  構成上、1と2は同一の繰り返しであり、3の前半部も1と2の前半部の反復である。しかし、3の後半部から、大きな展開が起こる。「最後の花火に今年もなったな 何年経っても思い出してしまうな」の三度目の反復、それを受けて「ないかな ないよな」の三度目の反復が同じように続く。しかし、続く言葉「なんてね 思ってた」によって、この「最後の花火」の物語は大きな転換を迎える。  

 「ないかな ないよな」は、「なんてね 思ってた」と受け止められることで、「ない」が反転し、「ある」こと、あるいは「いる」ことが立ち現れる。不在が現前へと変化するのだ。思いがけないことであったせいか、歌の主体「僕」は「まいったな まいったな」と戸惑う。聴き手の方も、いったい何が起こったのかと戸惑うが、続く「話すことに迷うな」によって、事態をおおむね理解する。どうやら、「僕」はいつのまにか、誰かとの再会というか予期しない遭遇が果たせたようなのだ。ただし、「話すこと」そのものが「僕」をまだ迷いの中に閉じこめる。

  この現実の遭遇は、「まぶた閉じて浮かべているよ」という夢想と円環をなしている。「まぶた」を閉じた「僕」は、「まぶた」の裏の幻の対象に対して、「会ったら言えるかな」と囁く。「まぶた」を開けた「僕」は、その眼差しの向こうの現実の対象に対して、「話すことに迷うな」と呟く。不在と現前、夢想と現実の響きが、『若者のすべて』の中で、美しい織物のように編み込まれている。

  ロラン・バルトは『恋愛のディスクール・断章』で、恋愛対象の不在と現前、「あなたは行ってしまった」と「あなたはそこにいる」との間の「苦悶」について次のように述べている。

不在の人に向けて、その不在にまつわるディスクールを果てどなくくりかえす。これはまことに不思議な状況である。あの人は、指示対象としては不在でありながら、発話の受け手としては現前しているのだ。この奇妙なねじれから、一種の耐えがたい現在が生じる。指示行為の時間と発話行為の時間、この二つの時間の間で、私は身動きもならない。あなたは行ってしまった(だからこそわたしは嘆いている)、あなたはそこにいる(私があなたに話しかけているのだから)。そのときわたしは、現在というこの困難な時間が、まじり気のない苦悶の一片であることを知るのだ。

  ロラン・バルトは、「あなた」の不在と現前による「わたし」の「苦悶」を強調している。志村正彦も繰り返し、バルトの言うような文脈での不在と現前そして苦悶のモチーフを描いている。『陽炎』の「きっと今では無くなったものもたくさんあるだろう きっとそれでもあの人は変わらず過ごしているだろう」「またそうこうしているうち次から次へと浮かんだ 出来事が 胸を締めつける」がその一例である。

 しかし、『若者のすべて』では、「会ったら言えるかな」という夢想から「話すことに迷うな」という現実への転換によって、「苦悶」というよりもある種の恩寵のような「悦び」が「僕」に訪れているような気がする。それは若者という時の過ごし方、そのあり方に特有の「悦び」かもしれない。

2013年8月12日月曜日

「一期一会」 (志村正彦LN 43)

 8月7日、「1番ソングSHOW」の「日本全国47都道府県 地元スター総選挙」という特集で、志村正彦が山梨県の5位になった。レミオロメンや宮沢和史(ザ・ブーム)より下位というのは、一般的な知名度からすると妥当なのだろう。とにかく、彼の名が上がったのは素直に嬉しい。

  前回触れたように、NHK甲府「がんばる甲州人」の「ロックミュージシャン志村正彦さん」には、アナウンサー泉浩司さんとキャスター小倉実華さんの二人による丁寧なコメントと、母志村妙子さんの取材に基づく「一期一会」という言葉と印象深いエピソードについての紹介があった。今回はそのことについて記したい。以下は、該当部分を放送から起こしたものである。(A=泉浩司、B= 小倉実華と略す)

A まず志村さんの音楽の持つ力ですよね、それが今地域の誇りとなってきている。なんかいいですよね。
B そうですよね。志村さんの独特な世界観がこの富士山の麓山梨で生まれたっていうことは素直に嬉しいですし、また山梨の誇りだなっていうふうに感じましたね。
A 今回はですね、色紙ではありません。志村さんのお母さま妙子さんからこんな言葉をいただきました。
一期一会
 (通常の「がんばる甲州人」では、本人が大切にしている言葉を記した色紙が披露される。今回はその代わりに、この言葉が画面に大きく文字として映し出された)
B 妙子さんから伺ったエピソードによりますと、志村さんは一度だけライブの直前に風邪をひいて、いいパフォーマンスができなかったことがあったそうなんです。その時に電話で妙子さん、次のライブで頑張ればいいじゃないと励ましました。すると志村さんは、次に同じお客さんに会えるかはまあ分からないと、だから今回限りの覚悟で演奏に臨まなくてはいけないんだと話していたそうなんですね。妙子さんそれが最も印象に残っていると話していました。
A はい、この放送自体が志村さんとの一期一会という方もいるかと思うんですよね。
B  そうですね。
A フジファブリックは志村さん亡き後も残った3人のメンバーで活動を続けています。

 「一期一会」、一生に一度だけの機会。志村正彦は、いつもこの言葉の通り、「今回限りの覚悟で演奏に臨まなくてはいけないんだ」と考えて、一つひとつのライブに向き合っていたのだろう。彼らしい「志」である。確かに、残されたどのライブ映像にも、そのような志を宿しているかのような眼差しと佇まいを感じ取ってしまう。歌い手としての責任が強く伝わる。

  ただし、茶道では、「一期一会」を「どの茶会でも一生に一度のものと心得て、主客ともに誠意を尽くすべきだ」という心得だと教えているようだ。この「主客ともに」というのを音楽にあてはめると、「歌い手聴き手ともに」ということになろう。だとすれば、「一期一会」の一つひとつのコンサートを成立させるのは、歌い手側だけではなく、聴き手側の一人ひとりも「誠意を尽くす」ことが不可欠となる。
 このことを、私たち聴き手も忘れるべきではないだろう。

2013年8月4日日曜日

志村正彦に関する番組について (志村正彦LN 42)

 1日、志村正彦に関する番組がNHK総合の「情報まるごと」の枠内で全国放送された。これは、7月23日にNHK甲府放送局で放送された「がんばる甲州人 ロックミュージシャン志村正彦さん」がそのまま「再放送」されるのだと思っていたが、そうではなく、いくつかの異なる点があった。県外の方はNHK甲府の「がんばる甲州人」を未見だろうから、両者の違いを以下示すことにする。(各々を「甲府版」と「総合版」と呼ぶ)

 ・「甲府版」と「総合版」の本編部分の映像は同じで、ナレーションの原稿も同じだが、ナレーターの声は異なるようだ。(断定できないが、ナレーションは新たに録音し直したように聞こえる)映像右上のインポーズ文字も、「ロックミュージシャン志村正彦さん」(甲府版)、「夭折のロッカー 富士吉田に”生きる”」(総合版)というように違っている。

 ・本編前後のアナウンサーによる語りの部分が異なる。「甲府版」では、本編前後にNHK甲府放送局のキャスター二人による丁寧なコメントと、母志村妙子さんによる「一期一会」という言葉と印象深いエピソード(このことについては後に触れたい)の紹介があった。「総合版」では、本編前後に、フジファブリック4人と志村正彦の写真と『陽炎』と『茜色の夕日』のCD音源が流され、キャスター1人によるコメントがあった。 また、番組最後に、視聴者からの「音楽でありながら、文学作品を読んでいるかのような素晴らしさがある」というメールが紹介され、これからも志村さんの音楽が人々に力を与えていく、という二人のキャスターによる暖かい言葉が添えられた。

・題名については、「甲府版」は、「がんばる甲州人」シリーズの1回分としての「ロックミュージシャン志村正彦さん」であるが、「総合版」では、「情報まるごと」の中の一つとしての扱いなので、独立した題名はなかったようだ。(勝手に名づけるなら、映像右上のインポーズ等を考慮して「フジファブリック志村正彦さん 夭折のロッカー富士吉田に”生きる”」になるだろうか)

  以上のことから、NHK総合は、「総合」という全国放送にふさわしいように、NHK甲府制作の番組を「再放送」するのではなく、「番組素材」にして、東京の視点から地域での動きを伝える、新たな番組として放送したように思われる。この方針自体は、番組のキャスターも異なり、全国放送という性格からいっても了解できるが、「志村正彦の特集番組」という期待で視聴された方の中には、ローカル色の濃い内容にやや違和感を持たれた方もいると思われる。このあたりの事情を含め、私が知っている、および書くことのできる範囲で、この番組について伝えるべきことをここで伝えておきたい。

  NHK甲府の「がんばる甲州人」というシリーズは、今この山梨という場で、様々なテーマについて「がんばる」人々(有名無名とか立場に関わらず)を取り上げるもので、すでに亡くなっている人物は対象外というのが基本のようだ。そのような原則から、志村正彦についての番組が実現できるかどうかという壁もあったが、担当ディレクターの熱意と努力によって、局内で了承を得ることができ、制作されることになったそうだ。

  「がんばる甲州人」の趣旨から、志村正彦の人生の軌跡や作品については、小学生の頃やインディーズ時代の写真、『若者のすべて』『茜色の夕日』ライブDVDの映像、実家の部屋の映像(少しだけ映されていたが、彼の楽器や機材、衣装や帽子、所蔵CD・DVD、ファンからの贈り物などの、言葉では言い尽くせないような「かけがえのないもの」が御家族によって大切に保管されている。今回の番組のために特別に公開されたもので、映像として紹介されたのは初のことだろう)、母妙子さんによる、ファンへの感謝や現在の心境が込められたコメントを中心に描かれることになった。
 

 そして、富士吉田を中心に、甲府を含め山梨という地域で、彼の歌を伝えていくことを目的とした活動が分量的にも多く取り上げられた。
 富士吉田で「志村正彦展」を主催し、市の若手プロジェクトと共に「夕方のチャイム」を企画している「路地裏の僕たち」(彼の同級生や先輩後輩たちのグループ)の中心メンバーである渡辺雅人さん(「非営利」という原則のもと、彼は幼馴染である「正彦」のために、純粋に活動を続けてきました)、「Fujifabric International Fan Site」の主催者で、彼の作品を翻訳し海外に発信している杉山麻衣さん(彼女がこの3年間自身のサイトで、翻訳をはじめ、地元での様々な動きを丁寧に粘り強く伝えてきたことをご存知の方は多いでしょう。今回の放送を機に彼女もブログで実名を公開されたので、ここでも実名で記させていただきます)、地域の高校で彼の作品を授業の教材にする試みをしていることから、私が出演させていただくことになった。
 富士吉田から甲府、山梨、日本そして世界へという場の広がり、行政・インターネット・教育という分野の展開、という視点を担当ディレクターが重視したからである。私たちもそのような視点に共感し、番組作りに協力させていただき、あのような構成となった。

 貴重なものとしては、自分の作詞の方法について述べた録音(2009年12月14日、亡くなる十日前に収録されたもので、関係者の特別な配慮により放送された)に残された彼の元気そうな声が、ファンにとって思いがけない大切な贈り物となっただろう。
 最後に、『茜色の夕日』のチャイム、新倉浅間神社で開催された「志村正彦を謳う会」、フランスから来た男の子による『タイムマシーン』の演奏シーン、あの場に集まった志村正彦を愛する人々の様子に焦点を当てて、志村正彦の歌が今も確かに人々の心の中で生き続けていることを伝えていた。担当ディレクター、出演者、そしてあの場にいたすべての人々の想いがあの番組には凝縮されていて、視聴した人々の記憶に残る番組となったと考えている。

  全国放送された「総合版」を視聴された方は、このような趣旨と経緯によって、今回の番組はあのような構成と内容になったことを御理解いただきたいと思います。(担当ディレクターを代弁するような言い方で申し訳ありませんが、出演者の立場からしてもそのように考えています) 今回の番組を契機にして、志村正彦に関するより本格的な番組を、時間を長くして、より多くの人に取材し、より多くの音楽や映像や資料を使って、制作し放送されることを、私自身が強く望んでいます。そして、そのように望む皆が、一人ひとり各自の声を届けていけばよいと考えています。

付記
 この《偶景web》は表現者としての私の場であるので、これまであえて、本職である教師の仕事については触れませんでした。この二つの立場は相互に独立してあるべきだ、というのが私の基本姿勢です。(もちろん、一人の同じ人間ですので重なってしまうことも時にはあるかもしれませんが、そのことには自覚的でありたいと考えています)
 教師としては、ここ2年半ほど、勤め先の高校の「小論文」という科目を中心に「志村正彦の歌について書き、語り合う」授業を実践してきました。ただし、このブログで書いているような私自身の解釈を授業で生徒に伝えることはしていません。そのような行為は、生徒が志村正彦の歌に向き合うことの妨げになるからです。生徒は、教師から受け取る先入観のない状態で、自由に素直に、彼の歌そして彼の歌を聴いている自分自身に向き合い、感じ、考えたことを書く。そして生徒同士で語りあう。これが私の授業の原則です。その結果、生徒は皆、私の予想を超えて、深い感受性と高い分析力を発揮し、すばらしい文を書きました。私自身、志村正彦の作品が十代の若者に与える力の大きさと、多様な解釈を生み出す豊かさと深さを実感しました。
 この試みが2011年6月に「山梨日日新聞」で沢登雄太記者によって紹介され、その記事がきっかけとなって、その年の12月の「志村正彦展 路地裏の僕たち」で生徒および私の文章がパネルとして展示されました。このときに、まったく思いがけなく、志村さんの御家族との出会いがありました。生徒の文を丁寧に読んでいただいたことを知り、とても感激し、このような授業をする上での励ましともなりました。また、杉山さんとも知り合うことができ、このようなブログを始める勇気をいただきました。
 ですから振り返ってみると、あの授業を始めたからこそ、かけがえのない出会いがあり、この《偶景web》の「志村正彦ライナーノーツ」が存在していることは確かです。

2013年7月29日月曜日

「すりむいたまま 僕はそっと歩き出して」-『若者のすべて』5 (志村正彦 LN41)

 25日の夕方6時、富士吉田で『若者のすべて』のチャイムを聴いた。昨年12月のチャイムと同じものだが、季節や時が異なると聞こえ方が変わってくるのかに関心があった。
 LN3で書いたように、冬の『若者のすべて』のチャイムには、聴き手の側からすると、祈りにも似た想いにつながる、内省的な響きがあったのに対して、夏の『若者のすべて』のチャイムには、夏の空や雲、光、暖かい空気の感触にふさわしい、明るい開放的な響きがあったと、ここで伝えておきたい。今回は27日まで、富士登山競走、富士吉田市民夏まつりに合わせて、『若者のすべて』のチャイムに再び変更されたが、このまま、夏や冬のチャイムとして、季節の風物詩として、志村正彦の楽曲が使われることを願う。

 14日の新倉浅間神社でのイベントやNHK甲府の「がんばる甲州人 志村正彦」についてまだ述べたいこともあるのだが、ドラマ『SUMMER NUDE』の反響によって、歌詞サイトで1位に浮上するなど、今再び「ピーク」の季節を迎えつつある『若者のすべて』論に戻ることを優先したい。

 今回は、「僕」の「歩行」の系列の第2と第3のブロックを対象としたい。LN36で論じた第1ブロックを含めて、私が仮に名付けている「歩行」の系列の歌詞を、最初から最後まで引用する。

1.A)真夏のピークが去った 天気予報士がテレビで言ってた
    それでもいまだに街は 落ち着かないような 気がしている


  B)夕方5時のチャイムが 今日はなんだか胸に響いて
    「運命」なんて便利なものでぼんやりさせて


2 A)世界の約束を知って それなりになって また戻って

  B)街灯の明かりがまた 一つ点いて 帰りを急ぐよ
    途切れた夢の続きを取り戻したくなって


  C)すりむいたまま 僕はそっと歩き出して

 このようにまとめてると、「歩行」の系列のすべての輪郭が浮かび上がってくる。
 AメロBメロの第1ブロック、「真夏のピーク」、「街」、「5時のチャイム」とイメージを喚起させるモチーフの連なりに続いて、歌の主体は、「運命」という鍵となる言葉を紡ぎ出す。それを契機に、「最後の花火」の系列、サビの部分に転換するのだが、それが終わると再び、AメロBメロの第2ブロックに転換する。さらに、再度、「最後の花火」の系列、サビの部分に転換し、その後、Cメロの第3ブロックに転換する。「歩行」と「最後の花火」、この二つの系列の間の転換、言葉の往還が、やはり、この歌を独自なものにしている。

 世界の約束を知って それなりになって また戻って

 「最後の花火」の系列から、「歩行」の系列へと戻ってくるのだが、唐突に「世界の約束」という言葉が登場する。「世界の約束」とは、この世界の約束事、決まり事、抽象的に言い換えるなら、法、掟、規範のことであろう。若者がなすべき「すべて」の中の重要な一つとして、「大人」になることがあげられる。それは「世界の約束」を知ることであり、「それ」なりになることである。「それ」というのは「それ」としか言いようがないもので、大人は「それ」が何であるかを「それ」となく知っている。「それ」は、「それ」なりになることによって初めて、ほんとうに分かるような「それ」である。

 志村正彦は「それ」を抽象的な語彙ではなく、指示語の「それ」を使い、聴き手に伝えようとした。「それ」の指し示す内容はいっさい語らないことによって、聴き手が「それ」の指示内容をそれぞれ埋めるようにして、解釈が進んでいく。
 また、「それなりになって」「また戻って」という相反する動きをさりげなく語っている。「それ」なりになったかのようでも「それ」になりきれなく、時には「それ」から「それ」以前の段階へと戻ってしまう。「若者」はそのようにして、行きつ戻りつ「往還」して、歩んでいく。

 街灯の明かりがまた 一つ点いて 帰りを急ぐよ
 途切れた夢の続きを取り戻したくなって


 「街灯の明かりがまた 一つ点いて」という「街」の光景が描かれる。「夕方5時のチャイム」が鳴った時点から、どのくらいの時間が経ったのか、歌詞からは確かめようもないが、「街灯の明かりがまた 一つ点いて」とあるので、少しずつ街灯が点灯し、「帰りを急ぐよ」とあるように「帰宅」「家路」を意識するような時間の推移の感覚は、以前、LN2「冬の季節の『若者のすべて』」で書いたように、冬に最もふさわしいような気がする。その際の言葉を引用する。

日の短い、すぐに暮れてしまう冬の季節に、私たちはそれぞれの場所に帰りを急ぐ。この歌にはもともと多層的な響きがある。『若者のすべて』の「すべて」には、夏も冬も含すべての季節感が込められているのかもしれない。

 「途切れた夢の続き」は、定型的な表現とも言えるのだが、「取り戻したくなって」という述語と重なると、定型から離れていく。「途切れた夢の続き」を「見る」「見たくなって」であれば、平凡な表現になるが、「取り戻したくなって」は独特である。「取り戻したい」というのは、一度獲得したが失ってしまったものを再獲得したいという、歌の主体「僕」の強い欲望を表す。

 この一節の後に、「最後の花火」の系列、サビの部分が入ってくるので、歌詞の流れからすると、「最後の花火」の系列で歌われる「出会い」あるいは「再会」が、「途切れた夢の続き」の実質であると解釈されるのだろうが、それとは異なる解釈もあるような気がする。それが何かということは分からないままなのだが。
 また、この夢というのは、そのことを実現したいという現実の欲望の対象としての夢と睡眠中にみる無意識の欲望を示す夢という、二つの夢が複合されている、と私は考える。

 すりむいたまま 僕はそっと歩き出して

 Cメロの部分、この一節で、「歩行」の枠組みは閉じられるが、ここで初めて、語りの枠組みを支えている話者であり歌の主体である「僕」が登場することに注意したい。
 「すりむいたまま」というのは定型的な比喩表現であり、すりむいたまま、小さな傷を抱えたまま、癒える時を待つ間もなく、というのは若者の生によくある光景であるとも言えよう。しかし、「そっと歩き出して」という表現の「そっと」という副詞、「歩き出して」という接続助詞「て」で締めくくられる動詞の表現は、非常に繊細で巧みに、歌の主体「僕」の「歩行」への意志を語っている。
 志村正彦は、『音楽と人』2007年12月号所収の樋口靖幸氏による取材で、『若者のすべて』について次のように述べている。

一番言いたいことは最後の〈すりむいたまま僕はそっと歩き出して〉っていうところ。今、俺は、いろんなことを知ってしまって気持ちをすりむいてしまっているけど、前へ向かって歩き出すしかないんですよ、ホントに。

 

 この注目すべき発言から、ABCメロの歌詞、「歩行」の系列が、志村正彦にとって非常に切実なモチーフだったことが伺える。『若者のすべて』の歌詞全体の中で、「すりむいたまま 僕はそっと歩き出して」が一番言いたかったことだとすると、これまで「最後の花火」を巡るモチーフを中心に読まれてきたこの歌の解釈そのものが問われることにもつながる。実は、『音楽と人』2007年12月号に、『若者のすべて』の記事があることを知り、古書を入手し、こ の文を読んだのは二日前のことだった。「歩行」の系列を重視するという私の読みが志村正彦自身の言葉で裏付けられた気がした。

 私が「志村正彦ライナーノーツ」を書く際には、作品の言葉そのものに向き合い自分自身で考える、という姿勢を基本として貫きたいと考えている。ある程度まで書き進めるまでは、作者のコメントやライターの記事などはあえて読まないようにしている。そうすることによって、解釈が限定されてしまう恐れがあるからだ。しかし、文を公開するために原稿を完成させる段階では、参照すべき資料は参照し、自分自身の論との対話を試みる。今回もそのように作業を進めたのだが、思いがけなく、重要な資料と出会うことができた。樋口靖幸氏によるこの記事は非常に興味深い証言となっているので、最後の方で再び触れることにしたい。

 志村正彦は、『若者のすべて』の作者として、「いろんなことを知ってしまって気持ちをすりむいてしまっているけど、前へ向かって歩き出すしかないんですよ」と、正直にそして自分に言い聞かせるようにして、自分の心情と決意を述べている。「いろんなことを知って」が具体的に何を指しているのかは分からない。また、「前へ向かって」がどのような方向を示しているのかも抽象的にしか理解できない。しかし、『若者のすべて』の主体「僕」にとっては、「すりむいたまま」「途切れた夢の続き」を取り戻すための歩みであり、そのようにして前へ向かって歩き出そうとしている、と解釈することができる。作者の想いは、歌に表現されることで、より限定した意味を帯びてくるからだ。

 私たちが夜経験する「途切れた夢」は、とても儚く、時に恐ろしく、時に甘美だ。途切れてしまったからこそ、心の余白にいつまでもこびりつく。現実的な願望の対象としての「途切れた夢」は、時に執拗にその成就を私たちに求める。それは欲望の源になるが、同時に辛さの源にもなる。「途切れた夢の続き」という言葉は、『若者のすべて』の一節を超えて、志村正彦の音楽活動の歩みのすべてを凝縮しているように私には感じられる。

2013年7月24日水曜日

続、時代が追いついてきた。 (志村正彦LN 40)

 LN38に引き続き、それ以降の志村正彦関連の話題を追っていきたい。

 16日、『山梨日日新聞』第1面のコラム「風林火山」。LN38で紹介した「白球の夢 半世紀」という連載に触れて、「少年野球時代の光景を楽曲にした人気ロックバンドのボーカルも、県大会には出場できずに悔し涙を流した。29歳で他界。都内のマンションには、小学生時代に使っていた父から贈られたグラブやバット、新聞記事が大切の保管されていた」と書き、「楽しいこともつらいことも、全力を尽くせばすべてが宝物になる。野球に限らず、好きなことを見つけて真剣に取り組むことの大切さを、先輩たちの言葉や姿が教えてくれる」と結んでいた。

 16日の夜、渋谷で、GREAT3とフジファブリックの対バンライブが行われたが、ROロックのライブレポート「2013.07.16 GREAT3×フジファブリック @渋谷クラブクアトロ」( http://ro69.jp/live/detail/85367 )で、片寄明人が「そんな志村正彦くんに捧げる曲を作りました』と述べてから『彼岸』が演奏された、ということを知った。
 5月23日の新宿ロフトのライブでは、「志村正彦」という名は出さなかったが、今回はフジファブリック・ファンも多かった故、「志村正彦」という名をはっきりと打ち出したのだろう。セットリストも記され、「彼岸」の次に「綱渡り」が歌われたそうだ。「彼岸」「綱渡り」は、5月23日にもこの順で演奏されていたので、一つの組曲のように扱われているようだ。

 22日、フジテレビ月9のドラマ『SUMMER NUDE』第3回の冒頭で、前回のシーンをまとめた映像に合わせて、フジファブリック『若者のすべて』(志村正彦作詞・作曲)が再び放送された。今回はタイトルバックということもあって、Aメロ、Bメロ、途中省略して最後のサビ「最後の最後の花火が終わったら  僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ」と、1分30秒ほどの短いヴァージョンに編集されていた。最後のサビの部分がこの物語の展開の鍵となるようなので、このような短縮版も頷ける。
 また、プロデューサーの村瀬健氏がtwitterで、「路地裏の僕たち」の一人「kazz3776」さんからのメッセージに、「月9『SUMMER NUDE』でフジファブリック「若者のすべて」を主人公の思い出の曲として使わせて頂いております。志村さんの歌声が世界中に響き渡れば…と思います。」と応えてくれたことも、とても嬉しい。

 23日の夕方、NHK甲府放送局の「まるごと山梨」というニュース(午後6:10~7:00)の「がんばる甲州人」というシリーズで、「ロックミュージシャン志村正彦さん」「多くの人に生き続ける」という題と内容の番組が放送された。本編は8分程、司会者による前後のコメントを併せると10分程の長さであったが、担当ディレクターによる丁寧な取材に基づいて、内容、構成もよく考えられたものであった。
 NHKローカル局を含めて地元の放送局で志村正彦がまとまって紹介されたのは、初めてのことである。彼については、地元紙『山梨日日新聞』がシリーズものとして連載したり、系列のYBSテレビが志村展をニュースで報道したりするなど、継続的に扱ってくれて、とても有り難かったのだが、それ以外のメディアや地元放送局が彼を取り上げることはほとんどなかった。(富士吉田のCATV局はニュースにしてくれているが)彼自身が地元メディアに対してあまり宣伝をしないストイックな姿勢を貫いていたこともあるが、それ以上に、山梨という風土が文化や芸術についてあまり感度が高くないことが要因としてあげられる。

 だからこそ今回、NHKの甲府放送局が、今でも「多くの人に生き続ける」という視点で、志村正彦の軌跡と現在の地元でのムーブメントを取材してくれたことは、新しい動きとして特筆すべきである。実は、ディレクターからの依頼で私自身も少し出演しているので、ある意味で当事者の一人であり、第三者的に言及するのはフェアでない気がするが、これまであるようでなかった、というか、あるべきなのになかった、地元局による志村正彦の番組が制作され放送されたということ自体は、大いに評価されるべきだと考えている。(この番組の内容については、稿を改めて、書くことにしたい)

 地元山梨もようやく、 志村正彦に追いついてきたようだ。

2013年7月21日日曜日

涙 (志村正彦LN 39)

 14日、「いつもの丘」にある新倉浅間神社の神楽殿で開催された、志村正彦に関するイベントから1週間が経つ。その日のことを書き記しておきたい。
 当日は、例年より蒸し暑い富士吉田となっていたが、その数日前までの山梨全体の猛暑に比べれば幾分か過ごしやすかった。心配していた雨も途中で少し降っただけで、何とか終了まで持ちこたえることができた。

 夕方5時過ぎ、「志村正彦を歌う会」に引き続き、「路地裏の僕たち」の企画によって、当日の参加者、ファンに宛てた志村正彦の御家族からの手紙が代読された。遠くから訪れていただいた方々への御家族からの丁寧な感謝の言葉と、志村正彦の御友人からの手紙の文面が紹介された。御友人の手紙では、2006年7月頃に、「地元にいつか帰りたいけど、しっかり音楽で恩返しできるまで帰れない。いつかは地元でスタジオを開いて、若いミュージシャンを迎えてあげたい」という夢を語っていたという事実が告げられた。

 昔から、東京に近いこともあって、富士吉田に近い河口湖や山中湖にはスタジオが多い。彼が元気でいれば、手紙で書かれていた通り、いつか「志村スタジオ」を作り、そこで音楽作りに専念できたかもしれない。
 欧米では、年齢が三十代半ばを過ぎる頃になると、バンド活動に終止符を打ったり休止したりして、ソロとなり、いつもと異なるミュージシャンを集め、アルバム作成に時間をかけて、作品中心に発表するロックアーティストがいる。また、自分自身のスタジオをつくったりレーベルをつくったりすることも多い。敬愛するピーター・ガブリエルがその良い例である。

 志村正彦も、そのような形で、熟成した音楽を作り、志のある若手を支援する夢を持っていたのだろう。成就しなかった夢を後になって知るのは、たとえようなく哀しい。そんな想いに沈んでいる内に、2005年、FM東京で放送された志村正彦のトークとスタジオで演奏された『茜色の夕日』アコースティックヴァージョンが披露された。

 誰もいない神楽殿の舞台。そこには愛用のギターやアンプがあったのだが、舞台上のスピーカーから、彼の言葉が流れてきた。シングル発表直後ということもあって、明るい感じの声だったが、逆に、そのことが彼の不在を際だたせていた。アコースティックの『茜色の夕日』は、繊細で揺れるような声で「おだやかな哀しみ」とでもいうべき想いを歌い上げていた。

 私も、ある想いに捉えられていた。いつもなら、そのような想いを捉え直し、言葉にすることで、想いと距離を置こうとする自分がいた。しかし、あの時は、そのようなことはできず、涙が少しずつあふれてきた。
 今、「いつもの丘」で、『茜色の夕日』の声が響いている。声はあるのに、彼はいない。突然の身体の異変が彼の命を奪ってしまった。どうしてなんだ。どうしてなんだ。こんな現実があっていいはずはない。あってはならない。
 しかし、彼の不在、絶対に変えることのできない現実がそこにはあった。そのような現実への涙だった。

2013年7月16日火曜日

時代が追いついてきた。 (志村正彦LN 38)

  志村正彦の誕生日7月10日から1週間も経たない内に、彼に関する様々な催しや出来事があった。今回からしばらく、『若者のすべて』論から離れて、幾つかの事柄に関して書いていきたい。まず、出来事を列挙してみよう。

 10日から14日にかけて、富士吉田市の若手職員プロジェクトによって、富士吉田市の夕方6時のチャイムが、志村正彦作詞作曲の『茜色の夕日』に変更され、あの美しく切ないメロディが故郷の空に響き渡ったこと。

 13日下吉田倶楽部、14日新倉浅間神社「いつもの丘」で開催された「志村正彦を歌う会」で、沢山のアマチュア・ミュージシャンが志村正彦の作品を歌い奏でたこと。
 この会の最後に、志村正彦のご家族からのメッセージが代読され、続いて、ほとんど知られていない『茜色の夕日』のアコースティック音源と歌についてのコメント(FM東京で録音、放送されたもの)が再生されたこと。

 15日、『山梨日日新聞』の『白球の夢半世紀 山日YBS杯県少年野球』という連載の最後となる第10回で、沢登雄太記者が(彼は志村正彦・フジファブリックについて書き続けている「志」の高い記者だ)ご両親への取材に基づいて、『宝物の思い出を歌に』と題して、志村正彦と少年野球を巡るエピソードや『記念写真』などの野球をモチーフとする楽曲について書いた記事が掲載されたこと。

 15日の夜、フジテレビ月9のドラマ『SUMMER NUDE  サマーヌード』で、フジファブリックの『若者のすべて』(志村正彦作詞・作曲)が放送されたこと。それも単なるBGMではなく、プロデューサーの村瀬健氏がtwitterで、「『若者のすべて』この曲がすべてを変えてしまいます…最後まで見逃さないでください! 」と述べているように、このドラマの展開の鍵となる曲であるらしいこと。(志村は映画好きだったから、どんなに喜んだことだろう。そして、自分の歌についての「自信」を持ったことだろう)

 私自身も、縁あって、2011年12年と志村正彦展を主催している、彼の同級生や先輩後輩たちが集う地元のグループ「路地裏の僕たち」の支援係として、今回富士吉田で行われたイベントの準備や裏方を務めた。昨日は、そのことを通じて感じ考えたことの下書きをしている内に、山日の記事が届けられ、月9ドラマに『若者のすべて』が使われたという話題が飛び込んできた。さて、どのことから書けばいいのか、まさしく「嬉しい悲鳴」をあげてしまったが、一つ一つ、少しずつ、追っていきたいと考えた。

 富士吉田で行われたイベントに来た人の多くは、すでに志村正彦に出会った人々であったが、中には地元の人を中心に、今回のイベントを機に、彼に興味を持ち、彼の歌を知るために訪れてくれた人々もいた。また、山日の記事、少年野球という切り口から、志村正彦の存在を知った人々もいるだろう。ドラマ『SUMMER NUDE』から、『若者のすべて』を通じて、新たに彼の歌と出会う人々も増えてくるだろう。

 志村正彦は、14日の新倉浅間神社で再生された音源でも、『茜色の夕日』について、言葉は同じなのに、歌の解釈は時の経過と共に異なってくるという意味のことを述べていた。『若者のすべて』のライブMCでも同様のことを語っている。歌詞の意味が限定されていなくて、聴き手と共に、時の経過や聴き手の経験の深まりと共に、その解釈が変化していく、多様性と豊かさのある歌、聴き手中心の歌を、志村正彦は創造してきた。おそらく今、時代はこのような歌を求めている。

 彼が亡くなって3年半が経つが、むしろこれから、志村正彦の作品は、より多くの人々に聴かれるようになるのではないか。そのような想いの中にいる。(端から見ると、「願望」のように「妄想」のように思われるかもしれないが)
 時代が志村正彦の作品に追いついてきた。今日は、そんな言葉をここに書き記したい。

2013年7月7日日曜日

「ないかな ないよな きっとね いないよな」-『若者のすべて』4 (志村正彦LN 37)

今回は、第2ブロック、サビの部分を考察したい。

 最後の花火に今年もなったな
 何年経っても思い出してしまうな


 第1ブロック、A・Bメロの部分を受けて、「最後の花火に今年もなったな」と歌い出される。歌詞の文脈からいえば、《僕》が繰り返し想いだすある出来事、「夕方5時のチャイム」に直接あるいは間接的に関わり、「運命」を感じさせるような出来事は、「最後の花火」に関わる出来事だったことになる。

 LN34で述べたように、第1ブロック、A・Bメロの部分、歌の主体《僕》の歩行をモチーフとする部分と、第2ブロック、サビの部分、「最後の花火」のモチーフの部分とは、本来、異なる曲だったようだ。その二つの曲、特に歌詞がどの程度できあがっていたのかを知る術はない。これはあくまで私の推測だが、この二つのモチーフがつながったのは、曲作りの過程でのことだったのではないだろうか。完成された『若者のすべて』において、《僕》の歩行のモチーフと「最後の花火」のモチーフとは、上手く接合されているようで、充分に接合されきってはいないからだ。私にはそう感じられる。

 そしてそのことが、『若者のすべて』の解釈の難しさ、あるいは、LN6で触れたように、志村正彦が両国国技館ライブで『若者のすべて』を歌う前のMCで述べた「解釈が違うんですよ 同じ歌詞なのに」という言葉につながっているのだと思われる。この論ではひとまず、接合されていると仮定して分析していくが、最後の方で、接合されていないと考えた場合の解釈を付加したい。

 ここで一端、歌の構成の問題から離れて、歌詞についてかなり具体的な指摘をしたい。この「最後の花火」は、富士五湖の一つ河口湖で毎年開かれる「湖上祭」の「花火」をモチーフとしていると言われている。本人が明言したことはないようだが、富士吉田で生まれ育った志村にとって、夏の「最後の花火」というモチーフに直接的間接的に河口湖の花火が関わっていると受けとめてもよいだろう。そういう前提のもとに、山梨の在住者として少し説明したいことがある。

 富士五湖の花火大会は、毎年8月1日の山中湖から始まり、2日西湖、3日本栖湖、4日精進湖と続き、5日の河口湖で終わりとなる。富士五湖の夏の風物詩で、実施日と湖はいつも1日から5日まで固定されている。だから毎年、河口湖の花火は、富士五湖の花火の中の「最後の花火」であるという事実だ。通常、「最後の花火に今年もなったな」というのは、2時間ほど続く花火大会の最後を飾るフィナーレの花火を指しているのだろうが、「最後の花火」が河口湖の花火大会そのものを暗に示している解釈の余地もあることになる。通常の解釈を取ったとしても、「最後」という言葉には、残像のようなものとして、河口湖の花火の記憶が刻印されていると考えてもよいだろう。

 河口湖は、志村正彦の生まれ育った場所からは自転車に乗って二十分ほどで着く距離にある。湖上の花火は、湖の水面に光が反射し、特有の美しさを持つ。志村正彦も小さい頃から何度も出かけたことがあるのだろう。家族や「路地裏」や学校の友達と共に。思春期に入れば「それなりに」異性の友達と一緒に行ったことがあるのかもしれない。そしてその経験の中で「何年経っても思い出してしまう」ような出来事があったのかもしれない。特に河口湖の「湖上祭」花火大会の最後、つまり「最後の最後の花火」は、毎年、「ナイアガラ」という数百メートルの幅を持つ「光の滝」が湖面に降り注ぎ、白い光の帯が輝く。華やかな光が尽きると、花火大会も終わりとなる。

 第2ブロック、サビの部分は、歌われる物語の流れから言えば、ここで回想が始まり、現在という時から過去の時へと、時の主軸が移る。また、都市から故郷へ、街路から自然の豊かな場へと、場も転換する。そのように解釈する場合、第1ブロックと第2ブロックとは、ある種の「転換」によって接合されていると考えられる。
 続いて、『若者のすべて』中でも最も印象深い一節が歌われる。

 ないかな ないよな きっとね いないよな
 会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ


 「ないかな」「ないよな」と「ない」が二つ重ねられる。しかし、いったい何が「ない」のか。それがわからないまま「きっとね」を挿んで、「いないよな」に続く。「いない」のならその主語は人、誰かということになる。続く行で、「会ったら言えるかな」とあるので、その「いない」と思う誰かは、歌の主体《僕》にとって出会ったら何かを言えるか困惑するような相手、普通考えるなら、恋人のような大切であった存在のことであろう。そして、その場面全体を「まぶた閉じて浮かべている」と歌っている。

 そうであるのなら、この一節をもとに戻ると、「ない」の主語は、誰か大切な人との再会するという出来事になるかもしれない。「再会する」ことが「ないかな」となり、「再会する」という意味の言葉が省かれていることになる。あるいは、「いること」が「ないかな」つまり「いないかな」の「い」が省かれた形とも考えられる。

 例えば、この歌詞を「また会えないかな」「彼女いないよな」などと綴ったとしたら、その凡庸さによって、耐え難いつまらない歌になってしまっただろう。再会することが「ない」あるいは誰かが「いない」、出来事の否定、人の不在、そのどちらにしても、「ない」という否定形の反復とその対象の省略という話法によって、この歌は独創的なものとなっている。その否定に、「…かな」「…よな」「…ね」「…よな」という、否定しきれない、《僕》の戸惑いや未練を示す助詞をつけることで、曖昧さとある種の迂回が付加される。

 歌われている物語は、「まぶた閉じて浮かべているよ」とあるように、閉じられたまぶたの裏側にあるスクリーンに投影されている出来事のようだ。そしてすべてが、歌の主体《僕》の夢想であるようにも感じられる。

 純粋な響きの問題にも触れたい。「ないかな ないよな きっとね いないよな」の一節には、「な…」「な…」「…な…」の不在を強調する「な」の頭韻と、「…かな」「…よな」「…よな」の「な」の脚韻がある。「な」の頭韻には強く高い響き、「な」の脚韻には柔らかく低い響きがある。「な」の音の強さと柔らかさが、縦糸と横糸になって織り込まれているような、見事な音の織物になっている。
 この第2ブロックには、その話法にしろ、音の響きにしろ、志村正彦にしか為しえないような、極めて高度で複雑な表現が使われている。


2013年6月30日日曜日

「運命」なんて便利なものでぼんやりさせて-『若者のすべて』3 (志村正彦LN 36)

 これから何回かに分けて、『若者のすべて』の言葉を読むことに集中していく。今回は、第1ブロック、AメロBメロの部分の言葉を1行ずつ追っていきたい。
                          
 真夏のピークが去った 天気予報士がテレビで言ってた

 歌の話者であり主体である《僕》は、「真夏のピークが去った」という季節の推移から歌い始める。この季節は、夏がその光と輝きや暑さという感覚の頂きを過ぎて、終わりにかけてなだらかにその感覚を失っていく時節だ。また、何かが「去る」「去った」という感覚は、志村正彦が繰り返し描いたものだ。

 聴き手は夏が去り行く季節を背景にして物語が語られることを予想し、その物語を追跡しようとする。季節感を伝えるのは、志村正彦特有の感性だ。彼にとって季節は、歌を着想する導きのようなものだろう。季節とその移り変わり、それに対する感覚あるいは記憶、そのようなものと共に、ある情景が浮かび上がり、主体の想いがあふれ、言葉が動き、メロディとリズムが流れ、歌の世界が創り出されることが多い。

 しかしこの歌では、季節の推移を「テレビ」の「天気予報士」の伝える言葉で表現している。歌の主体《僕》自身の季節の感覚というよりも、テレビというメディアの他者からの伝聞として、夏の季節の推移を歌に登場させている。歌の冒頭から、物語の語り方は複雑であることに留意したい。
 また、この行からは、歌の主体《僕》は室内にいて、テレビの天気予報を見ているという日常的な光景が伝わってくる。

 それでもいまだに街は 落ち着かないような気がしている

 「それでも」とあるのは、夏のピークが去った時期にもかかわらず「いまだに」、「街」は「落ち着かないような気がしている」からだ。ここでは「ような」「気がしている」というような、ある種の迂回した言い方がされている。そして、夏の雰囲気がまだ濃厚に残る街で、《僕》は夏をまだ終わらせたくないようにもでもある。
 この場面で、歌の主体《僕》が室内にいて外の雰囲気を感じ取っているのか、あるいは、街へと繰り出してその雰囲気の只中にいるのか、は分からない。

 夕方5時のチャイムが 今日はなんだか胸に響いて

 夏の夕方、暑さや熱、湿気と空気の感触、街の気配と人の往来、その風景の中で「夕方5時のチャイム」の音が降りそそぐ。夏の街の「落ち着かない」ざわめきに対して、音色が時の区切りを告げる。

 歌の主体《僕》は、「今日は」と限定し、その音が「なんだか胸に響いて」と感じる。「なんだか」とあるように、その理由は《僕》にとっても曖昧なものかもしれない。また、なぜ胸に響くのかという問いに対する答えは、歌の言葉からは見つからない。明示的にその理由を伝えることは、歌の意味を限定してしまうので、そのような閉じられた解釈を志村正彦は避けたかったのだろう。あるいは、聴き手自身が自分の「胸に響く」ような、チャイムやその他の音色の記憶とそれに関わる出来事を想起できるように、聞き手にとって自由に想像できる余白を歌の内部に挿みこんだのかもしれない。また、「胸に響いて」の「て」という接続助詞も彼が愛用するものだが、この「て」はその後に余白を置くような効果がある。

 「夕方5時のチャイム」が鳴り響くことで、主体の胸にもある想いが響く。「夕方5時のチャイム」に直接結びつく想いなのか、間接的に導かれる想いなのかは分からない。ここではまだ語られることのない想いは、おそらく、《僕》が繰り返し想いだす、ある出来事に対するものだろう。また、「天気予報士」の言葉を聞き、街のざわめきのようなものを聞き、夕方5時のチャイムを聞く、というように、《僕》は「聞く」こと、聴覚に鋭敏であることにも気をつけたい。

 「運命」なんて便利なものでぼんやりさせて

 《僕》は、反復して想起する出来事を、「運命」という括弧つきの言葉に「なんて」「便利なもの」という形容を加えて表現している。私たちが運命的なあるいはそれに類する出来事(あくまでそう感じるという意味での)に遭遇したとして、それを表す他の適当な言葉が思い浮かばなかったり、その言葉によって説明して納得しようとしたりして、とりあえず、「運命」という「便利な」言葉を使うことがある。

 《僕》にとって、「夕方5時のチャイム」に直接あるいは間接的に関わる出来事は、おそらく「運命」を感じさせるようなことだったのだろう。しかし、《僕》は「運命」という言葉で言い表すことに何らかの抵抗や躊躇も感じている。結果として「運命」という言葉を使うことは、その出来事を「ぼんやりさせて」しまうからだ。この場合の「ぼんやり」は、本来は明確にすべきことを曖昧にすること、向かい合わないで遠ざけること、を指す。「ぼんやり」させることで、《僕》はその出来事を遠ざけてしまう。《僕》はまっすぐに歩むべき道を迂回してしまう。

 さらに言うと、「『運命』なんて便利なもので」と表現した結果、主体《僕》の心が変化して、「ぼんやり」したものに変わっていくという解釈も可能だ。この場合、《僕》は、ほんの少しの間、現実感を喪失し、白日夢のような心境に陥る。後半の歌詞の一節に「途切れた夢の続き」という言葉があることにもつながっていく。
 『若者のすべて』の隠された主題は、夢ではないだろうか。この夢は、若者の漠然とした夢でもあり、私たちが毎夜見る夢、無意識が紡ぎ出す夢でもある。

2013年6月26日水曜日

メロディの配置と物語-『若者のすべて』2 (志村正彦LN 35)

 この曲のメロディの配置は、『FAB BOX』所収のDVD『FAB MOVIES  DOCUMENT映像集』で確認することができる。『若者のすべて』のレコーディング風景を撮影した映像に、録音時に使った歌詞のプリントが映っていて、Aメロ等を示す符号も付けられている。今後の考察のためにも、その映像を参考にして、全詞を引用する。

1.A)真夏のピークが去った 天気予報士がテレビで言ってた
    それでもいまだに街は 落ち着かないような 気がしている

  B)夕方5時のチャイムが 今日はなんだか胸に響いて
    「運命」なんて便利なものでぼんやりさせて


    サ)最後の花火に今年もなったな
    何年経っても思い出してしまうな

 
    ないかな ないよな きっとね いないよな
    会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ


2 A)世界の約束を知って それなりになって また戻って

  B)街灯の明かりがまた 一つ点いて 帰りを急ぐよ
    途切れた夢の続きを取り戻したくなって


  サ)最後の花火に今年もなったな
    何年経っても思い出してしまうな


    ないかな ないよな きっとね いないよな
    会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ


  C)すりむいたまま 僕はそっと歩き出して

  サ)最後の花火に今年もなったな
        何年経っても思い出してしまうな


        ないかな ないよな なんてね 思ってた
        まいったな まいったな 話すことに迷うな


        最後の最後の花火が終わったら
        僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ

 
 前回触れたように『FAB BOOK』では「Aメロとサビはもともとは別の曲としてあったもので、曲作りの試行錯誤の中でその2つが自然と合体していったそうだ」と報告されているが、この2つとは「A・B・Cメロ」系列の曲と「サビ」部分の曲のことであろう。確かに、この2つはかなり異なる雰囲気を持っている。歌詞の内容もかなり異なる。
 「A・B・Cメロ」系列、歌の主体《僕》の《歩行》をモチーフとする系列は、現在を時の枠組みとして、現在の《僕》の想いを中心としているが、「サビ」部分、《最後の花火》の部分は、過去から現在へと至る時の枠組み、《僕》の回想、現在から過去へそして過去から現在へと至る《僕》の想いを中心としている。

 また、『FAB BOOK』の「最終段階までサビから始まる形になっていた構成を志村の意向で変更したもの」という説明から考えると、最終以前の段階では、「最後の花火に今年もなったな」あるいは「ないかな ないよな きっとね いないよな」から歌い出されていたと想定できる。
 「最後の花火」から始まるとしたら、聴き手は、いわゆる「花火物」と受け取ってしまうかもしれない。夏の花火の季節の出会いと別れというテーマは定型的なものであり、そのような歌は数多くある。聴き手はこれから展開される物語をある程度予想してしまうだろう。
 それに比べて、「ないかな ないよな きっとね いないよな」から歌い出される場合は、「ない」の連続の響きと「ない」対象を明示しない表現の巧みさが、聴き手に物語の展開を読み切れないような効果を与えるかもしれない。それでも、続く「会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ」から、物語の予想が始まってしまうだろうが。

 最終段階つまり現在の『若者のすべて』では、「真夏のピークが去った 天気予報士がテレビで言ってた」と歌い出される。この言葉からは、その次の展開が容易には予想できない。この一節は、物語というよりもそれを語る主体のあり方そのものを語っている。物語の端緒であり、物語の枠組みもそれとなく示している。
 まだ歌い始めの段階では、歌の主体は《僕》と名付けられてもいない。ある主体が、季節の変化を「テレビ」からの伝聞で聞きながら、同時に、「街」のざわめきも聞き取っている。この定型を離れた表現から、物語が語り出される。幾分かの謎と予感のようなものを持って、聴き手は物語の枠組みの中に入り込んでいく。『FAB BOOK』では「その変更の理由を『この曲には”物語”が必要だと思った』と、志村は解説する」と記載されているが、聴き手はその変更を了解できるだろう。

 志村正彦は、落ち着いた抑制した声と幾分かゆっくりしたテンポで歌い出す。一語一語、一音一音聴きとりやすい、言葉の譜割が的確で、自然な日本語の響きを持った美しい繊細な声が、『若者のすべて』の全編を貫いている。
 彼は、よく言われるように、ライブなどで音程が不安定な時もあり、「歌唱力」という尺度では評価が高くはないのだろうが、言葉を、その意味と響きを聴き手に伝えるという、「歌そのものの表現力・伝達力」という尺度からすると、かなり上手な歌い手だったのではないだろうか。